<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ときおりシジュウガラが来て食べる

2017年05月26日 04時58分28秒 | Weblog

わたしは料理店の料理人。シェフである。具材は言葉。今朝はサラダにして食べようかな。蒸しても焼いても、とろとろとろ火で一時間煮込んでもいい。パンにしてトースターにあたためて食べるというのも一案。料理店の看板は出していないが、ときおりシジュウガラが来て食べる。己の魂の腹を満たすためだけだと余る。ブログに書いて田舎料理をひとつふたつと列べる。うまいのかうまくないのか。知らない。旨くするのは食うシジュウガラさんの唾液だ。無責任な老爺だ。

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出番があるということは幸せなことではないか

2017年05月26日 04時43分49秒 | Weblog

もうすぐ夜が明ける。あと10分ほどで5時。寒いので長袖に腕を通した。まもなく寝室の障子戸が明るくなる。このまま起き出してもいいなあ。することはたくさんある。マリーゴールドの苗が5株、「わたしを庭に植えて下さい」と10本の手が上がっている。見えないけれど、見てやっていい。出番があるということは幸せなことではないか。鉄橋を電車が渡っていく音がしている。軒の雀も騒ぎ出して、この世がちろちろ賑やかになる。なんだか嬉しい。

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山里の風景におさまる

2017年05月26日 04時31分42秒 | Weblog

昨日の早朝、白いトウモロコシの苗を7株、一列に植えた。夕暮れ時に水遣りをした。たった一列なのに、畑が青々となった。いきなり夏風が渡るので、白いトウモロコシといっしょに風をもらった。そよそよそよと。八番目のトウモロコシは、ふふふ、70年を生きた老爺だ。ピカピカの頭の。そこに列んで山里の風景におさまる。いい気なもんだ。

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現世の法廷はこれでお開きとなる 三界得自在

2017年05月26日 03時40分56秒 | Weblog

三界得自在 さんがいとくじざい

経典にそうある。どう読めばいいのだろう。いろいろに読めそうである。さぶろうの食卓に今夜はこの偈が運ばれてきた。魂が箸を上げる。舌の上に載せてからが長い。十分に咀嚼しきれないのだ。涎が一筋零れて落ちる。

三界は自在を得たり。こうも受け取れる。

三界は自在を得たるに、さぶろうよ、汝は如何? と提示してくる。我は未だ自在を得ず。そう答えるしかない。

しかし、それは問題とならないのではないか。三界が自在を得ていればそれで総てが足りているのではないか。自在を得ていないさぶろうを呑み込んでいるのではないか。それでさぶろうもまたすっかり完済しているのではないか。そうも思える。

自在を得た三界にいるのである。さぶろうが此処にいるのである。それを味わえばいいだけにしてあるのである。

夕空を見上げる。新緑の山々を眺める。桑の実が赤く熟れている。クラブ活動を終えた中学生が自転車に乗って通り過ぎる。涼風が吹き抜ける。小川の水をバケツに汲み取って、植えたばかりの野菜瓜に水遣りをする。この時間と空間を与えられているさぶろうはしばしうっとりする。ここに己を預けきって無為になる。悪乗りをしているかも知れないが、それでよしとしていいようにも思える。

この世には、三界に自在を得ている者、すなわち仏陀がいるのである。それで仏陀の法が敷衍せられて完全調和が成立したのである。これで一件落着している。さぶろうが異を唱えることはない。(異を唱えたところで、異ともならない) 現世の法廷はこれでお開きとなる。

あとは魂の食事となる。仏陀の悟り「三界得自在」の公案、即ち毘盧遮那仏の智恵と慈悲である「三界得自在」を馳走になる。おいしいおいしい。大宇宙がすべていま自在を得て安らかに暮れていく。

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