ツピンツピンツピンツピンと鳴く鳥がいる。姿を見せない。それでなおさら、興味がわく。畑仕事をしていると決まってツピンツピンツピンとやる。庭の木々の新緑の何処かに隠れているに違いない。ソプラノの明るい声である。春の空にはうってつけというところか。名も知らない。ところが、今日それが知れた。「佐賀の自然」と題して博物館員の方が午前中いっぱい講座を持たれた。その話の中にいた。雀大で灰色、らしい。それは四十雀、シジュウガラという名であった。紛失して行方不明になっていたものが偶然に見つかったときのような、何だか得した気分になった。何語に拠らず、かほどに疎いのである。万般、知識が得られていない。よくまあこれで70有余年を生きて来られたものである。当然あってしかるべきものが、抜け落ちて、空白である。まあいいまあいい。とにかくも、今日で埋め合わせができたのである。百年の付き合いのような親近感を得たのである。
危険だ。踏み込まない方がいいぞ。このまま前進すれば、美の惑溺に嵌まってしまう。跳梁されてしまう。引き返せ。引き返せ。さぶろうの袖を引き留める手がある。その間も美は容赦なくさぶろうを誘惑してかかる。さぶろうはもう立っていられない。理性のバランスが保てない。ぐらぐら揺らぐ。結局は早漏のさぶろうは見る間に果ててしまう。総崩れして自滅する。若いときに旅先の美術館でビーナスの誕生擬きを見た。人類の芸術を目の当たりにした。そのときもそうであった。打倒された。危険な目にあった。美を噛み砕けないのである。巧く咀嚼ができないのである。
さぶろうは老いている。すっかり老いている。それなのにこの危険度は消えていない。いまさらに過激になっているかもしれない。美しい海を見る。晴れ渡った大空を見る。美しい青葉の山を見る。青葉の下に美しい蝶が飛び回るのを見る。ときには人間の蝶をも見ることがある。そして後悔する。いい年をしてのこのこ出て来るんじゃなかったと思う。ひどく後悔する。一人でいればよかったのに、と思う。
チョット大袈裟な物言いをしたようだが、この世の様々な美はこの老爺には危険過ぎている。まいて、生きて活動する人間の、女性の美しさは。老爺の落ち着き、年齢相応の落ち着きをあっけなく奪い取ってしまうからである。