畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

「八王子市城郭めぐり~其の1~」

2008-08-22 22:02:23 | 歴史
 今回も日帰りで2つ城郭を巡ってきました。八王子市にある中世城郭「滝山城」と「八王子城」です。両方とも国指定史跡です。どちらも一度訪問したことはあるのですが、まだ歴史を見る目が育っていなかった頃(といっても現在でも見る目がないのですが…)で、たくさんのデジカメ写真とともに紹介します。


 まずは滝山城です。滝山城は山城ですが車でかなりのところまで登れます。ただし道がかなりせまく険しいので、セダンならやめた方がいいかもしれません。滝山城は滝山街道から車で入ることになりますが、私は「左入町」交差点の方から入ってきたのですが、比較的近い段階で「滝山城入口」の看板が…。滝山街道も渋滞しているし、いつもの入口じゃなくてこちらから入ろうかと思って行くとこれが大誤算。舗装していない道は段々険しくなり、最後には砂利道が水で削られて大きな段差になっている始末。これは危険と引き返そうとしたのですが、車を転回させるのがたいへん。狭い道で急勾配で、危うく愛車「能登号」を坂道でぶつけるところでした。ただしい入城口は上記の看板の場所です。間違えないように写真を撮っておきました。「丹木町三丁目」交差点の近くのこの道を入ります。


 道幅はこんな程度です。車でいけるところは舗装されていますし、この道ならば車5台くらい停まれる駐車場もあり、そこでの転回は容易にできます(車初心者は傾斜がキツイので注意。マニュアル車はキツイと思います)。


 城址は国指定史跡であり「都立滝山公園」となっているだけあって、そこそこ整備されています。草が伸び放題で歩けないなんてことはありません。また、写真のように案内板があってその横のポストみたいなところにA4サイズの案内パンフレットが置いてあります。訪問したらゲットを忘れずに(ポストは何箇所かあるので、その場所でなくても、次の場所であるかもしれません)。国指定史跡なのにA4裏表のプリント一枚と思ったりもしますが、無いよりはましです。


 滝山城は1521(大永元)年武蔵国守護代大石氏が築城し、後に後北条氏の氏照の手に渡っています。城跡には遺構がよく残っています。16世紀前半の城だけあって土塁・空堀で郭が覆われています。北条氏照が滝山城を廃棄して八王子城に移るのが天正年間中頃(1580年代)と言われるので、まあ時代的にも石垣のような石積みはみられないかもしれませんね。


 三の丸跡に駐車して歩いて進むと、千畳敷跡に出る。確かにだだっぴろい空間が広がっている。「千畳敷」と言われるだけあって確かに広い。ここから先に進むと城主居住した郭と思われる二の丸跡があるので、三の丸と二の丸に挟まれたここは家臣層が住んだところだろうか。


 この二の丸跡は滝山城内で最大の平坦地です。写真のように車5台くらい停まれる場所を作ってもまだ広い土地があります。また、他の郭への出入口が厳重になっているので(下の写真のように空堀もかなりの高低差がある)、城主の居館跡地か?と考えられているようです。



 二の丸から中の丸に行くところにかけて、はるか(10メートルくらい)下のところに謎の平坦地があります。結構ひろいところですが、パンフレットにも何も書いてありません。かなり低いところにあるので防御には不向き。食料庫?武器庫?いづれにしても敵に占領されたら困る。ならば寺跡かな?氏神とか?池跡かな?う~ん。発掘調査が進まないことにはわからないですね。


 ここは本丸の手前にある郭でかなりの広さをもっています。だからこそ戦時の拠点になるところです。二の丸が平時の拠点(城主の居館)とすれば、ここ中の丸は戦時の拠点(指揮系統の本部?)だったと思われます。城の北側方面は下の写真のように昭島市方面が一望できます。ここは滝山城の北端にあり、多摩川がすぐ下に流れているので、天然の堀としてこの城を守っています。



