『歴史読本』2010年12月号は「戦国!最強の家臣団」という副題が載っており、「畠山七人衆」のことも載っています。
しかし疑問点も。たとえば義綱が追放された永禄九年の政変(1566年)以降、温井景隆が復帰し「畠山七人衆」が復活したと書かれている。その頃の七人衆とは「温井景隆・長綱連・平尭知・遊佐盛光・三宅長盛・長光連」としている。しかし、本当に「七人衆」なのでであろうか。
第一次七人衆(1551~1553)は、七人による連署があるので七人衆としての活躍が知られる。第二次七人衆(1553~1555)は本願寺の「天文日記」に、「以前の七人衆に加えたるもの也」という記述がある。しっかりと古文書で確認できる。しかし、仮に「第三次七人衆」があったとするならば、そのような連署や対外文書があるのだろうか。甚だ疑問である。
一方で、この本を読んで思ったこともあります。第二次七人衆は温井紹春(総貞)を支援する者ばかりであったこと。だからこそ、紹春を暗殺したことでほとんどの七人衆は反発し能登を出国することになり、義綱は畠山七人衆を解体することができた。
つまり、第一次七人衆のような両雄(温井総貞と遊佐続光)が並び立つような状態ならば、例えどちらかを排除しても、もう一方が政権運営上で大名専制政治を邪魔するはずであり、言わば第二次七人衆で紹春に牛耳られていたのは、能登畠山氏の最大のピンチであったわけであるが、ある意味で大名専制を確立する最大のチャンスでもあったわけである。
それを巧みに義綱が利用した、というのはなるほどすごい才能だなって思ったりする。義綱専制が確立した1555年当時、かつての実力者だった遊佐続光が、出奔から家中に戻って来たばかりであるから、家中の中で続光への味方が広がらず、実力を蓄えて大名に対抗するまで時間がかかり、結果義綱の専制政治を約10年にわたって許すことになると言えるのではなかろうか。