<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

さぶろうの視野は悲しや 視野狭窄

2014年09月01日 15時05分32秒 | Weblog
さぶろうの視野は視野狭窄である。覗き窓が狭い。

よって、見えていない。よって、このブログに載せることが乏しい。

やれやれ、乏しい貧しい店先だ。

でもしょうがない、しょうがない。広めようという努力もしていないのだから。



昨日、プランターに育てていたエンツアイ(空心菜、台湾ホウレン草)を収獲した。たくさん収獲したので近隣にもお分けした。

「ここのところ雨続きで、野菜が高値なので、こんなにたくさんありがたいです」と言って喜んで下さった。

エンツアイの跡地に、秋野菜の種、チンゲンサイを蒔いた。日々、こんなことをして楽しんでいるのだから、知識の収獲はゼロである。
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夕食は初物のサンマの塩焼き

2014年09月01日 14時56分03秒 | Weblog
我が家の夕食はサンマです。初物です。サンマは高値なので一尾をみんなで分け合って食べます。もちろん塩焼きです。檸檬を垂らして食べます。
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死んだから生まれたのだ

2014年09月01日 14時26分57秒 | Weblog
死んだから生まれたのだから、死を恐がったりしなくていいのです。次へ次へと続いているのです。次へ次へ進んでいるのです。ですから、進んでいく先々を楽しみにしていていいのです。今生で終わってしまうかのように急ぎ働きはしなくていいのです。ゆっくりゆっくりしていていいのです。仏さまより偉くならずにいいのです。答がすぐに出るわけではありません。結果がすぐ出てしまうような短い半径を回ってはいません。慌てなくていいのです。それをしてこれをしてわたしたちは学んでいます。すべてから学べるようになっているからそうしているのです。でも、何が何でも学ばなくてはいけないなどと堅苦しく考えないで下さい。遊んでいてもいいのです。大小、楽しんでいればそれでいいのです。進んでいくための燃料はわたしが買い求める必要はありません。すべて頂き物です。それは、死ぬための燃料も生きるための燃料もすべて頂き物だったこととまったく同じです。生まれたら死にますが、死んだらまた次に生まれることができるのです。生き死にの燃料は調達されます。心配はしないでいいのです。安心をしていていいのです。人ごとみたいにして、にっこりしていていいのです。

(さぶろうはほとんど口から出任せを言っていますから、真実味はあまりありません。でも、わたしたちは仏さまの世界を生きているので、一部始終、安心をして暮らしていいのだ、ということを大声でいいたくたならないようなのです。さぶろうは、こうであったらいいというようないい加減を言っています)
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わたしのいのちはエンドレスです

2014年09月01日 13時59分15秒 | Weblog
わたしはエンドレスです。無量寿(量ることができない寿命)というのはそういうことです。無量寿仏は、それを悟ることができたので、そこで成仏したのです。

エンドレスというのは切れ端がないということです。生きているいのちには切れ端がありません。

切れ端がないということは、始まりがなく終わりがないということです。円相円空です。

ぷつんぷつんと切れたりはしないのです。死んだくらいで切れたりはしないのです。

ぷつんと切れていたら、第一、わたしはここに生まれて来てはいません。

わたしのいのちは仏さまが回しているモーターの長い長いエンドレスのロープです。

仏さまのハートを行ったり来たりして回っています。これがわたしのいのちの活動です。

太陽のまわりを回るのが太陽系の星々なら、わたしは仏さま系列の星々のいのちです。

仏さまへ行き着いているときにはわたしの肉体は要りませんから、そちら側では死んでいるように見えています。

わたしが仏さまとがいっしょでいるから、仏さまは無量寿仏です。つまり、わたしが無量寿の仏さまの活動を具体化しているのです。

これは釈迦牟尼仏が霊鷲山(りょじゅせん)でわたしにお説きになったことです。心配はいらないのです。すべからく安心をしていていいのです。
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外なる宇宙は内なる宇宙の大きさに等しい

2014年09月01日 13時44分25秒 | Weblog
外なる宇宙は
内なる宇宙の
大きさに等しい

内なる宇宙は
外なる宇宙を
呑み込んでいるのだ

内なる宇宙は
不活発ではない
決して不活発ではない

外なる宇宙の活発を
うながしているのは
内なる宇宙なのだ

内なる宇宙の主体者よ
あなたはじっとしていながら
それでたしかな活動家である
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死は生の 風の戦(そよ)ぎ

2014年09月01日 12時41分13秒 | Weblog
里芋の葉っぱに青蛙が乗って喉をひくひくさせている。
風が来てこれを揺らす。
おお、お前さんはここにござったな。三郎が声を掛ける。
里芋は赤芋。葉っぱはでっかい。人の顔の3倍4倍はある。
青蛙はちょっこんとひとりでいる。吸盤で吸い付いている。
ひくひくひくひくひく。呼吸をする度に喉が動く。