 復元された曳き橋を渡っていよいよ本丸へ。ん?曳き橋の横に説明板がありますね。

 滝山城も発掘調査やっていたんですね。こんな川原石を使った道の跡が出てきていたらしい。滝山城跡の発掘調査報告書などはないのでこの説明板でみるしかない。パンフレットにも載っていない。残念無念。


 さすが中世の城らしく、曳き橋を渡ると右曲がり左曲がりの枡形口がある。さらに土塁もあって、それらを登っていよいよ本丸跡へ。


 せっ、せまい。防御には適してますがそれにしても狭い。小さな建物なんかはあったと思いますが、居住をするには不向きですね。

 この本丸跡には霞神社という神社がありました。こういう城にはだいたいこういった建物がありますよね(七尾城にもあるし)。

 それから滝山城の石碑が2つありました。左のデカイ方の石碑は有名な人の文かなと思いきや、「八王子市長」…。しーん。

 滝山城の感想。「発掘調査をもっと進めてほしい」「発掘調査した部分は調査報告書を出そう」「発掘調査した部分はもっとしっかり復元しようよ」だから名城100選を八王子城にうばられちゃうんだよ~。まあ八王子市からしてみれば、昭島市側に近い滝山城より、市名の元となっている八王子城が名城100選に選ばれた方が何かといいんでしょうが…。次回「八王子市城郭めぐり~其の2~」では八王子城訪問をお届けします。


