<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

野良仕事は休み サボりマン

2017年05月02日 22時04分46秒 | Weblog

今日は野良仕事は休み。サボりマンした。種蒔きをしたところには、日暮れ際に、水撒きをしたけれど、ね。サボりマンしで好きなことをした。あっちへこっちへぶらぶら車を乗り散らして遊んだ。外に出て、歩いている人を見ると、ああ、ここは人間の住む地球なんだなと思う。興味をそそられて、身を乗り出してしまった。(田舎は人が少ない)日頃いかに人から遠ざかっているかがしのばれる。郵便局へ行き、ドラッグストアへ行き、本屋に行き、最後にスーパーに立ち寄った。そうしたら、店の前で餅搗きした餅を販売している卒業生に声をかけられた。素通りできずにわらび餅ワンパックを買ったら、「夕方だからおまけします」と言って半額にしてもらった。こんなにお爺さんお爺さんしているのに、構わずに声掛けしてくれるんだものね、有難いやと思った。明るい気さくな人柄だった。元気でがんばっているんだと嬉しくなった。伸び伸びした笑い声が素敵だった。

外気温は26℃。帰りがけ、暑くて、車の室内が焼け付いて、ムンムンして、冷房をオンにした。これで涼しくなった。窓を閉めて走った。(そのくせ、明け方は気温が下がって身が縮む。半袖シャツにしたり。長袖に着替えたりする。厄介だ。体温調節が難しいなあ)

種蒔きをした種が発芽してきているのを発見した。ほんのちょっとだけだったが、嬉しくなって顔がぐしゃりと崩れてしまった。ああいい一日だった。

もうやすみまーす。

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にうまんだらばあけ

2017年05月02日 11時37分16秒 | Weblog

にうまんだらばあけ。その時に天界よりマンダラバアの花が雨の如くに地上に降り注いで来たのでありました。

曼陀羅華。曼陀羅の華。サンスクリット語でマンダラバア。天上界の花園に咲いている花々の一つである。見る者はこれを見て歓喜する。

「曼陀羅(まんだら)」は「輪円具足」「道場」「壇」「本質」と訳される。諸仏諸尊の悟りの世界を象徴する。密教で尊重されている絵図があって、ここには諸仏が満座していらっしゃる。(老爺はここにちょっとこっそり忍んで入ってみたくなるが、まだそれは不可能である。いつかは可能になると思っている。図々しい)

諸仏諸尊がおいでになるところに、この華が散華される。仏教の儀式ではこの散華の行儀がいまも執り行われる。散華する華は紙製品ではるが。

地上界では、野原に咲くチョウセンアサガオ・ムラサキケマンの別称でもある。

はい。この老爺は、地上に咲いている華は皆、天上界から降り注いで来た花だと解釈している。これが根付いたのだと解釈している。なぜなら、これを見る者はみな歓喜の感情を起こすからである。老爺も然り。一々、歓喜する。老爺は決して決して諸仏諸尊の類いではないが、お零れに与ることが出来ている。地上界が多くのマンダラバアの華たちによって荘厳されている、と解釈して熱い歓喜を募らせている。この花たちによって地上界は天上界に列んだのである。こう見ると厳かな気分が満ちる。五月が地上が花園を呈する。そこを歩む者は諸仏諸尊に等しくなる。等しい待遇を受けることになる。ああ、嬉しい。

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人間の目も大空の目も引いている

2017年05月02日 03時05分05秒 | Weblog

庭の一隅に金盞花が咲いている。肥料が効いたのか群生して伸び上がって咲いている。きれいだ。ああ、きれいだ。人間の女性もきれいだが、こっちの方もきれいだ。化粧しなくても化粧している以上にきれいだ。春風に吹かれているきりだけど、隅に置けない。人間の目を引いている。大空の目も引いている。その素振りもしていないが、堂々たる生き方だ。

