<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

一円相を以て如来としたのだが

2017年05月10日 21時20分02秒 | Weblog

これが如来だといって姿や形を作ってみせたらたちどころに嘘になってしまう。虚偽になってしまう。見せた人はペテン師になる。見せねば仰げない。そこで、古来、禅宗では一円相を書いて見せた。ぐるっと丸い円を描いただけである。この円の持つ完全性、これを如来とした。しかしこれを如来だと見抜ける人は極めて稀であろう。これでは普及が難しい。浄土宗では六字の名号をもって如来の相に代えられた。如来が石や木や銅や鉄であるはずはない。固定されているはずはない。すべては縁(よすが)である。如来に行き着くための便宜、一時の矢印、道路標識である。

さぶろうは今夜はこんなことを考えていた。これも真理を言い当てているものではない。不適切である。嘘もの、偽物である。如来に行き着くにはどうすればいいのだろう。嘘もの偽物をかいくぐっていくしかないのか。

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如来の色身体は絶妙でなければならない 絶妙である

2017年05月10日 20時24分44秒 | Weblog

如来妙色身 世間無与等 如来色無尽 一切法常住  

真言宗経典「如来唄」より

にょらいみょうしきしん せけんむようとう にょらいしきむじん いっさいほうじょうじゅう

如来の妙色身は、世間にともに等しきことなし。如来の色は無尽にして、一切の法は

常住す。如来を讃える唄(うた)より

如来は仏陀の別の称号である。真如に従って来り、真如界より人間界に現れ来れる者を指す。すでに仏陀になる修行が完成しているので、人間界では自利を離れて利他行、救済行にのみ専念できる。

如来は真如界の方であるから、人間界に出現されても、人間の目には見えないのである。そこで如来は、はたと思案される。工夫に工夫を重ねられる。どうしてもその色身を人間の目に、見せてやらねばならないのである。しかし人間界の世間に、如来に等しい姿はない。何故なら如来は法(真如)なのだから。法性身なのだから。故に如来の色身体が一つではない。無尽の変化を見せられる。そしてそこに如来界のすべての法を常住、定住させられる。如来のご苦労が偲ばれることである。人間は、如来の姿が見えれば見えたでけちをつけるし、見えなければ見えないでまた不満を持って遠ざかる。故に如来の色身体は絶妙でなければならない。

これはさぶろうの解釈である。いかなる正当性もない。読者は読者で審議してみて下さいね。

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退屈に耐えきれなくて志賀島までやって来た

2017年05月10日 16時36分35秒 | Weblog

退屈を覚えて外出した。雨も小降りになった。「九州男の隠れ湯」という本に紹介してあった二日市温泉「御前湯」に2時過ぎに着いた。透明な湯だった。お殿様が愛用された湯らしい。ほぼ同年輩ふうの人たちが入れ替わり立ち替わり、広い湯舟に沈んでゆっくり湯を楽しんでいた。外の庭に木製のベンチが置いてあり、数人が裸のまま出て行って、そこに腰掛けて冷たい風を全身に受けていた。木楢の若葉が緑陰を造っていた。

そこを出た。何処かに行きたくなった。読んだ新聞に卑弥呼の時代の古い金印のことが書いてあったのを思い出した。志賀島を目指した。途中から都市高速に乗ったので、比較的早く到着した。周囲10キロほどの島である。海の中道で陸続きになっていて、船に乗ることはなかった。金印ロードは海岸線にあった。ここを一巡りした。雨は止んでときおり薄日が射した。島は、大都市福岡が対岸に見えているというのに、全体が閑散としていた。北端にホテルがあった。ここに泊まることにした。三階の窓から海が遠くまで見渡せた。

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雨の一日 何処にも行かないので

2017年05月10日 11時31分40秒 | Weblog

雨の一日。何処にも行けないのでシューベルトの名曲集を次から次と聞いています。ひとりゆったりして。名曲をこれだけたくさんコンポーズしてもらっていたので、いつの時代になってもこうやって親しめます。こころが通います。音の財産、音楽っていいですね。

もうすぐお昼になります。外は相変わらずしとしと雨が降っています。でも、霧雨です。気温が低くて炬燵に足を延べています。少し空腹を感じます。鶏飯のおにぎりが2個買ってきてあります。沢庵がついています。これで十分です。お縁側に座って庭を眺めながら頂くことにします。

ふっと淋しくなって、やさしいあの方に会いたくなります。こんな日はひょいと。指で触れてみたくなります。いいお爺さんになっていてこうです。浅ましいですね。あの方は想像上の方ですから、脳裏にインプットするだけだから、相手に苦悩を押しつけることはありません。

花園に静かに出没されて、背中に翼が生えておられます。蜜蜂の大きさしかありません。なにもかも子供じみた話です。アベマリアの曲が流れてきました。淋しい気持ち変わらないのですが、音の酔客になれます。

 