瀬能あづさ

2008-08-21 20:10:12 | 日記


 誰しも一番の青春時代は10代の頃であると思います。私にとっての青春は、中学~大学時代を過ごした1990年代です。昭和の時代が終わり平成が始まり数年たち、バブルも崩壊して日本の景気が落ち始めたあの頃です。ちなみに90年代はプロ野球セリーグではヤクルトスワローズが4度の優勝そして3度の日本一と黄金時代でした。
 90年代に聴いていた曲はいまでも暗記して歌えます。2000年代の今の曲は覚えられなくなってきたし年齢を感じます。さて、この90年代前半はその時代の自分は意識していませんでしたが、「アイドル冬の時代」と言われていたそうです。確かにおニャン子クラブが終わり(高井麻巳子のファンだった)、誰もが知っているSPEED(4人組ボーカルグループ)や安室奈美恵の登場まで5年ほど時間が空いています。しかし、そんなことは関係ないんです。私にとっては「おニャン子クラブ」や工藤静香、松田聖子の時代は小学生時代で燃えない(萌えない)のです。
 この「アイドル冬の時代」に誕生したアイドルグループ「CoCo」が、私が好きだったアイドルです。「CoCo」は5人組のグループでメンバーは瀬能あづさ、三浦理恵子(現在は「特命係長只野仁」なども活躍中)、羽田恵里香、宮前真樹、大野幹代だった。私はこの「CoCo」を、瀬能あづさのグループ内ソロデビュー曲「もう泣かないで」(1991年発売)のCDを買って知った。外見もカワイイし、応援ソング的な歌詞、そして何よりも彼女の歌唱力にはまった。
 今改めて「CoCo」の曲を聴くと、お世辞にもうまいとはいえない歌唱力。ハモリやコーラスも満足にできないグループだった。その中にあってひときわ目立つ歌唱力を持っていたのが、この「瀬能あづさ」さんです。「CoCo」の曲の中でも瀬能あづさのソロ部分だけは明らかに完成度が違うのである。当時「CoCo」中では、歌唱力随一の瀬能あづさ派とキャットボイスで甘い顔の三浦理恵子派でファンを二分していたという。(自分がコンサートに行ったとき、若干三浦理恵子派の方が瀬能あづさ派よりも多かった気がする)。
 その「瀬能あづさ」は、1992年に急転直下、事務所の方針で「CoCo」を卒業しソロデビューすることになった。当時のマスコミは人気アイドルグループの話題ということもあり、この話題でかなり騒がしかった気がする。
 この「瀬能あづさがCoCoを卒業」という事態に中学校の私は相当のショックを受けたのを覚えている。事務所としては、「CoCo」の話題提供に加え、存続する4人の「CoCo」と歌唱力のある「瀬能あづさ」とCDの売り上げ増加を狙ってのことでろう。「CoCo」で実績のある「瀬能あづさ」ならソロの新人歌手を売り出すように広告費もかからないだろうとの算段だろうか。
 当時「CoCo」のファンクラブに入っていたほどの熱の入れようだった私は、ファンクラブも「AZUSAクラブ」に移行した。
 ソロデビューした後「瀬能あづさ」は待望のソロのCDを発売(下記参照)。当然ファンの私は購入したが、感想は「イマイチ」だったことを記憶している。アイドルだった「瀬能あづさ」の幻影があるのだろうか。歌唱力を期待した割には3作目の「君のつばさ~だいじょうぶだから~」は、中途半端にアイドル色が残っている。次の4作目「あなたじゃなければ」はバラードだった。中学生の勢いづいている頃の私にはアップテンポ曲至上主義…、今聴けば彼女の歌唱力が生かされているのが感じられるのに、それも理解できなかった。そして、5作目「I miss You」。曲がそれまでのタイプとは違って、ロックっぽい感じのとても大人の歌だった。後で知ったことだが、アルフィーの高見沢氏が「瀬能あづさ」の歌唱力を評価し、作詞・作曲を提供した曲だった。この曲は比較的好きだった。よく聴いていたせいか、今でも歌詞を覚えているくらい。ただ、すごく残念だったのが彼女がセミロングの髪を切ってしまったことだ。CDジャケットには、短くなった彼女の姿が…。正直ショックだった。雰囲気が完全に変わってしまったのに戸惑った。私が中学生時代に購入した「瀬能あづさ」の最後のCDになった。
 今はとても後悔しています。6作目の「失恋カフェ」、そしてラストソングとなってしまった7作目「秋」も今聴くととても良いのだ。高見沢氏の作曲だからこの2曲ともとてもロックっぽい影響を受けている。今2chなどをみても後半三曲は評価が低いが、彼女の歌唱力を生かすにはとってもいい曲だと思う。この3曲は彼女の歌唱力を最大限に生かすため、低い音が中心で構成されている。だからこそ彼女も全力で録音できたことだろう。「You Tube」で「瀬能あづさ」の「秋」を聴くと、こぶしを効かせまくっておりサビ部分で力が入り過ぎて上ずってしまうくらい。
http://jp.youtube.com/watch?v=Bq4z2IBRXI0
↑の2:17あたりのところ。
 中学生の頃、この彼女の曲の良さが理解できなかったことを悔やむ。おそらく、「CoCo」のファン層であった人たちは「瀬能あづさ」の歌唱力を理解できていなかったのかもしれない。ソロデビュー後もアイドルとして見続けており、歌唱力重視へ脱皮したい彼女や事務所の思惑とはズレていったのかもしれない。
 1995年芸能界引退を発表。翌年横浜ベイスターズとの婚約を発表(これも当時の私はショックだった)。そして、2000年離婚。これを期に芸能界復帰をして欲しかったが動きなし。ただ2003年に自主制作のCDを発売したとのうわさを後年聞いた。手に入れたがったが、時すでに遅し。2004年には何を思ってか「セミヌード写真集」を発売。30歳を越えた「瀬能あづさ」がキレイなままであることに嬉しかったが、青春時代の思い出はキレイで清純にとっておきたい。
 2008年思い立って「瀬能あづさ」を調べると(前にも何回か調べたのですが)、今年に入ってこんなCDが発売されていることを知る。
「Myこれ!チョイス 25 Crystal Eyes+シングルコレクション」
http://www.amazon.co.jp/My%E3%81%93%E3%82%8C-%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A4%E3%82%B9-Crystal-Eyes-%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3/dp/B0018RPQ8A
 なんと今年ではないか!しかもファーストアルバムの「Crystal Eyes」にシングルCDが全部ついた全18曲で2100円。しかも発売日は2008年7月と先月のこと!これは買うしかないと思い立ち購入しました。彼女のアルバムジャケットのまばゆいばかりの可愛らしい表情が、私の青春を思い出させます。
 このCDにアイドル系ライター斉藤貴志氏の「瀬能あづさ」に関する記事がある。以下転載。
「(前略)もともと歌唱力に定評があり、当時のインタビューでは「私のことを知らなくてもいい。とにかく歌を聴いて欲しい」と言っていた彼女。時はアイドル冬の時代の90年代。そもそも本人は“アイドル”というポジションからも抜け出そうとしていたのだろうが、逆風の中、こぶしを握って突き進むジャンヌ・ダルクさえ思い起こさせた。アイドルポップスの世界では、10代の女の子らしい清純さや元気さは数多く歌われてきた。だが、歌で“聖少女”を思わせたのは、瀬能あづさただ1人である。」