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威張りは怯えの変形バージョンか

2017年05月02日 02時42分48秒 | Weblog

威張りたがるところは、この老爺もおんなじ狢(むじな)である。おれは狢じゃないぞといくら抵抗してもやっぱり狢である。舌なめずりをする狢である。一匹の狢が、夜を過ごしている。もうすぐ3時だ。寝ればいいのに、起きて煩悩の垢こすりをしている。こいつは、「オレは神さまに愛されている特別の人間だぞ」と真夜中の己に言い聞かせて威張っている。曲者、食わせ者だ。どうにもたちが悪い。神さまは断じて特別扱いなどされないのに、だ。

そのくせ、気が弱い。身に付けておくべき勇気や信念が蜘蛛の糸のようにほっそりして、風に靡いている。今日にもあっさり死にはしないかとたえず怯えている。

威張りは怯えの変形バージョンか。

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皆、最後が頗る可愛らしい

2017年05月02日 02時17分48秒 | Weblog

威張るのは人間の生き甲斐かもしれない。みなよく威張る。偉くなりたがる。偉くなると威張れるのである。威張って見せない人、慎み深い人もいるが、それで己をしっかり支えているのである。オレはこう見えてもどっこい、本当は偉いんだぞと思っているところがある。「慎み深いところが偉い」という威張り方もある。したり顔をした宗教家がよくこれをやる。二枚腰を使われる。たちが悪い。「おまえたちはそういう直接的な、下品な、威張り方しかできないのか」と責める。オレは暴力は振るわない、オレは違うと言って違いを威張る。それを生き甲斐にもする輩もいる。とかく威張りたがる。夫は妻に威張りたがる。妻も負けじと威張りたがる。学者は知識をひけらして威張りたがる。政治家は権力を手に入れて威張りたがる。

でもそこまでで、あっけなく死んでしまう。残らず死んでしまう。お金持ちを威張ってキャデラックに乗っていた連中も、虎の毛皮を着込んで己の美貌を誇示していた貴婦人も、例外がない。なんでもかなぐり捨てて裸になる。みな最後が頗る可愛らしい。

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己の一部を保存しておいて

2017年05月02日 01時59分48秒 | Weblog

白枝豆も黒枝豆も、不断草も幅広葉ニラも畑に蒔いてみた。どの種もからからに乾いている。水なしで長期間を凌ぎきって来た強者(つわもの)である。偉い。なかなか偉い。感心する。真似をしてみろと言われたって真似はできない。水を飲まなければ1日と保たない。人間にできないことを、植物はできるのである。彼らは進化している。人間もミイラになることはできるが、そこまでである。水に浸けてやれば、そこから息を吹き返すことはない。それを思えば彼らの神秘に頭が下がる。人間は威張る。何かと威張る。でも、長期間死んだふりはできない。どんなに威張り散らしている者でも、一度きりである。己の一部を保存しておいて、未来のある日に全体の蘇生復活をする術は手に入れていない。植物の種にそこのところのテクニックを、根掘り葉掘り、聞き出してみたい気がする。

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そこの人間さま、お願いですから

2017年05月02日 01時35分21秒 | Weblog

去年食べた韓国カボチャの種を蒔いてみた。保存していたのが見つかった。土を入れた小さなポット20個を用意して種を蒔き、たっぷり水を撒いた。生えて来るかなあ。韓国カボチャはどちらかというとズッキーニに似ている。瓜のように細長くふっくらしている。美味しい。生えてくるまでは朝晩の水遣りが欠かせない。生えてきたら飛び上がって喜ぶんだがなあ。乾燥した種は小さく細く軽い。なにしろ半年以上も死んだぶりをして過ごしていたのだから、その生命力たるや凄まじい。どうやればこれだけも長く命を繋げられるのだろう。神秘的だ。半分は余したが、「そこの人間さま、どうかお願いですから、わたしも復活蘇生させて下さい」と懇願されている気がした。生殺与奪の権利を持つ者はこの老爺である。落ちぶれたりとはいえど、ふふふふ、これでなかなか。捨てたもんじゃないぞ。

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