小手鞠るい著「ある晴れた夏の朝」を読んでみた。中学生の推薦図書らしい。孫が感想文を書いたというから、それで僕も読んでみることにした。始めから終わりまで泣き通しだった。高齢のお爺さんが咽び上げて鳴いた。最後を読み終わっても涙が止まらなかった。花に堕ちてくる涙の鼻水が、溢れ出してきて、テイッシュでは抑えられなかった。洗面所に行って、水道水で顔を洗うしかなかった。本を読んでこんなに感動したのは久しぶりだった。広島と長崎に落ちた原爆は正しかったかそうでなかったか、肯定論4人の学生と否定論4人の学生のデイベートの形式で論陣が張られた。相互の主張を超えて、地球上に住んでいるわれわれ人類が、他者を憎しみ合う戦争という過ちを繰り返してはならないという結論で、締め括られていたように思う。いい本に出遭った。
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気温は29度を超えているが、湿度が60数パーセントほどだから、暑さはそれほどにも感じられない。窓を南北どちらも開放しているが、風は流れてこない。日射しがきついので、畑の白菜がしなだれている。百舌鳥が鳴いて飛び回っている。
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正午を過ぎた。お昼はテーブルにメロンパンが置かれている。これを食べる。僕は、音楽を聞きながら、静かに留守番をしている。
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台風18号が佐賀県に最接近するのは夕方のようだ。もしも強風が吹いているなら、夕方の農作業はできないかもしれない。したいこと、しなければならないことは、まだいろいろあるけどなあ。
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畑や庭に出て土弄りをしていると、僕はストレスがうまく解消される。ストレスっていつのまにかストレス袋に溜まっているようだ。袋のヒモをほどいてこれを逃がしてやらねばならない。だから毎日、欠かせない。
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我が家の猫は、なんいもしない。終日、寝てるだけ。で、ときどき、にゃあにゃあと鳴く。鳴いて餌をせがむ。僕のそばにも来るようになった。僕が顎の下を撫でてやるからだ。これで案外、猫ストレスを解消させているのかもしれない。
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気温は30度を超えてきた。室内でも暑さを感じるようんいなった。ランチするか、そろそろ。
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極早生蜜柑を剥いて頬張って食べている。噛んで噛んで、最後まで噛み砕く。小さいけどおいしい。甘さも丁度いいくらい。もう一個食べよう。
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よくぞよくぞ柑橘類の樹木がこの世に生えて来てくれた。生えて来いとはわたしは命令していない。わたしが命令をしなくとも、わたしが生まれてきたときにはすでに柑橘類の樹木はそこに存在していたのだから。
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わたしの手にこそならなかったが、それでもそれでよかったことになる。およそ、しかし、わたしが命令をしなくても、そこに既に存在していた、そういう既存存在がほぼ100%である、というこの事実は不思議なことじゃないか。
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すくなくとも、それでわたしの命令の労務は省略されたのである。その代わり、それ以前に神さまが「あれ」と命令をしてくださっていた、ということになる。神さまかどうかは定かではない。命令を聞いてその後に存在したのかどうかもあやしい。一人で決め込んで「あれ」と自己命令をして、自己完結をしたのかもしれない。
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それで、2019年になって、とうとうそれが実って、甘さも十分になって、わたしの口にまで届いて来たのである。わたしがスーパーで買ってきたから、届けられたことにはならないだろうが、それはそういう手段の問題であって、とにかくわたしの元に、結果的には届けられて来たことになる。
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わたしはこれを剥いて口に放り込んで噛み砕いて「おいしい」といえば事は足りたのであるから。ラッキーなことだったんだよね、これって!
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でもわたしの口にまで届けられて来るその距離って、凄まじく長かったんだよね。空間的距離も時間的距離も、意図的意志的距離も。じゃ、そのところを遙かに遙かに推測して、あらためて感謝をしなくちゃ、ね。
雀がチュンチュン鳴いてる。雀が元気でいることが嬉しい😃🎶
なんとはなく嬉しい。
雀だって病気をすることもあるだろう。けど、今朝は元気にして、我が家に近いところに来て、鳴いている。家族団欒のひとときのよう。
朝御飯はなんだったのだろう?