<瀬能あづさ関連リンク>
http://www2t.biglobe.ne.jp/~hi-taka/coco/index.html
http://f61.aaa.livedoor.jp/~azusa/
現在公式サイト・ブログなどはなし…。(元「CoCo」の他のメンバーはあるのに…)

<瀬能あづさの発売CD>(ウィキペディアから転載)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E8%83%BD%E3%81%82%E3%81%A5%E3%81%95
ディスコグラフィ

シングル

1. もう泣かないで(1991年9月4日)
* 作詞:三浦徳子、作曲:羽田一郎、編曲:佐藤準
* テレビアニメ「らんま1/2 熱闘編」のオープニングテーマ。
2. 見つめていても(1992年1月15日)
* 作詞:三浦徳子、作曲:羽田一郎、編曲:船山基紀
3. 君の翼~だいじょうぶだから~(1992年6月3日)
* 作詞:三浦徳子、作曲:羽田一郎、編曲:佐藤準
* CoCo脱退後初のシングル。
4. あなたじゃなければ(1992年10月21日)
* 作詞:三浦徳子、作曲:中崎英也、編曲:上杉洋史
5. I Miss You(1993年2月19日)
* 作詞:高見沢俊彦・三浦徳子、作曲:高見沢俊彦、編曲:武部聡志
6. 失恋カフェ(1993年6月18日)
* 作詞:高見沢俊彦、作曲:高見沢俊彦、編曲:武部聡志
7. 秋(1993年12月1日)
* 作詞:高見沢俊彦・三浦徳子、作曲:高見沢俊彦、編曲:中村哲

アルバム

1. Crystal Eyes(1992年8月21日)
2. Horizon(1993年7月21日)

国立歴史民俗博物館へ行って来ました~其の6~

2008-08-20 20:16:34 | 歴史

番外編→佐倉城址見学の巻


 これ、何の写真だと思いますか?どうみても階段ですよね。しかもコンクリート。これは江戸時代の遺跡ではありません。戦争遺跡です。なんでも軍が高いところから飛び降りる訓練に使ったそうです。この階段の後ろに木製の階段がついていたのですが、それは撤去されて壊しにくいコンクリート部分だけが残ったようです。一番上まで上るとだいたい建物の2階分くらいの高さがあり、ここから飛び降りるのは確かに勇気が要ります。なるほど、戦争では階段がないところも多いのでこういう訓練が必要なんですね。
義綱「城跡って軍関係や公共施設が多い気がしません?」
先輩「だって城って守りやすい地形にあるから防御にはぴったりだよね。それに、公用地として接収しやすいでしょ。城跡なんて民間利用しようがないしさ。」
なるほど。現代になって城の歴史価値がやっと見直されて、公共施設の移転(金沢城跡の公立高校移転後、城が部分復元されている)などにつながっていますね。


