<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

やさしいわたしになりたがる二月

2015年02月23日 08時40分26秒 | Weblog

おはようさん。声を聞くのは耳だよね。耳は声の入り口。聞いているのはもっと体の奥深いところかもしれない。耳は興奮して赤くなるなんてことはない。(あるのかなあ? あるのかもしれない)それよりも頬が声に反応して桜の花の色に染めてくる。足が浮いてきてあなたのところへ歩き出してしまう。ブレーキが破損したみたいにずるずるずる。

音はどうだろう。音を聞くのもやっぱり耳なんだろうか。耳以外の皮膚でも聞けるような気がする。声も音も波長振動である。人が耳で聞き取れない声や音というのもありそうに思える。余りにも高周波だったり低周波だったりして。声は喉が出している。喉に指令を出すのは脳だろうか、スピリットだろうか。

陽気な春が近づいて来た。人間のこころはなにがしかの発信装置をつけているから、当然受信装置も兼ね備えているはずだ。これは弱電気だろう。白梅紅梅の前に立つとそわそわしてくる。桃の花の下に来ると浮き足立ってくる。桜の花に迎えられると上気してくる。好きな人の前に立つとこの弱電気がすぐさま立ち上がる。春は忙しい忙しい。発信したり受信したりの頻度が数段も高くなる。

白梅のようなる声を出したがる二月のわたしはやさしいわたし   

これはさぶろうの歌ではない。投稿欄でこんな名歌を聞いた。白梅も声を立てる。これを人間が聞く。聞ける人って少ないよね、でも。それにしても、白梅の声ってどんな声音なんだろう? 兎も角聞く人をいい気持ちにさせるのだろう。同じようなこころよい波長の音声を今度は第五のチャクラがある喉(のみど)が出してくる。あっはっはとか、おっほっほとか、うっふんうっふんとかなんとか。二月は誰もがみなやさしいわたしになりたがるようだ。

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賛美歌 主を賛美する

2015年02月22日 09時13分13秒 | Weblog

さぶろうは今日はこれから背広を着て親戚の娘さんの結婚式に向かう。帰ってくるのは夜になる。

教会での式だから、賛美歌を歌うことになりそうだ。賛美歌は懐かしい。若い頃に大学のチャペルでよく歌ったことがあった。さぶろうはノイローゼ学生だったので、賛美歌はよく彼に涙を催させた。

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クロッカスが咲き出した

2015年02月22日 08時30分44秒 | Weblog

黄クロッカスが花弁のカップをひしめかせて、春の気配に乾杯をしている。我が家の花壇がこれで一気に明るく華やいだ。大好きな花だ。

かって30才の頃にイギリスを一人で旅したことがあった。ロンドンのハイドパーク(それともケンシントン・ガーデンだったかな?)の3月末。大木には黒ツグミが鳴き交わし、芝生公園にはこのクロッカスが生まれていた。

彼はブリテイッシュ・ユーレイルパス(これを日本で買っておくとどれだけ乗っても無料になる)を使って電車に乗りまくり、北から南まで旅して回った。乗り合わせた合い席のイギリス人は親切だった。自宅に招いてくれたりもした。

古びたキャッスルが何処にも聳えていた。大都市を離れるとたちまち子羊の牧場が広がっていた。夜はパブで飲み、B&B(ベッド&ブレックファスト)の安宿に泊まった。拠点は南部のホーブの町に置いた。ブライトンの隣の小さな町だった。

さぶろうはイギリスの長閑な田園風景をことのほか愛した。働いている農夫たちに親密を感じて、ぶらりぶらり散策を楽しんだこともあった。イギリスの山はさほどに高くないので、運動靴とリュックサックで登山を試みたこともあった。総じて日本人ほどの背丈をしたはにかみ屋のイギリス人も好きになった。そういうことをこのクロッカスから思い出した。

