尽十方無礙光如来という如来さまがいらっしゃる。十方とは東西南北の四方とその中間の四隅、それに上下を指す。尽十方とは、だからどちらを向いてもオールラウンドに、ということである。無礙は邪魔する物がないということ。如来はタターガタ、如の真如界より来たれる完成者。仏陀と同義だ。この如来は尽十方に無礙の光を放射している。妨げるものが一切ないので、もちろんわたしにもこの光は放射してきている。よって、わたしがこの如来と関係性を保っている。しかも一直線だ。だからよそ事ではない。人ごとではない。あなたとわたしという関係性を有している。この如来は阿弥陀如来の無量光という面をいうときの別称である。無量寿が時間的に永遠であるのに対して、無量光は空間的に永遠である。縦と横の、横のハタラキである。わたしが何処に居ても、近くに居ても遠くに居ても、わたしを照らし続けている如来である。如来の働きかけである。如来はわたしを照らし、わたしは如来に照らされている。これが永遠にわたってそうで有り続ける。わたしは照らされている存在である。如来に照らされ続けている存在である。これは不変だ。だからわたしは照らされて居さえすればいいのである。(如来を)照らすというアクテイブな積極性は求められていないことになる。わたしが如来に照らされているということが、即そのままで如来のハタラキを肯定しているのである。両者の間に一方通行はないのだ。
「無礙光」
わたしは照らされていればいいのだ
それがそのままで
照らしていることにもなるのだ
これで
尽十方無礙光如来の
無礙光が成立するのだ
照らされているわたしを得て
滞りなく豊穣に成就するのだ
「無礙光」
わたしは照らされていればいいのだ
それがそのままで
照らしていることにもなるのだ
これで
尽十方無礙光如来の
無礙光が成立するのだ
照らされているわたしを得て
滞りなく豊穣に成就するのだ