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なりたいわたしになっていてもいい

2017年05月10日 07時33分36秒 | Weblog

高次元の意識と繋がっているので、もうそんなことこんなことあんなことは気にならなくなります。どうでもよくなってきます。そこに拘泥していなくてもよくなります。別の新しいもの、まったく新しいものに代替できるようになります。総入れ替えが起こります。トラウマやカルマは凝り型ですが、それが岩のような固形物ではなく、どろりと熔けだして液体化、さらには気体化して、融通無碍します。どうしてそんなものにこだわっていたのかなあ、執着をしていたのかなあというふうに振り返ることができるようになります。みずからがみずからをがんじがらめにしていたのだなあということが分かって少しだけ楽になります。こうなると軽くなって軽くなって高いところへ、更に高いところへと飛翔していきます。「これがわたしだ」ということができなくなります。さまざまに変化をしていくのが嬉しくなります。「なりたいわたし」になっていていいのですから。

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わたしはふかふかした綿になります

2017年05月10日 06時58分53秒 | Weblog

わたしが高次元の意識と繋がっているところを思い描いて見るとこころが綿になります。たっぷりと日に照らされた綿になります。たちまちふかふかしてきます。わたしが綿雲になって拡張していきます。膨張していきます。巨大化します。大空を埋め尽くします。仏教の数の単位にゴウガシャスウというのがあります。「ガンジス川の砂の数ほどの」というのがあります。「無尽の」「無限大の」というのに匹敵します。わたしが尽きることのないわたしに変貌します。無限大になります。何処までも旅をしていけるようになります。わたしがわたしの意識の枠内に閉じ込められていたのが解放されるので、開放感があるのです。それが嬉しいのです。高次元へ昇っていく度にそこにも意識があります。それがフィーリングで触れ合えるようになります。交流が起こります。いよいよわたしがふかふかしてきます。嬉しくてならないようなのです。単数だったわたしが割れて炸裂して非単数になるのです。アンカウンタブルになります。数えることが出来ないわたしになります。

しばらく静かな瞑想に入ります。わたしは綿になります。それから綿雲になります。

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除外なしが嬉しいのです

2017年05月10日 06時41分42秒 | Weblog

わたしにも朝が来ています。誰にでも朝は来るものかもしれませんが、それはそうかもしれませんが、除外なしが嬉しいのです。この平等性が有り難いのです。宇宙の法則が普遍であることを実感できるのです。朝が来て、朝が来て、朝が来て、わたしがその度ごとにそこにやさしく内包されています。今朝は雨降りのようです。前の日に耕しておいた畑がしっとりと濡れています。わたしはこの朝も引き続き元気でいます。遠い遠い高い高い誰かに、近い近い低い低い誰かに、そっと手を合わせていたくなります。祈らない祈りがいつもたしかに叶えられています。

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それを目敏く見つけて嬉しがってやろう

2017年05月10日 03時29分11秒 | Weblog

さぶろうはさぶろう。さぶろうにも嬉しいことがあるはずである。今日、それを嬉しがろう。さぶろうらしいのでいい。小さくこじんまりしているのでいい。見えないくらいのでいい。それをさぶろうが目敏く見つけて嬉しがってやろう。両手にそれを掬い上げてやろう。嬉しさのやつ、さぶろうの手の平の上でニコニコするかもしれない。よかったなあよかったなあと、親子のように、恋人たちのように、ふんわり抱き合えるかもしれない。待ってろ。

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神さまに近いことを成し遂げるのである 偉いなあ

2017年05月10日 03時19分14秒 | Weblog

中越典子さんが赤ちゃんを産んだらしい。男の子だったらしい。ニュースで知った。おめでとう。37才。37年掛かってお母さんになったのである。赤ちゃんも待っていただろう。同じ時間を待っていただろう。彼女は佐賀の人。余計に嬉しい。老爺のさぶろうなどが、嬉しがることもないだろうが、ニュースを聞いて嬉しくなった。人間が人間を産み落とせるのである。神さまに近いことを成し遂げるのである。人間って偉いもんだと思う。

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感心することがたくさんある

2017年05月10日 02時47分39秒 | Weblog

感心することがたくさんある。植物の種にも感心する。あんなに小さいのにそこに全機能を籠めている。死なないで生きている。芽を出すまでは死なないでいる。親から種をもらう。それが地に落ちて芽吹くまでの偶然性にも負けないでいる。諦めないでいられる。からからに乾き切って水分ゼロになっても、命が涸れない。ズッキーニ、オクラ、トマト、ナス、胡瓜、ピーマン、牛蒡、朝顔。何種類か種を蒔いた。もちろん毎日欠かさず水撒きをしてあげた。そしてとうとう復活した。息を吹き返した。青い目がそよそよと風を受けるまでになった。植え替えるときには地中に張り巡らせた毛根に感心する。凄まじい量の毛根である。こうして彼等の内に秘められていた全機能が発揮する。したたかに成育を果たす。その始まりの種の何倍だろうか。それをみんな内に秘めて力を貯めていたのである。ほとほと感心する。偉いと思う。神さまの仕業かもしれないが、或いはその多くが彼等の独自性かもしれない。人間のさぶろうはこうはいかない。不逞の顔をして威張っているがこうはいかない。堪忍も忍耐も、復活も蘇生もできない。

人間の魂の種は、案外知られていないが、もしかしたら、もっと長い期間、種として生きているかもしれない。そしてとうとう堪忍と忍耐と復活と蘇生を成し遂げるのかもしれない。だったら、ここにも感心をしなければならない。

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