<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

椿の新緑が光に輝いて音を出したなら

2017年05月17日 15時25分12秒 | Weblog

ふっふっふ。ふっふっふ。横浜在住の友人から頂いたお土産「東京バナナ」をお八つに食べた。一箇ぺろりと。おいしかった。中はクリームだったのかなあ。とろりとした。誰も居ない。家内が居れば珈琲を淹れてくれるところだけど、生憎一人。

さあて、と。これから何をしようかな。午後4時近く。白い大きな雲が大空に陣取っている。もう入道雲なのかな。じっとして動かない。こちらもじっとして見上げていてもよさそうじゃないか。それとも大相撲をテレビ観戦してもいいぞ。どのみち気楽な稼業ときたもんだ。

椿の新緑の葉っぱは案外光るものだ。庭の片隅で光を浴びてきらきら輝いている。輝きが音を出したら、どんな音なんだろうなあ。椿の新緑のそれは、やわらかい音なんだろうなあ。夕風が吹いてきて隣の南天が騒いでいる。

固定資産税の払い込み通知が届いていたっけ。家と畑の。銀行からお金を引き出して市役所に行って、払い込んでこようかな。まだいいか。急ぐことでもない。北の畑へ行って冬瓜と南瓜の苗を植え込んでこようか。もう少し日が傾いてからにしよう。いまは日射しがきつい。怠け者さぶろう。

そうだ、ベランダの日陰の処で、小さなポットを列べて落花生の種蒔き作業をしよう。ここなら暑さが凌げる。この落花生は千葉産だ。50粒ほどはある。東京在住の方が送って下さっていたのを忘れていた。今朝気がついた。一人だけ恩知らずな老人さぶろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしは次々に新しくなって行くのだ 最終回

2017年05月17日 14時43分50秒 | Weblog

10)恐れることはない。不安に思うことはない。安心をしているのだから亡霊になって出て来ることもない。迷うこともない。過去に執着して、足を取られることもない。新しくなったわたしが、もう一度古くなろうと思う必要はない。

わたしはわたしに語り継がれていくのだ。わたしは次々に新しくなって行くのだ。永久的にそして進歩発展向上を遂げていくのだ。

「わたしはいったいどんなわたしになって行くのであろう」 わたしがそのわたしと話をしてみたい。でもその最終段階に居るはずのわたしはこういうだろう「わたしはまだ発展をしているので、最終結果ではないし、わたしもまた明日の新しいわたしを楽しみにしているのだ」 

これがこのシリーズの結論である。楽しさもまた新しいわたし像とともに、引き継がれていく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしは次々に新しくなって行くのだ その9

2017年05月17日 14時38分47秒 | Weblog

9)ちょっと疲れましたね。同じようなことを書き連ねています。読者の方も飽いたかもしれませんね。すみません、あと2回でケリをつけます。

わたしという者のリレーが続いている。「次のわたし」が「走って来たわたし」のバトンをもらい受けてまた走って行く。そういうリレーが出来るわたし。わたしは、見ようによっては「永遠なる者」なのである。

しかも老いて病んだらその老体の車体を捨てて新しくなることも出来るのだ。

つまり現段階ですでにこれほどの素晴らしい進歩を遂げているのだ。一旦死ぬことができるという高度の技術を獲得しているのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしは次々と新しくなって行くのだ その8

2017年05月17日 14時31分46秒 | Weblog

8)ハイヤーセルフが見守っている。導いている。全コースを見守っている。導いている。その確信がさぶろう老人にはある。その確信がまた老人の風体を異様にふてぶてしくおどろおどろしく奇っ怪にしている。

ハイヤーセルフはより高い段階に進んだわたしだ。わたしは連続をしているので、次なるわたしを将来し続けるのだ。固定されていない。停滞がない。進んで行く。その変化を楽しみながら進んで行く。そして無数のわたしが並び立っている。それぞれを見守っているし、導いてもいる。そのハイヤーセルフを尊重して神と呼ぶこともある。まんざら嘘ではなくてそれほどに神々しくもある。どんどん新しくなるとどんどん光輝いていくのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしは次々に新しくなって行くのだ その7

2017年05月17日 14時17分46秒 | Weblog

7)見て来たような嘘を書いている。世界観、宇宙観はどうも個々別々性があって客観性に乏しいので、その隙を狙っていい加減な暴言を吐いている。この老爺は、はしたがない。読者諸氏はまたかと思ってうんざりされているだろう。読み捨てて下さい。

青い梅の実が実っている。まだ収獲はできない。梅の実だって一年一年新しい。梅の木が宇宙で、わたしたちがその木に実る青い実である。宇宙もまた新しくなって行く。それで膨張と収縮を繰り返している。限りなく膨張して極大はぐらりと転回する。そこから限りなく収縮をして点になる。点の中にエネルギーが蔵される。新しいパワーと新しい意図が誕生して、超爆発が起きる。次の新しいステージに移行する。こうして次々に形の枠組みの生死が繰り返され、その度ごとに新しくなって行く。大きな歯車が活動して、全体が活気に満ちあふれて行く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしは次々と新しくなって行くのだ その6