おれがまだ生きていてそしてそこそこ元気だった頃、
おれは里芋の葉っぱの上の青蛙に声を掛けたことがあった。
その青蛙がその当座すでに菩薩の位を得た居たとは、
おれは知らなかった。
あれから千年経ったが、おれは今日もまだ一介の比丘である。

相変わらずおれは修行を続けている比丘である。
死んでも生きても修行は続く。
死者は死んだ後を生きていない、そうとしか思っていなかったが、
それが軽はずみな判断であったことを
おれはいま恥じている。
死は生の葉っぱの風の戦(そよ)ぎほどのことだったのだ。
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恋は「来い」か 人を呼ぶ

2014年09月01日 12時04分11秒 | Weblog
恋というこころの贅沢をしてみんと憧れつつも、贅沢かなわざりければ、人のする恋の歌を取り上げて、さぶろうはさぶろうを慰むべし。「恋」はただ「来い」と呼びたつるものにしあらむ。どうかわたしのもとにお出で下さいと言ふ人あれば、よからんものを。



夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ    大伴坂上郎女  万葉集巻八

夏草は繁る。野に出てみれば、野の小径すら見えないほどに繁茂している。そこに小さな姫百合が咲いている。姫百合は赤い花を咲かせるが、あたりの大草に隠れて見えない。小径を辿って来る人、わが愛しい人が、これに気づいてくれることもない。わたしはわたしを行き過ぎて行くその人の背中を追うだけ。摘んでもらえない苦しさを酌量してさえもらえないのだ。

女性は美しい。美しい女性が美しく咲いて、そこに埋もれたままでいれば、誰かに発見してほしいと切望するだろう。発見するのは男性の役割である。

夏の山鳥はけたたましく山を鳴き渡っておのれの在処を知らせる。秋の虫は一晩、おのれの男性を鳴いて知らせる。雌は、雄の主張を聞いてこれを選択する優位性を発揮する。ヒト属は、互いに歌を詠んで、これを知らせ合うのだが、大伴坂上郎女は、夏の野の繁みに己を隠すばかりで、「来い」とも言わず、しとやかな大和撫子を通したのであろうか。

人を呼ぶ声を聞く耳あるものをわが郎女(いらつめ)は覆うがごとし   李野うと

わたしのよき人は耳を覆っているばかり。わたしはあなたをしきりに呼んでいるのに。
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ストップにはストップ専用の、こころの財あり

2014年09月01日 11時48分48秒 | Weblog
「病む」は「止む」でもある。病んだら、そこで立ち止まることができる。全速力で走り抜けていくばかりでなくともいいはずである。立ち止まって、あたりの風景をじっくり見渡してみる、それもこころの財を富ませてくれるはずである。走ることに意味があるとすれば、止まることにも同等の意味が隠されているのだ。元気いっぱいにしていられる時間と同量くらいの楽しみというのも見いだされうるはずである、病まざるを得ずに病んでいる時間にも。前進ができずにそこで立ち止まらせられている時間、止まった時間を、ただ屈辱とのみには受け取らなくてもよさそうだと思うのである。

走っていないものはたくさんある。木も草も走ってはいない。山も山道も、鉄橋もトンネルも走ってはいない。彼らは他者を走らせることに長けているのだ。
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これもまた凄技ではないか

2014年09月01日 10時48分44秒 | Weblog
さぶろうは怠け者である。朝食をすませてすぐに再び布団に潜り込んで、ぐうぐう朝寝を貪った。超のつくぐうたらである。そうしている間に、雨が止んで日が射してきた。薄日だ。気温はそれほど高くない。これなら農作業ができそうだ。その前に、自転車屋さんに行かねばならない。自転車が故障をして昨夕はサイクリングができなかった。これで身体がなまった。なまった身体が選ぶのは怠惰である。

何かをしているってことが、さぶろう、おい、生きているってことなんだよ。お前のようにぐうぐうたらたらしているような男は、この条項に背いているんじゃないか。さぶろうは自問する。だろうな、と思う。せっかく生きているのだ。生きているということは、だ、生きていられる条件をすべて満たしているからなんだぜ。満たしておきながら、それを行使しないとは勿体ない話じゃないか。

そうなんだ、日一日死なねばならぬ特別の日がひたひたひたと近づいて来ている、これは間違いのないことなんだ。その日になって、「どうかもう一日の猶予をください」などと頼み込んでも、このぐうたら男の依頼は聞き止めてはもらえまい。浪費に浪費を重ねてきたからである。無駄にして来た日が堆く積もっているような男には、更にもう一日は無用だろう。

ではどうするか。有用にすることである。生きている日にしかできないことをすることである。

怠け者のさぶろうは自問自答をする。そして閻魔さまに対するグッドアンサーを思いついた。「へえ、さぶろうは、自分では一つも有効打を打たずに参りましたが、これには訳がございます。人様のヒッテイングをじっくりと見させてもらって、これを堪能して、それで安んじておりました」と。然りではないか。己は打席に立たないでも、人の活躍を喜んで見ていられる、これもまた凄技ではないか。
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