田圃では稲が実っている。どっさりどっさり実っている。不自由しないだろう。
2時間半の早朝の野良仕事。といっても、その我が仕事の量は微々たるもの。微々たるものだが、満足した。やれただけで、満足を覚えた。汗を掻いた、わずかに。シャワーを浴びてから、朝食。そろそろ9時。
炊きたてご飯に納豆。味噌汁は里芋が具になっているので、とろりとしている。これは、昨日僕が皮剥きをして、細かく薄切りしておいたもの。格別においしい。
しばらく休憩をしよう。霧雨のような細かい雨が降っている。
6時20分前後で外が明るくなるだろう。朝日が昇ってくるだろう。
その間に、蚊取り線香に火を付けておこう。野良着に着替えておこう。
早朝の野良仕事は快適だ。10月になっている。もうずいぶんと涼しくなっている。
6時20分前後で外が明るくなるだろう。朝日が昇ってくるだろう。
その間に、蚊取り線香に火を付けておこう。野良着に着替えておこう。
早朝の野良仕事は快適だ。10月になっている。もうずいぶんと涼しくなっている。
さてと、何もかも忘れて外に出よう。6時になったら外に出よう。野良仕事をしよう。野良仕事に埋没できると、うじうじしなくなる。忘れてしまえる。
昨日夕方草取りをしたところを、こつこつ耕して、土を軟らかくしておこう。ほかほかにしておこう。
うううううん、うううううん、ううううん。
間違っているのはおれの方だよなあ。
それなのにどうしてこうも、人だけが間違っていると思うのだろうなあ。
おrばかりを正義にしたがるのだろうかなあ。
傲慢だよなあ。
正義の面を被るのが傲慢だよなあ。
そして人を怨む。恨んで通す。
なっちゃあいないよなあ。
居丈だけになる傲慢のおのれは、なんとまあなんとまあふてぶてしい嫌なヤツ。
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人生は苦である。仏教はそういう見方をしている。苦とは? 思い通りにならないことである。つまり嫌がること。嫌だとすること。そういう反応をして苦しむことだ。苦は症状を起こす。
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だとすれば? そう、反応しなければいいのだ。嫌だと思うからそれがストレスになる。ストレスになると身心が病む。そしてそれに執着する。ストレスとしているそのストレスにしがみつく。
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しかし、苦の実体があるわけではない。空だ。四苦八苦と苦が山盛りされているが、誰もがそれを苦としているのではない。無症状の人だっている。無症状の人は苦の病原菌に感染をしないですんだ人たちである。
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ふしぎなことに、思い通りにしようとすると、思い通りにならないという事態に直面する。苦の症状が起きる。思い通りにしようとしなければ、症状は起きないですむ。<どうにでもしてくれ>としている俎の上の鯉は、そこですばやく<仏の手の平の上>を自覚している。
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老いることも病むことも死ぬことも苦だ。だが、老いを楽しむことも出来るし、そうしている人もある。老いを苦としているとそこに抵抗が発生する。思い通りにならない事実が顕著に見えて来る。ああそうか、これが老いかとさらさらと流してしまえば、抵抗による熱は発熱しない。
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ところが、この「嫌だな」というのは、粘っこくてねちねちしてねっとりしている。自分の内部に大きなねちねち邸宅を拵える。この邸宅をどんどん広げて行く。ここの住人のストレス(=苦のウイルス感染体)がどんどん増殖する。そんじょそこらでは満足しないぞと威張り散らす。奢り贅沢の限りを尽くす。
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つまりは、自分の放つ2の矢3の矢の、毒矢を受けて、呻き苦しんで倒れ込んでしまう。逆上すればするだけ毒矢が突き刺さって来る。
それを解き放つのが、諦めである。ストレス台風が過ぎて行くのを待つ、いずれ過ぎて行くという諦めを持つ。
仏陀はそれを<大いなる放棄>とされた。対象から苦のストレス反応を捨ててしまうのである。苦の対岸には<涅槃>がある。<寂静>がある。安らぎがある。それを見据える。この世の川には苦楽の両岸があるのである。
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それを思って座禅に入る。座を整える。呼吸を整える。揺れを抑える。瞑想に入る。空っぽになる。無有恐怖(むうくふ)に戻って来る。「恐れることは何もないんだよ」「有るという迷いから離れてしまえばいいんだよ」という仏陀の智慧とお慈悲に安んじる。
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苦界には、そういう智慧、苦を苦としないでおくというお慈悲が具備されてもいるところなのである。苦界に住む人は、いずれ誰もが、苦を歴て寂静に進むことができる。そういうお慈悲にも与(あずか)って行くのである。ばたばた苦しんで終わりではなく、そこから自然に寂静の世界に進んでも行けるのである。
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今日はこんなことを考えた。自分が感染症に苦しんでいる患者のくせに、治療に当たる医師のような発言をした。そういう羞恥が残る。
いやいや、昨日は一日こころに恨みを懐いて苦しんだのである。重病人だったのである。それを一晩寝て一山を乗り越えたようだが、わかるもんか。消えたはずの灰の中からまたもやストレスが燃え盛るに決まっている。が、ともかく今は一時休憩だ。