会いたいという人がいる人はいいなあ。会いたい人をこころに思い浮かべてこころが潤って、しっとりして若々しくしていられるよなあ。生きている間、人間は人間を愛している方がいいよなあ。愛さないでいると体内冷却装置が働いて冷たい人間になってしまいそうだなあ。傍にいるだけでひんやりするような人間にはなりたくないなあ。だったら? だったら会いたい人を作ればいいじゃないか。いやいや、わざわざ作らなくともいい。それは面倒だ。相手のいることは面倒だ。思い浮かべるだけでもいいのじゃないか。それが簡単簡潔でいいなあ。それではたしてるんるんになれるかどうか。フィクションもどきで、こころがしっとり潤って来るかどうか。やっぱり現実に気の合う人がいたらいいなあ。珈琲を飲みながら昨日のこと今日のこと明日のことを気軽にお喋りして寄る年波を慰めていられたらいいだろうなあ。でも次も次もとなるとそれは困るなあ。それで拘束されるのは嫌だなあ。自由時間がしめつけられることになるのは嫌だなあ。結論。一人でいる方がずっと気軽で気楽。そういうことになるなあ。一人でいてもこころが潤う方法。日長聴くだけのクラシック音楽を聴いていればすむことだよなあ。うとうと居眠りをしながら。それだとやっぱり年寄り臭いかなあ。
昨日の昼間、いとこたちが二人やって来た。さぶろうより一つ年下と二つ年上の二人。老爺が二人の老婆に向かい合ってお喋りした。まるまる二時間も。久し振りに会ったので話題には事欠かなかった。千鳥饅頭をお土産に持参してくれたので、みんなでぱくついた。一つ年下は朝の4時半に起き出して5時半から散歩仲間たちと朝の散歩に出るらしい。日課にしているらしい。そろそろ起き出す頃かなあ。もうすぐ4時になるぞ。健康維持のためらしいが、ご苦労なことだなあ。二つ年上はサイクリングを欠かさないらしい。さぶろうは朝夕草毟り。これで健康維持を図る。長生きも手が掛かるなあ。
長者の万燈 貧者の一燈
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貧者の一燈は長者の万燈に値する。
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よし、是で行こう。
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というものの、その一燈があるか、さぶろうに?
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ここで行き止まり。
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引き返そう。
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この句は「高野山山開き」の経文中にあるから、この一燈は信心信仰の燈のことなのかな?
貧しいながらも誠を尽くすということなのかな?
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これも難しいなあ。引き返すか。
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この世には長者がごまんといる。ごまんがそれぞれ万燈を照らしたら、この世はきっと明るいだろうなあ。
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人に頼るな! すぐこれだ!
自分の歩く道くらい自分で照らせ!
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それもそうだなあ。
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しっかりしろ、さぶろう貧者!
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貧者でいるのも厄介だなあ。ああしろこうしろと唆されるわい。貧者でいるだけとはいかないのだなあ。
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長者は万燈を点さねばならない。貧者は貧者なりに一燈を点さねばならない。いやいや、何かと拘束されるなあ。拘束されるのは、なんでも嫌いだなあ。
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貧者の一燈は、今の段階の我が儘さぶろうには無理だということがわかった。
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やれやれ。
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高野山山開きには行けないなあ。
二時間掛けて真夜中深夜便のブログを書いてみた。そろそろ3時。朝方までにはまだ一時ある。目を瞑ればもう一度眠れるだろう。