 それにしても今日は暑い。「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)館内にいるときはエアコンでよかったが、外は暑い。汗が吹き出る。それに城址公園はとても広くて緑が多いから薮蚊が大量に寄ってきてなかなか離れない…。そんな中カワイイ光景を発見。看板にカエルがへばりついている。きっと日陰にある鉄板が涼しいのでしょう。動物は夏に冷たいところを探すのが得意です(現在うちにいる猫もそうです)。


 佐倉城址は近世城郭なのであまり興味はないのだが、遺構がよく残っている。これは郭から下にいく入り口である。人口的に作った出入り口がこの遺構だけでも十分にわかる。


 本丸までに行く二の門あたりに幕末の老中・堀田正睦(ほったまさよし)公の像がありました。ペリーが来たときの老中首座・阿部正弘の後を受けて老中首座となったのがこの堀田正睦である。実はこの堀田。その前にも老中になっています。中学・高校で習う天保の改革・水野忠邦の時代です。誤解されがちですが、老中というのは一人ではなく4人~5人いるのが普通です。その中で老中首座が老中の筆頭として権力の中心になるのです。天保の改革の時にはもちろん老中首座は水野忠邦でした。天保の改革は諸大名の反発が強くわずか2年で失敗に終わります。この時堀田も一緒に老中を罷免されました。彼が再び政治の表舞台で脚光を浴びたのは幕末でした。彼が老中首座の間、日米修好通商条約交渉問題、南紀派と一橋派の将軍継嗣問題など大きな問題が山積でした。結局、条約問題では不平等条約を結んでしまうし、将軍継嗣問題では一橋派についたためやめさせられてしまうなど、その行動から以前は堀田を「無能の指導者」と評する動きが多かったのですが、最近は変わってきました。もとよりの蘭学好き・開国論者であり、混乱期幕末の幕府外交を一手に支えたわけです。結果はどうあれ評価する部分は当然だと思います。で、その堀田の銅像がなぜあるかというと、彼は佐倉藩藩主だったそうなんです。へぇ~。堀田の外交相手となったハリス像もありましたが、強硬・わがままハリスは義綱嫌いなのでアップもなし。
義綱「異人なんて認めん。日本は神国。夷荻との貿易なんてもってのほかである!」
先輩「あれっ?義綱さんは佐幕派じゃないの?だったら開国派でしょ?それじゃあ尊皇攘夷じゃん。」
義綱「……。次行こう!」


 本丸に入る一の門には、豪華な門があったらしい。建物の柱らしい箇所が写真用にコンクリートで表されています。さすが近世城郭。門もデカイ。

 ここ佐倉城は近世城郭にしてめずらしく土塁であり、石垣は使われなかったそうだ。そんな近世城郭もあったのね。

さあさあ、約一時間も佐倉城址を周りましたので、そろそろ足も疲れてきたので帰りましょう。
これで日帰り「国立歴史民俗博物館」レポートを終わります。みなさんもここ訪れるなら見所いっぱいですので、朝早いうちに着いていた方がいいと思います。佐倉城址は歴博の閉館後が効率良いと思います。ああ!おもしろかった!


国立歴史民俗博物館へ行って来ました~其の5~

2008-08-19 18:20:28 | 歴史
国立歴史民俗博物館の展示室は以下のような構成となっています。

第1展示室…古代(縄文~奈良)
第2展示室…中世(平安~安土桃山)
第3展示室…近世(江戸)
第4展示室…民俗
第5展示室…近代(幕末~大正)
第6展示室…現代(2010年3月まで改修中)
そして、企画展示室。

 これだけの展示室が「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にはある。9:40に到着して第1、第2、企画展示とみて来たが、もうすでに時間は16:00。第3、第4、第5の展示室のうち閉館時間の17:30まで比較的ゆっくり見ることができるのはあと一箇所くらいである。とりあえず今いる企画展示室から一番近い第5展示室・近代へ。

