下痢ってお腹のお掃除なのかな? 起きてからもう2回もトイレに走って行く。もうなんにも残っていないんじゃないかなと思う。すっきりした。麻痺の脚でも西洋式便座だから疲れないですむ。有り難い。下腹の痛みもなくなった。
おはようさん。今日もまた見渡す視界はいちめん雨にけぶっている。寒い。手先がかじかんでしまうので、炬燵の中へ差し入れたり差し出したりを交互に続けている。
さぶろうの昨夜の夢は空を飛んでいた。大型の飛行機に乗っているのに360度の透明な窓が開いていて下界の風景が手に取るようによく見えた。着地するときには飛行機の外の高い位置に居て、ランデイングを見守っていた。夢の視座はどこについているのだろう。
これから春に向かう。昨日は、道路沿いに列べている細型のプランターの草取りを済ませた後で、撫子や金盞花や金魚草の花苗を植え付ける作業を日が暮れるまでしていた。もう幾分か花を着けている花苗である。これから勢いを付けていくだろう。道行く人がそれぞれ可愛い花を見てほほえんでくれるといいいな。
おやおや、お日様が差し込んできましたよ。お日様は地上いっぱいに光の絨毯を敷き詰めています。絨毯ほどに分厚くはありませんけどね。もうそろそろお昼です。さぶろうはまだ玄関を開けてもいません。炬燵の中でぬくぬくとして過ごしています。
今日は、古代ローマの時代に、キリスト教と対抗する宗教だったミトラ教(ミトラス教)のことをネットで調べて過ごしました。ゾロアスター教のミトラ神は仏教の弥勒菩薩(マイトレーヤ)信仰説と関連性があるようです。また漢訳されて毘沙門天、千の耳を持つ多聞天となったという記事もありました。さまざまな世界宗教の起源説など面白く読みました。
「神々の中の神」なる位置づけも時代が移るにしたがって変遷をしているようですが、世界中に多くの多くの神々がいてそれぞれ特有の名前を持ち信仰の対象になっています。さまざまな民族、さまざまな歴史背景、さまざまな言語形態に準じて、信仰の対象はさまざまな名称で呼ばれています。それでその各宗教間で、「我こそは、我が神こそは・・・」と争ってもいます。対象となっている神々の世界の実態はどうなんでしょうね。
ふふ。宗教は違っていても、祀る神々の像にはどれにも光輪があります。これは共通しています。これは太陽神のルーツなんでしょうか。
世界中、宇宙中のお命さん、おはようさん。ここ地球の、さぶろうが住んでいるところは今日もどんよりしています。銀色の曇り空に覆われています。
仏教でいうところの衆生はありとあらゆるお命のこと。空、海、星々、山川草木、石ころ砂粒にまで命を感じて、共同協調共生をしていると理解しているようだ。命の活動は、個々に見えながら、その実は個ではなく全体の活動である、と。ばらばらではなく調和をし、秩序正しく重なり合って、うまく一致をしているのだ、と。
さぶろうの命が、だから、そのまま宇宙のいのちであるとも考えられる。数学で合同・相似形というのを習ったことがあったけど、もしかしたら、個のさぶろうを引き延ばして拡大をするとぴったり全体にマッチしているのではないのか。
その反対の流れでは、宇宙がさぶろうに凝縮されているのではないか。さぶろうの内側に、だから、はてしもなく宇宙が広がっているのではないか。
或いは、さぶろうがフォーカスの基軸の点でそこを中心にして右側に大宇宙の銀河、左側に内なる宇宙の銀河があって、平均をとってシーソーをしているのではないか。
さぶろうはおはようを言う。するとおはようが連鎖をして共鳴をする。共鳴板が無限大に列んでいて、おはようが繰り返されて広がっていく。
280円の牛糞肥料を8袋買ってきてこれを畑にばらまいた。といっても牛糞の形はまったくない。有機肥料培養土になって、ふかふかしている。乾燥をしているというものの、しかし、やはり臭い臭い臭い。こうして土を肥やしておくと夏野菜の茄子、トマト、胡瓜、オクラの出来がすこぶるよくなる。農作業は三歳児さぶろうの遊戯である。これに相手をしてもらうとさぶろうの孤独の寂寥が慰撫される。作業の間中はなんにも考えないでよくなる。この功徳は計り知れない。
働いた働いた。てったって、これは年寄りのさぶろうがそんなふうに裁量をしただけ。なんのことはない。ただ草取りを辛抱してした、それだけのことだ。今日は南側の庭の草取り。ふっふっふ。さぶろうがたまたま繰り広げる座禅よりはよほど深い集中ができた。日が落ちて暗くなるまで我を忘れてこれに従事した。黙々黙々。好きだねえさぶろうは、としか言いようがない。最後に松葉箒で掃き清めて終了した。
お天気になってきましたのでお昼時まで玉葱畑の草取りをしました。玉葱にどっさり肥料をしておきましたので、周辺の草までがまるまる太っています。冬の草は根が張っています。抜き取るのに一苦労しました。指先が疲れます。まだするべき仕事の20分の1くらいしかやっていません。野良仕事は遅遅として進みません。見た目以上にたいへんです。これで収入があるわけではありません。でも、年寄りの健康維持には役立っているようです。
金柑の実をちぎりました。脚立に上って太い枝ごとごーりんごーりんとノコギリで切って、落とした地上で実を摘みました。籠に三杯半もありました。どしりとした重さです。枝さんは重かっただろうなあと感心しました。実をつけてから実を太らせるまでの長期間をよくぞまあ持ちこたえたと思いました。台風で薙ぎ倒されてしまって、大きな根っこが地上に浮き上がってしまいました。それでも持ちこたえて黄金の実をたわわにつけました。今年の実はそれに大きいんですよ。植物は、じっと怺えてものをも言いませんが、それにしても忍耐力があるんだなあ。もう大丈夫です。軽くなりました。あんまりざっくり切りすぎたかもしれません。ここ数年もう実らないかもしれません。
空はどんよりとしている。冴え冴えしていない。雨が降り出してくるのかもしれない。さぶろうは炬燵から出られないでいる。外に出しているのは指だけだが、長くはそうしていられない。長くなると冷たい氷の温度になっている。
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「令諸衆生功徳成就(りょうしゅじょうくどくじょうじゅ)」 これはどういうことだろうか。さぶろうは今日はここを考えている。
<諸々の衆生をして(阿弥陀仏の)功徳成就をせしむ>と読める。功徳を成就するのは衆生ではない。自己救済を完成させるのはさぶろうの自力のはからいによるものではない。阿弥陀仏がさぶろうに成り代わってこれをなさるのである。これが阿弥陀仏の功徳のなさしめる働きである。
するとどうなるか。<煩悩を断ぜずして涅槃を得る>ことになり、正定聚不退(しょうじょうじゅふたい)の位に住するのだ。さぶろうはこれでは濡れ手に粟というところで、ちょっと虫がよすぎる話だ。
さぶろうは百欲千欲する煩悩の火の燃え盛る身である。どんなに地団駄を踏んでもとても寂静涅槃(安定した正しい智慧=仏智の悟り)を得るところに達し得ようがない。そこを疾うに見据えておられているのが阿弥陀如来だ。「これぞ仏陀。さすが仏陀、よくぞ仏陀」と嘆息する。
しかし、さて、この功徳成就はいつの話だろうか。今現在は、煩悩まみれ垢まみれであるから、とてもこの清らかで安らかな段階にはいない。ずううっと先の話のようである。まあ、だから、予約をしたようなものだ。しかし、先の話だが、ここで決定しておくと正定聚不退の位は揺るがない。だから、安心をしていられるという利点がある。だからこれはいいこと尽くめである。
真宗門徒は阿弥陀如来の誓われた本願を目当てにしている。だから本願他力の門徒である。念仏は仏を念じて仏の本願に頼り切っているという自己表明である。これがないと退いてばかりということになる。念仏を称えてこの退きを防いでいるのだ。
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と、ここまで考えた。十分ではない。結論が出ない。「令」は「せしめてくださる」という使役語である。<せしめてくださる>のは仏陀であり宇宙の愛と光のエネルギーである。その目当ての対象者はさぶろうである。この両者の相関関係はしかしすべてに亘っているのである。生死する間のすべての営みがこの両者に関わっているのである。死んだ先の話だけではなかったのである。