大相撲はもう見ないことにした。昨日の横綱相撲で緊張が切れてしまった。これで拘束時間がなくなった。4時から6時の2時間が浮いた。テレビ観戦の場に居なくてすむ。だから何かをするというわけでもないのだけれど。自由時間というだけでいい。
何かをしている時間というのは妙なものだ。他のことが出来ない。ながら族という族もいることはいるが、概して二つに熱中することには無理がある。
生きている時間は生きている時間ということになっているので、そこに同時進行して死んでいる時間は差し挟めない。
生きている時間というのは死んでいない時間である。死んでいる時間は、だから、生きていない時間である。しかし、Y座標軸をそのまま0以下にまで移動させるということはできないだろうか。X座標軸はそのままにして活動する、そういうことはできないのであろうか。
これができれば、もしかしたら、この世を死んでいる時間は、そのままあの世を生きている時間ということになるのではないか。逆に言えば、あの世を死んでいる時間がこの世を生きている時間と言うことになる。パイプが繋がっているのだ。
二つのことがこれで同時進行することになる。なるのかもしれない。どちらかで生きているのである。活動をしているのである。ただ、場所、つまり空間設定が変更になっただけで、時間軸はそのまま進行している。つまり、いつでも生きていることになる。永遠のいのちを生きているということになる。
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さぶろうは、そんなことを考えた。暇な男だ。自由時間が有り余っているとこんなへんてこりんな理屈を捏ねたがる。向こうに島原半島がある。雲仙普賢岳が霞んでいる。昼はコンビニの笊蕎麦を啜った。
「この世を死んでもどのみち、永遠のいのちを生きている男」という位置づけを味わってみる。風変わりだろうか。有り得るようにも思うのである。