 写真を撮るのを忘れていましたが、第5展示室で一番最初に私が驚いたのが「サムライがエジプトのスフィンクスの前で記念写真」でした。
義綱「江戸幕府の侍がエジプトに!?」
先輩「この写真は、幕府がパリの万国博覧会に出品した帰りにエジプトに寄って撮ったものだよ。」
ああ~!確かに受験勉強の時に幕府が万国博覧会に出品したとか覚えたわ~。さすが先輩。中世ではなんとか知識に差は無いかもしれなけど、それ以外の時代になると圧倒的な知識量の差。先輩尊敬します!
次に目に飛び込んできたのが「明治政府の遣欧米使節団の天皇の委任状」。明治初期、日本が結んだ不平等条約の解消を目指して交渉しようと思った明治政府は、元首である「天皇の委任状」がないと交渉できないと言われて、慌てて取り寄せたというもの。
先輩「明治政府の人たちは、薩長中心の今まで国政を担ったことない人たちだからこういう失態を犯したんだよね。もし、委任状が無いなら無いなりに交渉もできたはずだけど、外国にうまく丸め込まれちゃったんだね。これが幕府ならこういうことにはならなかったろうね。幕府は官僚だからこういった世界事情に通じていたからね。」
すごくなるほど!と思った。確かに幕府の官僚はペリーが来たときにアメリカ大統領の国書を受け取っている。米国元首の国書を持っているペリーの一行は、正式な使節であると認められたわけで、それを受け入れば正式な国と国との交渉を始めなければならない。だから国書を受け取ることに幕府は悩んでいたわけね。そして、国書を受け取らせたペリーが何の成果もなしに一年間の返事の猶予を与えて帰国したことも不思議に思っていたのですが、これで解決。すなわち国書を受け取る=正式外交の開始を示すもの。それだけでも十分成果があったわけですね。幕末の幕府官僚というと、勝海舟の影響か「幕府は弱腰で、外国相手にどうにもならん」というイメージがあったのですが、どうやらそのイメージも固定概念のよう。よく調べると、日米和親条約交渉の時もペリーを相手に幕府官僚は(かなり不利な条件になりそうなのを)うまくかわしているし、万国博覧会の出品しかり、本当は世界事情に通じていたからこそのペリー開国劇だったわけだ!


 これは明治時代の小学生に与えられた紋章みたいなもの。就学児童にはこれを渡してつけさせて、未就学児童と区別し就学率をアップさせようとしたものだそうです。明治政府と言えばなんでも上からの「あれやれ!これやれ!」と言いそうな気がしますが、こういう物でつったりしてなりふりかまわず就学率を上げていたんですね。


 これは横浜港の模型の写真です。写真ボケでよくわからないかもしれませんが現在でもある「赤レンガ倉庫」が写っています。開国・文明開化で日本は近代的な国に生まれ変わりましたが、それと同時に多くの格差社会やひずみを生み出したわけです。その一例が歴博の展示にありました。まずは部落差別問題。「身分解放令」によって平等になったはずの江戸時代の「えた・ひにん」の身分の人たち。しかし、明治政府は差別対策をしなかったため、その後も差別は続いたというのは中学・高校で習ったと思います。具体的な差別として、歴博の展示で「被差別部落民への差別戒名」というのがありました。明治期になっても差別された人たちは、動物を表す「畜」やいやしいという意味の「卑」など、差別的な戒名をつけられました。
先輩「死してまでも差別され続ける…。本当にひどいよね…。」
 次は北海道開拓問題。アイヌへの差別「旧土人法」、開拓には屯田兵や旧幕府方だけでなく、囚人も利用されたこと。囚人は悪環境の下、鉄のおもりを足に結ばれたまま開拓作業をさせられた…。教科書の重要なところには取り上げられないところに真の歴史のおもしろさや残酷さがあると痛感させられます。


