これが如来だといって姿や形を作ってみせたらたちどころに嘘になってしまう。虚偽になってしまう。見せた人はペテン師になる。見せねば仰げない。そこで、古来、禅宗では一円相を書いて見せた。ぐるっと丸い円を描いただけである。この円の持つ完全性、これを如来とした。しかしこれを如来だと見抜ける人は極めて稀であろう。これでは普及が難しい。浄土宗では六字の名号をもって如来の相に代えられた。如来が石や木や銅や鉄であるはずはない。固定されているはずはない。すべては縁(よすが)である。如来に行き着くための便宜、一時の矢印、道路標識である。
さぶろうは今夜はこんなことを考えていた。これも真理を言い当てているものではない。不適切である。嘘もの、偽物である。如来に行き着くにはどうすればいいのだろう。嘘もの偽物をかいくぐっていくしかないのか。