<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

持つべきは友であった

2017年05月09日 18時23分51秒 | Weblog

昼間の外気温は16度だった。車に乗るまでのわずかな時間でも、雨に濡れるとひんやりした。気分転換に近いところを周遊してきた。

麦畑の麦が色づいているのが目に入った。そろそろ麦刈りが近いようだ。麦刈りの麦藁が欲しいのだが、いまは刈り取り機で刈り取って小さく切断してしまうので、長いままの麦藁は手に入らない。西瓜畑に長目の麦藁を敷いておきたいのだが、どうしたらいいのだろう。今は農家の人も滅多にお目に掛からない。JAさんあたりが一手引き受けをしておられるようだ。大型機械が唸り声を上げているきりだ。

今は夕方の6時半。雨は上がっているようだ。

今日は農業に詳しい友人が午前中に我が家を訪ねてきてくれた。それで我が家の西瓜畑を見てもらった。西瓜苗はいまどきは接ぎ木苗である。瓢箪の根株に西瓜を接いであるらしい。それも知らなかった。彼に説明をしてもらって初めて分かった。まったく無知蒙昧であった。瓢箪の葉は大きい。これを茎の根元から切断してもらった。西瓜の最初の蔓は切らねばならないと彼が忠告してくれた。5株ともそうしてもらった。根株の周辺に枯れ草を敷くようにとのアドバイスも受けた。西瓜苗には虫が集(たか)る。これを防止する方法も教えてもらった。あれこれ助かった。持つべきは友である。

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この身を捨てるのは容易ではない その6

2017年05月09日 18時17分39秒 | Weblog

7)

我が身の行く先は決定しているのである。清浄法界の真理宇宙に安住できることに決定しているのである。それを藻掻く。苦しむ。悲しむ。執着する。拒否して掛かる。

ここもしかし既に、毘盧遮那仏の体内(胎)である。胎蔵界である。一繋がりに繋がっていて境目はないのである。それをことさらに境目をつけて、生死の両岸としているのである。これが凡夫の浅ましさである。底の浅さである。考えているようでちっとも考えたことになっていないのである。

毘盧遮那仏がそこに大きく現れでて下さらないとこの我が身の底さえも見えないで終わるのだが、幸いにこの経典があって、そこに毘盧遮那仏が登場されるので、さぶろうとの面談が許されたというわけである。

8)

あな、嬉しやな。あな尊(とうと)やな。あな畏るべし。さぶろう大いに畏る。

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この身を捨てるのは容易ではない その5

2017年05月09日 18時15分04秒 | Weblog

6)

さぶろうは、この「法身方便」の教えを聞いて、以上のようなことを思った。ただただ安心を得たかったからである。解決が出来ないでいる我が身の生死を解決したいのである。

我が身を捨てることがどうしてこうも難しいのであろう。大悲の下(もと)で長々と生きて来て長々と考えさせられて来て、悪戦苦闘をしてもそれでも、捨てられないでいるのである。

 

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この身を捨てるのは容易ではない その4

2017年05月09日 18時12分31秒 | Weblog

4)

ここに安住がかなうのであれば、衆苦所集の処であるこの身がどうして惜しいだろう。かなぐり捨てることなど容易ではないか。しかしそうそう容易(たやす)くはない。執着がそれをそうせしめないのである。凡夫の身はここの脱皮が難しいのである。悲しむのである。嫌々をするのである。死を拒否してかかるのである。しかし、拒否を裏返して受諾する道=方便がある。

5)

それをそうせしめて下さるのが仏の大悲である。それが生死全体のコースとして用意されているのである。そこが法界の法界たる所以である。心配は要らないのである。われわれは毘盧遮那仏を仰いで帰命していればいいのである。お任せをしていればいいのである。

 

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この身を捨てることは容易ではない その3

2017年05月09日 18時10分14秒 | Weblog

3)

「衆苦所集の身を捨てる」とはどういうことか。衆苦が集まっている処がこの我が身である。この身を捨てるとは、肉体を離れるということであろうか。「無垢処に至る」とはどういうことか。垢は穢れ。煩悩欲望による汚濁。そういうものがない処とは仏国土であろう。そこに至るとは、そこに甦生するということか。

「清浄の法界身」とはどういうことか。法界は仏の国である。仏の真理の国である。だから無垢であって清浄である。それ自体を身体としているということだから、真理の宇宙そのものだろう。毘盧遮那仏は宇宙そのものの法身仏である。法が充満している宇宙そのものである。そこが行く行くわたしが至り着く目的地である。ここに安住がかなうのである。

 

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この身を捨てることは容易ではない その2

2017年05月09日 18時07分47秒 | Weblog

2)

願わくば、凡夫所住の処として、速やかに衆苦所集の身を捨て、当に無垢処に至ることを得て、清浄の法界身に安住せしめたまへ。大悲毘盧遮那仏に帰命したてまつる。

どうかお願いでございます、凡夫の住んでいるこの世界にあって、あらゆる苦しみの集まりであるこの身を、速やかに捨てさせてください。まさしくけがれのない処に至ることを得て、願わくば、清らかな仏の御身、真理の宇宙界に安住せしめてください。大悲を具えられた毘盧遮那仏に帰命して頂礼(ちょうらい)したてまつる。

 

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この身を捨てることは容易ではない その1

2017年05月09日 17時02分56秒 | Weblog

1)

願 令 凡夫所住処 速捨 衆苦所集身 当得 至於無垢処 安住 清浄法界身 帰命頂礼 大悲毘盧遮那仏

げんれいはんぼーそーちゅうしょう そくしゃーしゅうこーそーしゅうしん とうとくしーよーぶーこうしょー あんちゅうせいせいはっかいしん きべいていれい たいひーひーろーしゃーだーふー

真言宗経典 胎蔵界九方便中の第八「奉請(ぶじょう)法身(ほっしん)方便」より

「奉請」とは仏さまにお願いをすることである。仏さまに対して信心の我が意を表明することである。

 

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雨の日のおしゃべり

2017年05月09日 15時02分12秒 | Weblog

さぶろう:雨だね。一日中雨だね。

青蛙さん:うん。だね。

さ:それに寒いね。

青:寒いね。少しね。

さ:僕はジャンパーを着込んでいるよ。

青:僕にはジャンパーなんてないよ。きみらは贅沢だね。

さ:うん、だね。体温調節が下手だからしようがないよ。

青:我慢をしないので下手になったのでしょ。

さ:だろうかね。

青:でもいいよ。雨に濡れていると落ち着くからね。

さ:きみの肌が、そういえば、きらきらに光っているね。

青:調子がいい証拠だよ、きらきらは。

さ:夕方だね、もう。ちょっと暗くなってきた。

青:キャベツ畑に居るとすぐにお腹が一杯になるよ。おいしい虫が沢山いるからね。

さ:そりゃよかったじゃない。

青:人生楽ちん楽ちん。きみも蛙に成ってみると分かるよ。

***

というふうに説得をされたのだけど、どう考えても人間でいる方がよさそうだ。どこがいいんだろうかね。ふふふ。とにかく人間で居たいという気持ち。蛙さんも蛙でいる方が楽ちんみたいだった。そういうものかなあ。

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それでは救済にはならない

2017年05月09日 04時52分40秒 | Weblog

仏様は目には見えない。我が目の如き目には、見えないのである。仏様は石のように形に収まることはない。物体ではない。形状もない。仏様は石ではない。木ではない。この世の姿にはなれない。

それではしかしさぶろうが困るのである。見えないと不安に駆り立たれるのである。落ち着けないのである。目を開いても何も見ていないことになるのである。この世にやって来て何も見ないで帰ってしまうことになるのである。

それでは救済にはならない。仏様は仮の姿をとられたのである。石と同じになられたのである。木と同じになられたのである。さぶろうと同じになられたのである。形を取って下さったのである。さぶろうに見えるための光明になって下さったのである。

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美味しく大きな息をしているさぶろう

2017年05月09日 03時48分01秒 | Weblog

阿弥陀如来来化して、息災延命のためにとて、金光明の寿量品、説きおきたまへるみのりなり    (現世利益和讃より)

今夜はこれを味わってみたい。自己解釈だから、公明正大ということではない。むしろ曲解である。客観的ではない。

「来化」とはここに来て下さったということである。さぶろうのところへ来てそこで阿弥陀如来になって下さっているということである。化けて下さったということである。姿を現して下さったということである。

何のためか。さぶろうをこの世で息災にしておくために、である。そして延命させるため、である。そしてその通り、それが適っているのである。

さぶろうが今此処で息災延命していられるのは、だから、阿弥陀如来が来化されたお陰である。仏様だから、仏様の国にいてくださっててもよかったのであるが、そうはなさらず、さぶろうの現世にまでのこのこ歩いて来られたのである。

仏様だから、ひとり仏様としての独自の快楽を楽しんでおられてよかったのだが、そうはなさらず、さぶろうのりための活動を開始して下さったのである。

しかも金色に耀く光明として、さぶろうに見えるための光明として、寿量品を説かれたのである。阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経を説かれたのである。説法をされたのである。そう言うお実りを結果されたのである。

ここまでしてもらっていて、さぶろうがそれに気付かないとすれば、どうだろう。それが見えないとすれば、どうだろう。それが聞こえて来ないとすれば、どうだろう。無視しているとすればどうだろう。

さぶろうの現世で、さぶろうが多くの、数々の、多量の利益に与っていることを感得できないでいるとするならば、阿弥陀如来の来化の意味はなくなるのである。無駄になるのである。受けている無限大の利益に目が閉じてしまうことになるのである。

受けている無限大の利益とは何か。阿弥陀如来が来化されたという事実である。たださぶろうひとりを生かすために、仏様の国から仏様になってさぶろうの現世にまで来られたことである。

そのご恩に報いねばならないが、さぶろうは寝ている。午前4時。真夜中の雨の音を聞きながら、お布団に寝そべって寝ている。息をしている。吸ったり吐いたりしている。美味しく大きな息をしている。

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