<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

へんてこりんな理屈を捏ねたがる男がひとり

2017年05月23日 14時25分37秒 | Weblog

大相撲はもう見ないことにした。昨日の横綱相撲で緊張が切れてしまった。これで拘束時間がなくなった。4時から6時の2時間が浮いた。テレビ観戦の場に居なくてすむ。だから何かをするというわけでもないのだけれど。自由時間というだけでいい。

何かをしている時間というのは妙なものだ。他のことが出来ない。ながら族という族もいることはいるが、概して二つに熱中することには無理がある。

生きている時間は生きている時間ということになっているので、そこに同時進行して死んでいる時間は差し挟めない。

生きている時間というのは死んでいない時間である。死んでいる時間は、だから、生きていない時間である。しかし、Y座標軸をそのまま0以下にまで移動させるということはできないだろうか。X座標軸はそのままにして活動する、そういうことはできないのであろうか。

これができれば、もしかしたら、この世を死んでいる時間は、そのままあの世を生きている時間ということになるのではないか。逆に言えば、あの世を死んでいる時間がこの世を生きている時間と言うことになる。パイプが繋がっているのだ。

二つのことがこれで同時進行することになる。なるのかもしれない。どちらかで生きているのである。活動をしているのである。ただ、場所、つまり空間設定が変更になっただけで、時間軸はそのまま進行している。つまり、いつでも生きていることになる。永遠のいのちを生きているということになる。

さぶろうは、そんなことを考えた。暇な男だ。自由時間が有り余っているとこんなへんてこりんな理屈を捏ねたがる。向こうに島原半島がある。雲仙普賢岳が霞んでいる。昼はコンビニの笊蕎麦を啜った。

「この世を死んでもどのみち、永遠のいのちを生きている男」という位置づけを味わってみる。風変わりだろうか。有り得るようにも思うのである。

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いったい彼らは何処へ行くのだろう

2017年05月23日 11時05分52秒 | Weblog

雨蛙が鳴いている。明日は雨かも知れない。行き交う人たちの潮の波を見ている。ざぶーんざぶーんと打ち寄せたり打ち返したりしている。いったい彼らは何処へ行くのだろう。右にも左にもそれぞれ目的地があるらしい。対極に位置している。それが面白い。波が動く。意思があって動く。理由があって動く。でもそれは表面には現れていない。隠れている。それでも動く。じっとしていられない。日射しが少々きつくっても。動くとそれが金になる人も大勢居るが、金になんかならないのに動き回っている人たちも居る。さぶろうも後者だ。なんにもならないのに、外に出ている。うろつき廻っている。金峰山が見えている。山頂に塔が幾つも建っている。左手は海だ。養魚場には酸素を送り込むマシーンが廻っている。

 

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人でない神はそうした人間社会の習性習慣を取り上げることはしない

2017年05月23日 01時52分22秒 | Weblog

裁きの神はいない。いるのは許しの神である。神は裁かないのである。許すだけである。人は人を裁くけれども、人でない神はそうした人間社会にある習性習慣を取り上げることはしない。神だからである。

まして仏には。仏には慈悲しかない。人間社会にある習性や習慣を洗い流してくれることはあっても、これを大上段に構えて、罰したりすることはない。救済しかない。人間社会の執着から解き放ってくださるばかりである。

さぶろうは今夜そんなことをふと考えた。虫が良すぎることにも思われたが、そうであるべきだとも思った。救済とはそれしかないと思った。

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「元々が空じゃったのじゃ 夢じゃったのじゃ」閻魔大王は言った

2017年05月23日 00時57分01秒 | Weblog

閻魔大王さまのところへしょっ引かれて行く男がいる。この男は小心者である。小心者であるから、犯した罪とその罰を百倍にも千倍にも膨らませている。罪の意識が人の百倍千倍強いのだ。いやそれだけそっくり小心者なのだ。

いや確かに悪いことをした。人を瞞しもした。こっそり隠れて盗みもした。さすがに殺しはできなかったが、脅しをかけたりいたぶったりもした。でもそれは人間相手ではなかった。女の人を見ると心が姦淫を働いた。むらむらした。背中から抱きたくなる衝動に耐えた。そうであるのに女の人の前で平静を装っている己を蔑んだ。第一慈悲心に欠けていた。物乞いをしてくる乞食を追い払ったことも再三あった。正義心の実働と言うことになると、この男には分が無かった。見て見ぬふりをした。兄弟姉妹ともよく仲違いをした。親不孝者でもあった。親を喜ばせることなんか何一つ出来なかった。親は子の行く末を案じながら息を引き取った。男はそれを密かに詫びた。

閻魔大王さまのところへしょっ引かれて行く者は実は案外少ないのであった。罪の意識に怯えている者ばかりであった。怯えていない者は素通りできたのだった。ここが生きているときの予想とはいささか違っていた。鬼もいた。鬼の金棒による百叩きというのもあるにはあったが、しかし、それはそれを希望する者だけに限られていた。

閻魔大王さまのご裁断というのがふるっていた。「汝の罪は是を以て消えたり。いわんやその罰をや」いきなりこうであった。覚悟をして項垂れていた者たちは、きょとんとなった。聞いていた地獄の沙汰とは大違いだったからである。大王は「どうやら夢から覚めたようじゃな」と付け加えた。「元々が空じゃったのじゃ。夢じゃったのじゃ。般若心経に書いてある通り、無だったのじゃ。この世のすべては夢の世界だったのじゃ。悪も善もなかったのじゃ。悪も善もないのに罪や罪の罰だけがあるというとこはあるまい」

しょっ引かれて来た者は顔を洗った。泉の水で顔を洗った。全身に水を浴びた。キリスト者が洗礼を受けたときのような爽快感をあじわった。彼等の不浄はここへ来てすっかり浄化された。それを疑って掛かる者たちが鬼の前に来て百叩きを懇願した。鬼たちの金棒もまた無実態であったが、ここではじめて浄化される者たちもいたのだった。

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