2017年05月17日 14時07分38秒 | Weblog

6)わたしを狭い檻に閉じ込めておくことはない。見える目で見たと思い込んで、おのれを小さく見積もることもない。おのれのいる宇宙を小さく把握することもない。すべては広大であると思った方がいい。測量した目以上に、期待以上に広大であると思っている方が寛げる。体にもいい。体になってくれた尊い意思、大慈悲本体を蔑まないことになる。己の裁量が大きくなれば己に従っている何兆箇の従者たちもそれに連れて大きくなる。大きくなることが出来るので、その分は喜ばせてあげられる。

わたしを寸断しない方がいい。灰になったら終わりだなどと、小刻みの物体にして分断をしない方がいい。わたしは連続している。連続しながら次々に新しくなって行くのだ。

さぶろう老人の自己解釈である、あくまでこれは。拝命した尊い命を十全に尊重したいのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしは次々と新しくなって行くのだ その5

2017年05月17日 13時21分02秒 | Weblog

5)すべては限りなく限りなく発展している、限りなく限りなく宇宙は進歩をしている。此処に居る限りそれに取り残される心配はない。だから当然、わたしもそれに沿うようにして、己の意図を超えたところで、前進が図られている。完成された人であるはずの仏陀や如来でさえもなおなお向上の螺旋状を上り詰めている。すてのもののに停止がない。変化を遂げている。ストップの永久状態はない。

大局観で己の位置や己の動向を見れば、たぶんそこらあたりではないかと思っている。目的地はある。あると思っているが、宇宙が膨張拡大しているので、必然的にそれも遠退いて見えているけれど。

わたしは次々と新しくなって行く。わたしの意図するしないに関わらず、常に常に新しくなって行く。そんなことを考えて嬉しがっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしは次々と新しくなって行くのだ その4

2017年05月17日 13時11分01秒 | Weblog

4)だからハイヤーセルフも話し手になっていてくれるはずである。肉体は乗り換える車体のようなものだ。それが死滅したからと行って大騒ぎをするようなことでもないのではないかと踏んでいる。新しい車体に乗り換えればそれで済む話である。新車屋さんがたくさん設けてある。それに新しいわたしがすでに乗っている。発車を待ちわびている。

(他愛ないかなあ、そんな発想は?)

さぶろうは楽天家なのだ、きっと。

或いは、精一杯の自己尊重、宇宙生命尊重をしているのだ。自己の大きさを自己の中で正当評価しているのだ。「つまらないわたし」「あっけなく死んでしまうようなわたし」「死ねば終わりだというような短絡的裁断をするわたし」を否定しているのだ。

わたしは次々と新しくなって行くのだ。地球に毎朝新しい朝が届けられるように、わたしもまた地球を評価して、次々と新しいわたしの朝を迎えていく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしは次々と新しくなって行くのだ その3

2017年05月17日 13時04分30秒 | Weblog

3)このブログの作者であるさぶろう老人は、「わたしは個であって全体である」というふうな理解をしている。わたしにわたしという狭い境界は設けられていないと思っている。わたしは連続していると捉えている。行動できる範囲はほんとうは無限大に違いないと希望している。目には見えていないが連続した生命線上を進んでいると受領している。そして過去のわたしや未来のわたしが何万箇も現在の平面上にいて遊んでいるともイメージして、しばしば会話を目論見ている。

「わたしは次々と新しくなって行く」「切断がない」「わたしはエンドレスである」「常に未来を包含したわたしが現在を新しく生きている」「それが未来のわたしを造営している」「さあ、楽しい空想をしよう」と思うと、さぶろう老人は思うだけでもわくわくする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしは次々に新しくなって行くのだ その2

2017年05月17日 12時56分10秒 | Weblog

2)わたしのハイヤーセルフ(生まれ変わり死に変わりして現在より高い進歩のステージに辿り着いているわたし、未来の数々のわたし)もこのブログを読んでいてくれるかも知れない。ふんふん、お前はまだそんな低い段階に居るのかというように見えているはずだが、それでも蔑まずに丁寧に読んでいてくれるかも知れない。

あるいは、現在のわたしに先立っているわたしも、現在に行き着くまでの過去の数々のわたしも、案外、そおおっと聞き耳を立てているかも知れない。

わたしは単数個ではない。そういうフィクションの線を一本すういと引いてみた。

わたしがわたしのはじまりでもなく、終わりでもない。長く延びた、宇宙の果てにまで長く延びた、その延長線上に無数のわたしが連立している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする