後ろめたいことはない、などと言える御仁は極めて稀だろう。過ぎ来し方のすべてに亘って我が身の清廉潔白を主張できるものは、それほど多くはいないだろう。お布団だって日に照らし出してこれを叩けば埃が舞う。隠しておきたいこと、秘密にしておきたいこと、表沙汰にできないことが、誰にもたくさんあるはずである。そうしたものに薄いベールを掛けて覆っている。さぶろうがそうだ。してはいけないことをたくさんした。しなければならないことをしないで済ませてきた。そういう己の非というものが、小石原の小石のように川床を埋め尽くしている。暴かれたら一巻の終わりだ。罪で溢れている。罰を逃れているだけで、ことここに至れば処罰は覚悟しなければなるまい。
ところが、神さまはそうはなさらないらしい。日本の神さまは。「祓いたまへ、清めたまへ」と言い、二礼二拍手一礼をすれば、己の鏡の塵も埃も拭われてしまうのである。神々のご神体は鏡である。掃除をすれば清潔になるという教えを身を以て示されている。「汝の罪は贖われた」というのである。「さあまた新しく出直しなさい」「過ぎ去ったことに拘ることはない」「塵を払えばぴかぴかになる。真っ新になる」と励ましてくれるのだから、実に明るく楽天的である。人が神社に詣でたがるはずである。ここは赦しの場である。罪を払って清められた人たちが、シャワールームから帰ってくるようにして、戻って来る。明るい眼差しに立ち返って。
仏教はそうはいかない。自業自得を強要する。汝が犯した罪を汝が背負って行けと命令する。これを逃れた者はいないと責め立てる。そういうところがある。悪いことも自業自得、その反対も自業自得。どちらも積み重ねられる。
神さまのおられる神宮は神域であるから、潔斎されて、罪も穢れもない。有るはずがないと徹底している。「本来無一物、豈、塵埃を蒙らんや」 もともと塵や埃の実態はないのだから、どうしてそこに穢れがあろう。そう言うのである。
キリスト教の洗礼も、もともと洗い清める行事である。入信すれば、神の子としてバプテスマを受ける。洗い清められると信じているから、そうしているのである。これで贖罪とする。これで真新しくなるのである。罪人のままにはしておかない。それを神も神の子も願っている。神にはその力があるとしている。仏教にも滝行がある。全身に水を打つ。これで身を清める。これで、己の心身に染み付いた悪業煩悩を洗い流してしまうのである。やっぱりそれを願っている。神社の前には大概小川が流れている。ここに身を浸して渡り切ると、身が忽ちに清められる仕掛けにしてある。
昨日夢を見た。それがこんな夢だった。日差しがさんさんと降り注いで、我が身に零れていた。さぶろうが神の座の前に引き出された。日差しの水垢離だった。「汝の罪は清められた」という声が聞こえた。嬉しさが極点に達っした。そこで目が覚めた。爽やかな気分が全身に満ちた。夢は願いの変形である。それを願っていたのであろう。ヘンな夢であったが嬉しい夢であった。