「ねえ、おかん」おかんと呼ぶは誰のこと おかんをつけるおかあさんなり 薬王華蔵
*
彼はおかあさんのことを「おかん」としか呼べない。お燗をつけてくれというときにも「ねえ、おかん」という。おかんは、それを躊躇わず、いつものことのようにして、古い厨でお燗をつけている。これは友人宅へ遊びに行ったときの歌。友人はもう50歳近くだった。大人になるときに、うまく標準語に乗り換えられなかったのだろう。
「ねえ、おかん」おかんと呼ぶは誰のこと おかんをつけるおかあさんなり 薬王華蔵
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彼はおかあさんのことを「おかん」としか呼べない。お燗をつけてくれというときにも「ねえ、おかん」という。おかんは、それを躊躇わず、いつものことのようにして、古い厨でお燗をつけている。これは友人宅へ遊びに行ったときの歌。友人はもう50歳近くだった。大人になるときに、うまく標準語に乗り換えられなかったのだろう。
10
死ぬと人間は葬式をする。坊さんを呼ぶ。坊さんにお経を読んでもらう。そうしないと死ねないと思っている。簡単ではない。死は簡単ではなく重厚だと思っている。慇懃だと思っている。人間の死ばかりは荘重だと思っている。
9
お母さんの死は突然だった。しかも、物体のようにこの世の風景の中から消えてなくなってしまった。でも、生きているじゃないか。突然蘇って來るじゃないか。暗いイメージなどではなく、明るいキャベツ畑の青虫のその一匹となって。
8
お母さんがいきなり虫にすり替わっている。コピーでもされたように。そしてそこで再生している。特別視された死ではなくて、繰り返し繰り返す波のようになっていて、それが生の浜辺の自然な風景になっている。
7
じゃ、お母さんの死を平気で跨いでいけるか。できない。できないけど、お母さんだけが特別でもなかったんだ。キャベツ畑に來ると、新しい青虫がうじゃうじゃくっついてキャベツを殺している。
6
青虫なんて小さい虫なんだから、そんなことに情を寄せることはない。そのはずなのに、じゃ、何処が違うのかと問われたら答えに窮してしまう。死なんてありふれているのだ、此処には。自然界には。それをみな平気で跨いでいっているのだ。これは自然界の日常の出来事なのだ。
5
でもね、死ぬと言うこと、一生を終わるということは、キャベツの上に蠢いている青虫にだってある。とつぜん大空からツバメが飛んできて、啄まれて子ツバメの口に収まって、終わる。すんなりあっさり一生が終わる。
4
お母さんは死んだ。思い出の中ではいつもそれは「とつぜん」なのである。突然の事件なのである。お母さんは今死んだのである。
3
でもこの歌はどうも違う。勝手が違う。いつもは、はらはらと涙を搾り取ってはい終わりなんだけど、これはその常套手段に訴えていない。
2
強引? 僕は挽歌は嫌いなんだ。人を泣かせよう泣かせようとして掛かるお涙頂戴短歌は嫌なんだ。母を殺さないで欲しい。人を殺人しておいて同情を要求しないで欲しい。