明日は何をしようかなあ。友達からカボチャ苗と冬瓜苗を戴いていた。二つとも蔓が這う。広い場所がいる。広い場所をまず草取りしなくてはならないぞ。
昨日は真夏日なみの暑さだった。あの日照りでは長くは外にいられない。草取りはお預けだ。そうすると、放置されたままのカボチャ苗と冬瓜苗が揃って泣き出すだろう。泣き止むようにあやさねばならない。どうしたらいいだろう。
そんなことあんなことを考えながらうつろうつろ。老爺がするのはこれくらい。何かをしてもいいし、しなくてもいい。一日何にもしなくてだらだらしていてもいい。長々生きて来て、お終い付近で、こんな自由が手に入るとは計算してなかったなあ。
その背後に仏を見ている人たちがおられるだろう。月下美人のクジャクサボテンを咲かしめた力をそこに感じ取って惜しみない賞賛を口にする人がいるはずである。見えないもの、見えないハタラキ、見えない慈悲の顕現をそこにたしかに見たという感覚。これを与えられることがある。そういうときは素直に嬉しい。
われわれは見ているのである。見えてもいるのである。見えないで一生を過ごしてしまうこともあるが、見て過ごす人たちもいるはずである。暗い世界ではなく、そこに明るい世界を見て取って明るくなれる人たちもいるはずである。明るさに輝かされている人たちを目の当たりにすることがある。それも嬉しい。
明るさには大小があるだろう。明度1から、2、3、4、5、6.....と進む。そうすると見えているものが違ってくる。そういうこともあるだろう。この明度がもしも限りなく続いているとすれば? わたしたちはこれからいろんなものを見て行くことになるだろう。
見えてなかったものが見えてくるということにもなるだろう。同じものがまったく新しく見えてきて驚かされるという事態をも迎えるだろう。でも、急ぐ必要はない。その段階で見えているものをみていて、十分の感動をも与えられて行くのである。暗いところでも見えているものはある。たしかにあるからである。
人様のブログを覗いたらクジャクサボテンの開花が写真にしてあった。見事だった。そうか、いまはそういう季節なんだ。美しいクジャクサボテンが見える季節なんだ。葉っぱを土に挿して育てられたのかあ。これにも感心した。僕にはできないなあ。
見えているはずのないものでありながら、それをそこに見据えて、見えているものにする。無相の相。法身仏である毘盧遮那仏は無相の相の仏である。したがってこの仏が説かれる教えは無相の教えである。われわれには見えているはずのない真如界を、見えるごとくに見させようとするのだから、仏さまは秘密秘術を尽くされる。なにしろ、仏さまは仏さまの言葉を話しておられるのであるから、仏ではない者には聞こえて来るはずがない。そこに翻訳機能が付いていなければ、チンプンカンプンである。蜜言密語でしかない。まして真如界の仏たちのその慈悲と智恵の具体化は、われわれの有限の目には捕縛不可能である。やはりそこの中間には仲介役が必要となる。彼は仲介をするのだが、人間界の言葉にするところで、はたと迷うのである。悟りを開かれた釈迦牟尼仏のご苦労が始まった。類似しているもの、共通しているものがなければ、それを示しても理解不能なのである。真如界は人間界とは隔絶されているので、類似が見当たらないのである。共通している点が見いだせないのである。しかしそれでは説法は成立しない。真如界の法は説けないことになる。仏陀は敢えてそこに類似と共通点を模造しなければならなくなった。これは詐欺に当たる。模造、偽物、贋作、マガイモノを以て、本物を透視させる方法なのだから、いかさま師に近い。お釈迦様はいかさま師であってはならない。しかしそれを提示しなければ人間はそれを信じることは出来ないのである。真如界はますます遠くなるばかりである。迷える衆生を救い出したいのだが、いよいよ深く迷わせてしまうことにもなりかねない。仏像も仏画も模造である。仏そのものではない。あくまでも手掛かりにすぎない。仏が木や石や鉄であるはずはない。動かずにそこにじっと固まっているはずはない。曼荼羅世界は、あくまでわたしが仏となって曼荼羅世界へ行かねば見えないのである。見るためにはわたしが即身に成仏していなければならなかったのである。そこまでの到達がままならなかった人たち、それを信じるしか方法のない人たち、信心をする側は、いまに本物が見えるという期待が残されている。二流品三流品で満足させられていた者が、今度は一級品を目の当たりに出来るのである。死後の世界にはそれが約束されている。仏の世界に行くことでそれが果たされることになるのである。死を無駄にしてはならない。成仏を実行実現しなければならない。ここへ来たら開眼ができるのである。やっとここで、仏の智恵の目で本物の曼荼羅世界が見えてくるのである。それをなさしめてくれる者が仏陀である。仏陀という超能力者である。安心していていい。いかさま師ではなかったことが分かるのである。歓喜に包まれるのである。曼荼羅世界の光によって輝かされるのである。