<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

照らすのはわたしではない 照らされるだけでいいのだ

2014年09月02日 13時22分26秒 | Weblog
尽十方無礙光如来という如来さまがいらっしゃる。十方とは東西南北の四方とその中間の四隅、それに上下を指す。尽十方とは、だからどちらを向いてもオールラウンドに、ということである。無礙は邪魔する物がないということ。如来はタターガタ、如の真如界より来たれる完成者。仏陀と同義だ。この如来は尽十方に無礙の光を放射している。妨げるものが一切ないので、もちろんわたしにもこの光は放射してきている。よって、わたしがこの如来と関係性を保っている。しかも一直線だ。だからよそ事ではない。人ごとではない。あなたとわたしという関係性を有している。この如来は阿弥陀如来の無量光という面をいうときの別称である。無量寿が時間的に永遠であるのに対して、無量光は空間的に永遠である。縦と横の、横のハタラキである。わたしが何処に居ても、近くに居ても遠くに居ても、わたしを照らし続けている如来である。如来の働きかけである。如来はわたしを照らし、わたしは如来に照らされている。これが永遠にわたってそうで有り続ける。わたしは照らされている存在である。如来に照らされ続けている存在である。これは不変だ。だからわたしは照らされて居さえすればいいのである。(如来を)照らすというアクテイブな積極性は求められていないことになる。わたしが如来に照らされているということが、即そのままで如来のハタラキを肯定しているのである。両者の間に一方通行はないのだ。

「無礙光」

わたしは照らされていればいいのだ
それがそのままで
照らしていることにもなるのだ
これで
尽十方無礙光如来の
無礙光が成立するのだ
照らされているわたしを得て
滞りなく豊穣に成就するのだ
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植物は元気だ。健康だ。肖ろう。

2014年09月02日 12時17分59秒 | Weblog
さぶろうの書くのはみなフィクションである。だから虚仮である。真実味はない。こうであったらいい、というところを書いているに過ぎない。でも、今日のブログはそうではない。やっと本当のことを書いている。



庭に糸瓜(へちま)が我が物顔をしている。一株でこれだけ縦横無尽に暴れ回るとは予期していなかった。庭の木を総ナメにしている。蔓の先端には目があって、それで行きたいところへ行って、蔓を伸ばし、王国を造って栄えている。でかい実も実った。若い実も次々に生り付いている。たいした威張りようである。葉に病気も寄りついていないので艶々して光輝いている。よくもまあこれだけの勢力を張れたものである。まるでサラセン帝国だ。

裏の畑には隼人瓜(はやとうり)が、これまた王国を造っている。これは青竹で頑丈な棚を編んであげたので、これをすいすい上り詰め、そこから北の方角には山茶花の大木を席巻している。西の方角には小屋の屋根を覆い尽くすまでに繁茂している。蔓の太さ、葉の輝き、何処を見ても健康そのものだ。これは、夏は繁茂するだけで実はつけない。霜が降りる頃になると争って大きな実をつける。

植物は元気だ。健康だ。これを見ていると、それが広がる先の宇宙全体が元気で健康である様子が納得させられて来る。よし、さぶろうも勢いのいい植物に肖(あやか)ろう。
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上達する楽しみの その連続なんだが・・・

2014年09月02日 11時59分37秒 | Weblog
あと何日生きていたら 5の段の掛け算が覚えられるのですか。

5x1が5。5x2が10.5x3が15・・・・・5x9が45。

「よくできました。今生はここで、はい、おしまいです」

死者は自分の段の掛け算を覚えたら進級に漕ぎ着ける。



貧才のわたしはまだ5の段どまりである。

5x7が35というところから先に進まないでいるので、まだおしまいにはならない。



お終いになった方がいいかどうか。ならない方がいいかどうか、悩ましい。

次は6の段。この魅力も大きいのだが・・・・。



こうやって算数の上達が限りなく予備されている。遠い先だが、微分積分まで理解する日も来る。

さぶろうは算数が超の苦手。どなることやら。

死生は進級試験の連続。上達の楽しい連続のはずなんだが、さて・・・。

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仏陀の食事をした者は即仏陀だ

2014年09月02日 11時18分43秒 | Weblog
それをおいしく食べる。おいしく食べられたら楽しい。楽しんでいたら、生きていることが即よろこびに変容する。

口で食べる。耳で食べる。目で食べる。肌で食べる。鼻で食べる。こころで食べる。

口でご飯を食べる。耳で音楽を食べる。目で風景を食べる。肌で涼風を食べる。鼻で夕顔の芳香を食べる。こころで詩を食べる。

次から次から、わたしへわたしへ、おいしい食事が運ばれてくるので、腹を空かしている暇(いとま)もないほどだ。



おいしく食べる。おいしく食べる工夫を倣う。

わたしの眼前に広がっているのは、だから、すべて仏陀の食べる食事である。仏陀の食事をした者は仏陀にほかならないのだ。

仏陀の食事、おいしい食事を供与されていながら、それをおいしくないとする者は舌を病んでいるのだ。



仏陀の食事は、法喜食(ほうきじき)であり、禅悦食(ぜんねつじき)である。

この世界は、法(=ダンマ=世界の成り立ち)を喜ぶ食べ物と、禅(=寂静=ニルバーナ=世界の完成)を悦(よろ)こぶ食べ物であふれている。あふれているのに、食べ物がなんにもないとするのは、それは目の病のせいである。では、目の病を治療すればいいはずだ。

「これはとってもおいしい食べ物ですから、あなたもどうぞお食べ下さい」といつもそこに提供されているので、わたしたちはこころよく手に箸を持てばいいのである。



秋になった。柿の葉が少しだけ紅葉を始めている。その柿紅葉がこの世は美しいところだと語って聞かせるので、さぶろうはそれを信楽して、目でおいしい食事をして、痩せこけて皺だらけになった腹を、腹一杯に満たした。
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悪衆生の煩悩の火は仏陀の智慧の涼風を呼ぶ

2014年09月02日 10時31分19秒 | Weblog
邪見憍慢悪衆生 是人名分陀利華

じゃけんきょうまんなくしゅじょう ぜにんみょうぷんだりか

邪見驕慢の悪衆生 是の人を分陀利華と名づく

邪見でものを見、憍慢で人を圧しているこの人は、しかし、プンダーリーカ、すなわち白蓮華(びゃくれんげ)である。やがて清浄の香を放って咲くであろうが、それを信楽(しんぎょう)するのは難中の難である。修行をしてここに行き着いた人が居る。この人こそ妙好人(みょうこうにん)と呼ばれる人である。

分陀利華はサンスクリット語のプンダーリーカーの音訳。五濁の淤泥に根を下ろして咲く白蓮華を指している。赤い蓮華はパトナである。

煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)をそのままに読めば、煩悩=菩提である。煩悩は悪衆生の特性である。菩提は仏陀の智慧だから、仏陀の特性である。この二つが=(イクオール)で結ばれていいか。同等同質である、と言い切っていいか。即とは言い切ってしまうという符号だ。悪=善、とでも言いたげである。

まったく別世界を生きている両者であるのに、この断定だと、両者は同じ仏陀の世界に住んでいることになる。そんなおかしな事があるか。あるとしたのである。仏陀が悪衆生を切り離したら、仏陀の救済は成立しない。仏陀が悪衆生を救済しなければ、仏陀はたちまち仏陀ではなくなってしまうのだ。逆転に次ぐ逆転の発想ではないか。

わたしは白蓮華ではない。しかし、(仏陀の智慧に耀かされて)白蓮華になる日が来る。もしそうであれば、明日を明るく生きることができるだろう。仏教は、悪人のわたしのために、ひたすらな希望の火を灯しているのである。
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不届き至極

2014年09月02日 10時08分04秒 | Weblog
わたしだけで満ち足りていれば人を呼び人を恋うことなど無用なことだろうが、わたしは全方位で欠落していてねじ曲がっていて崩壊していて、不完全を露呈している。あなたのセメントをここへ塗りつける。あなたの壁土をべたべた塗りつける。あなたはその工程の激しさに充足の声を洩らす。あなたもまたそうであったか。わたしのセメントとわたしの壁土が必要であったのか。

壁土のあなたを塗って崩壊をとどむや太郎 不届き至極    李野うと 
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恋はわたしの空白の胸に響く谺

2014年09月02日 09時35分40秒 | Weblog
神奈備(かむなび)の伊波瀬(いはせ)の社(もり)の呼子鳥(よぶこどり)いたくな鳴きそわが恋まさる     鏡王女 万葉集巻8

神奈備は神名備とも神南備とも書く。ともに神の鎮座する山や森、神社のある森を指す。伊波瀬は岩石だらけの渓流、石瀬だろうか。そこに神社が結ばれている。

呼子鳥は人を呼ぶような鳴き声を立てて鳴く山鳥。夏ならばカッコウだろうか。カッコウカッコウ、コッチコイ、コッチコイ。こっちへ来いこっちへ来いと人を呼び立てているようにも聞こえてくる。呼子は呼び笛。おおいおおいと人を呼ぶとき、人を探すときにに用いた。

神さまがおいでになる山に広がる石瀬の森 この神域で呼子鳥がわたしを呼んでしきりに鳴いている。わたしの空白の胸にこの声が谺して、空白を埋めてくれるあの人が欲しくて欲しくてたまらなくなる。わたしは淋しいのだ、カッコウよ、あまり鳴いてくれるな。

呼ぶ。わたし以外の誰かを呼ぶ。呼ぶのはわたしの胸の空白に押し潰されそうになるからだ。人を恋うのもそのためだ。わたしに空白のがらん洞がなければ、それを埋めてくれる愛、人の情もなくてすむものを。万葉の時代を生きた鏡王女とはどんな女性だったのだろう。
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その時その場にふさわしい楽しみが

2014年09月02日 08時58分31秒 | Weblog
おはようございます。お天気がいいです、今朝は。吹いてくる風はひんやりして冷たく感じられます。南瓜の黄色い花がまだ咲いています。黒揚羽が夢の国から飛んできてひらひら舞っています。何はともあれ、さぶろうは生きています。ことさら自慢にできることは何もないのですが、それでいいようです。鼻から吸う空気がおいしいのです。目が見ている空が爽やかです。



秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

古人がこの歌を歌ったのはこの季節だったのでしょうか。もう少し早かったのかもしれませんね。

さぶろうはもうすっかり老人です。世間へ出ていって走り回る元気はありません。季節の移り変わりを眺めては感嘆の声を上げて過ごしているきりです。新聞・テレビ・ラジオなどで人様のそれぞれの活躍ぶりを褒めているばかりです。

ここは山里なので小鳥の声がよく聞こえます。こちらからそうしてくれるように頼んでいるわけではないのですが、先方よりそうやって次々と飛んできては、えもいわれぬ美声を披露してくれます。わたしはこれをうっとりして聞いて過ごします。そしてそれを至福に感じています。

働きに出ていた青年期、壮年期なら、山から下りてくる小鳥の声にこれほどうっとりしてはいなかったでしょう。老人になった今はこれができます。いつもいつもその時その時の立地点に相応(ふさわ)しい楽しみが用意されていることに感謝を覚えます。
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