 写真は、大正時代に建築された「同潤会アパート」の台所。今で言えば六本木ヒルズのような最新の住まいです。水道・ガスの完備など、西欧化もようやく民衆に根付いてきたのがこの時期です。ちょうど政治も大正デモクラシー・憲政擁護運動を経て立憲政友会と立憲民政党の二大政党による「憲政の常道」で、安定化していく時代でもあり、日本型の文明開化が完成した時期とも言えるでしょう。

 この写真は、大正~昭和初期の町並みを部分復元した展示の写真です。このような本格的な復元を見ようと思えば次の2つの施設がお勧めです。
「江戸東京博物館」(両国)
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/
「江戸東京たてもの園」(東京都小金井市)
http://www.tatemonoen.jp/
 たっぷり近代の雰囲気を味わうことができました。さて現在時刻17:15!閉館まであと15分なのに、第3展示室・近世へGO。


 15分では当然ゆっくり見ることもできません。私が時間がない中注目したのは、日本と海外の貿易でした。江戸時代初期、日本の輸出のほとんどは銀でした。その為貿易赤字となり幕府の財政も悪化していきます。古典的な政治経済学者の新井白石は貿易の抑制を考えますが、先進的な経済学者(?)である老中・田沼意次は中国へ俵物の輸出を始める。俵物とは、ナマコやフカヒレや海草などの海産物を俵に詰めたものである。今も昔も中国はグルメ大国。食べれるものは何でも食すというお国柄。それを利用して製品輸出の拡大と赤字減少をさせた田沼はエライ!(賄賂はよくないけどね。まあ大分県の教育委員会もやってるしなぁ~。)
 残念ながら閲覧者は私たち2人しかおらず、学芸員が閉館作業を始めている中ゆっくりみることもできなかった。そして17:30ちょうどに展示室を出る。17:02に歴博ロビーに行くと、書籍販売コーナーももう閉店。まだ2分しか経っていないのに…。
 ロビーには夏休みらしく親子連れなど子どもが比較的多いように思える。小学校3年生の男の子が「もうちょっとみたいよ~」と父親にせがむ。歴史好きの父親にとってはガッツポーズしたいくらいの嬉しい言葉でしょうね。連れて来た甲斐がありますよね~。私もそんな風に我が嫡男にいってもらいたいが、我が正室(妻)には「あなたとお義父さんも歴史好きだから、やっぱうちの子も歴史好きに?やっぱり、歴史より将来の職業に役に立つ理系を勉強しようね。」という。ふん。環境も大事だが遺伝は強い。妻も理系はずば抜けてできたわけではない。やっぱりこの子は文系に育つだろうなと思っている。閑話休題。

先輩「ねえ。佐倉城址もちょっとみてかない?」
歴博がある場所は、江戸時代に佐倉城あったところである。っていうことで、小一時間ほど佐倉城址見学をした。以後次回。

国立歴史民俗博物館へ行って来ました~其の4~

2008-08-18 15:03:42 | 歴史
 さて、レストラン、お土産コーナー、書籍・図録販売コーナーで時間を消費してしまったので急いで次へ。レストランで話した通り「企画展示コーナー」へ行くことにしました。
 「江戸の旅から鉄道旅行へ」の企画展示の一番最初は江戸時代ではなかった。何と1563(永禄6)年から始まるのであった。「永禄六年北国下り遣足帳」の展示であった。これは事前に予習していたから小島道裕氏の研究成果だとすぐわかった。室町時代の京都醍醐寺から僧侶が東北南部へ向けて旅した時につけていた小遣い帳が「永禄六年北国下り遣足帳」である。これを丹念に見ていくと、宿屋は一人24文とほぼ全国定額で泊まっており、旅行中昼食を食べたり、酒を飲んだりしている様子がこの帳から伺える。すなわち、室町時代は戦乱の世ゆえ、旅行するには危険だ、というのは固定概念であり、一般の人が旅行する旅籠(旅館)や道などがすでにかなり整備されていた、という研究発表である。
詳しくはこちらでみれます↓
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/kojima/kensokuchou.html#1
↑が難解でもうちょっと優しく!という方はこちら↓
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/kojima/journey.html

