長谷川等伯が描いたとみられる日蓮の肖像画が、珠洲市正院町、日蓮宗本住寺に伝わっている、というニュースがあった。その時、宇野石見守(うのいわみのかみ)という人物の情報があった。
本住寺は戦国時代に正院周辺を支配した宇野石見守(うのいわみのかみ)が1559(永禄2)年に建立している。宇野石見守は能登の大名、畠山家の重臣であった長氏の家臣に当たり、東四柳史明副団長(金沢学院大美術文化学部教授)は「宇野石見守が本住寺の建立後、長氏と関係が深かった等伯に依頼して画像を描かせたのではないか」と伝来の経緯を見立てた。
上記はその新聞記事である。「宇野」と聞いてピンと来た。遊佐続光の嫡孫・景光は宇野姓を名乗っていることである。また、上記記事から宇野石見守は、珠洲郡の正院周辺を支配したとあり、遊佐続光の支配した珠洲郡若山庄とほど近い。また、1559年というのは、遊佐続光が能登に復帰して、若松庄を支配した時期である。つまり、遊佐家と宇野家がやっと繋がった。長家の家臣だからこそ、前田藩になってもお家を存続することができた。そして、最後に上杉を裏切って織田について斬首された続光の跡を継ぐために、宇野氏と養子縁組して存続を図った。
う~ん、なるほど。
本住寺は戦国時代に正院周辺を支配した宇野石見守(うのいわみのかみ)が1559(永禄2)年に建立している。宇野石見守は能登の大名、畠山家の重臣であった長氏の家臣に当たり、東四柳史明副団長(金沢学院大美術文化学部教授)は「宇野石見守が本住寺の建立後、長氏と関係が深かった等伯に依頼して画像を描かせたのではないか」と伝来の経緯を見立てた。
上記はその新聞記事である。「宇野」と聞いてピンと来た。遊佐続光の嫡孫・景光は宇野姓を名乗っていることである。また、上記記事から宇野石見守は、珠洲郡の正院周辺を支配したとあり、遊佐続光の支配した珠洲郡若山庄とほど近い。また、1559年というのは、遊佐続光が能登に復帰して、若松庄を支配した時期である。つまり、遊佐家と宇野家がやっと繋がった。長家の家臣だからこそ、前田藩になってもお家を存続することができた。そして、最後に上杉を裏切って織田について斬首された続光の跡を継ぐために、宇野氏と養子縁組して存続を図った。
う~ん、なるほど。