次は江戸時代の展示である。

旅の楽しみといえば、今も昔も変わることなく、やはりその地のおいしい食べ物である。写真はぼやけてみにくいが、川崎宿(現・神奈川県川崎市)の名物「奈良茶飯」である。なぜ川崎宿なのに「奈良」がと思いましたが、画像ボケしてみにくいかもしれませんが写真左上にあるのがおそらく奈良漬だからでしょう。手前左は茶飯。手前右はあさりのみそ汁。その他にも目川宿(滋賀県栗東市)は菜飯と田楽豆腐、草津宿(滋賀県草津市)姥ヶ餅の復元食品サンプル(?)が展示されていました。これらは安藤広重の「東海道五十三次」の絵で名物として描かれていたもの。これらの復元サンプルは豊橋市二川宿本陣資料館に展示されたものの複製らしいです。ここにも行ってみたくなったなぁ。ってゆーか、食べたばかりなのにお腹空いちゃった…。
http://www.toyohaku.gr.jp/honjin/
 企画展示の「江戸の旅」の方は、後は東海道・中山道・甲州街道図屏風(篠山市立歴史美術館蔵)の展示や、個人の旅記録類を展示・紹介してあった。江戸時代は詳しくないので、「ふーん」という感じで見ていった。
 企画展示の「鉄道旅行へ」は、先輩が言ったような「鉄マニ」を満足させるようなものではなく、やはり歴史好きのためのものでした。私はおそらくSLや駅の昔写真などを展示するのかな?と思っていましたが、よい意味で意外でした。鉄道をメインにした明治・大正・昭和初期の旅行案内・観光案内つまりパンフレットを展示してあったのです。大正10年に製作された「東海道パノラマ地図」なんかは現代のものと見まがうほどのできばえ。地方出身者のために作られたのか『だまされぬ東京案内』(大正10年刊)という題名の本。東京の人口など、こんな情報いるの?ってほどのことが書かれているらしい。大正年間も東京に観光にやってくる人、そして就職で東京に出てくる人が多かったのでしょう。今と変わらないですね。それから『実地調査大震大火の東京』(大正11年刊)という本。関東大震災の状況を書いた個人の本です。表紙が凌雲閣(浅草12階)で、この著者一氏義良氏は悲惨な爪あとの残る東京をどのような気持ちで歩いたのか、ぜひその本を見てみたかった。古書店によると同本は現在7800円で売られている。予算の制約上室町期以外で多額の投資はできぬ…。昔の色々なパンフレットをみてかなりおもしろかった。『企画展示の図録』のエピローグにこんなことが書いてある。「旅行がどのように変化しても、観光旅行では一つでも多くのものを見たいという気持ちは今も変わらない。知りたい見たいという欲求が今日の日本をつくり上げる原動力となり、海外旅行での見聞なども巧みに日本は同化させてしまっている。」と結んでいる。私は能登の中世史を勉強するには能登の事を知るだけ、能登に旅行するだけで十分だと思っていた。しかし、それはまったく違う。他の地域のことを知って、さらに旅行することで改めて能登のことを見直すことができるのである。周りのことを知った上で能登と比較する。それが一番大切なのだと思った。これからも「能登の歴史を知るために」全国に旅行に行って見聞を広めていこうと思う。まだ私は海外旅行に行ったことがないのだが、やはりそろそろ海外の見聞も必要かな…。
 企画展示は、すぐに通り過ぎるはずがやっぱり1時間ほどいた。時間は16:00で、閉館まで後1時間半。とりあえず第5展示室の近代に行くことにした。