もう一度イギリスを訪ねてみたくなったが、彼は老境にいるので、この地を霧に煙るイングランドやスコットランドに準(なぞら)えているしかないのだ。今日は雨。霧がわき起こって山が見えないほどに煙っている。春一番の風も予想されている。

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是の威神力に由るが故に

2015年02月21日 19時47分35秒 | Weblog

若有無量百千万億衆生 受諸苦悩 聞是観世音菩薩 一心称名観世音菩薩 即時観其音声 皆得解脱 若有持是観世音菩薩名者 設入大火 火不能焼 由是菩薩威神力故   妙法蓮華経「観世音菩薩普門品第二十五」より

にゃくうむりょうひゃくせんまんのくしゅじょう じゅしょくのう もんせかんぜおんぼさつ いっしんしょうみょうかんぜおんぼさつ そくじかんごおんじょう かいとくげだつ にゃくうじぜかんぜおんぼさつみょうしゃ せつにゅうだいか かふのうしょう ゆぜぼさついじんりきこ

若し無量の百千万億の衆生有りて 諸々の苦悩を受けんに 是の観世音菩薩を聞いて 一心に観世音菩薩を称名すれば 即時に其の音声を観て 皆解脱を得ん 若しくは是の観世音菩薩の名を持(たも)つ者有れば 設(たと)い大火に入るとも 火も焼くこと能わず 是の菩薩の威神力に由るが故に

若しこの世の諸々の苦悩を受けている者が百千万億人あって そのうちの一人でも観世音菩薩のお救いを信じて名をお呼びするようなことがあれば その場でたちまちその人の音声を(聞くよりも早く)観察して 観世音菩薩は救済を果たされるのだ。 若し是の観世音菩薩の名をこころに保っている者があれば、だから、大火の難に出会うことがあろうとも、是の観世音菩薩に類い希な威神力が具わっているがために、火が是の人を焼くことはできなくなるのである。

観世音菩薩の名前の由来が「即時観其音声」である。音や声は耳に聞くものだが、それでは遅すぎるとして、目で見て観察をしてたちどころに救済をされる、としてある。観音菩薩はスーパーマンなのである。超人技を持っておられるのである。正義の味方月光仮面以上である。こういう設定をしてあるが、さぶろうはこれはフィクションではないと思っている。作り話ではないと思っている。本当の本当だと思っている。名前の呼び方は世界中でいろいろに変化するにしてもその存在は実在していると思っている。これに守られていると信じている。しかも、ますますその思いは強くなっていくようなのである。  

どうしてなのだろう?

この観世音菩薩普門品の経典は観世音菩薩の救済の威神力を説いてある。この世で救済を(かたじけな)忝くした者は次には救済の側に立つ順序だ。さぶろうが今度は観世音菩薩の威神力を具備することになるのだ。立脚する地点が、救済をしてもらう地点から救済する地点に変わるのだ。さぶろうの時間が差し迫っているのだ。どんなに時間が差し迫っていようとも、しかし、自己救済を完了していなければ、次の行動に移っていけないのだ。この世で妙法蓮華経に遭ったということはそういうことなのだ。さぶろうに次なる行動を促しているのだ。次なる実践に移るときが来ているのだ。さぶろうはいささか地団駄を踏みすぎているのかもしれない。

一生涯わたしはわたしの救済だけで持ち時間の全時間が過ぎてしまいました。一生をただわたしだけの問題解決で使ってしまいました。もったいないことでありました。則天去私は則天よりも去私が先決事項である。「汝もまた衆生の利益(りやく)をなせ」の天の声に則(したが)うためには、わたしの問題解決を去っておかねばならないのだ。さぶろうは老いた。よろよろだ。残された時間が少ない。

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乾燥性湿疹

2015年02月21日 19時40分59秒 | Weblog

乾燥性湿疹が痒い痒い。背中をぼりぼり掻きむしる。竹製の猫の手で。塗り薬をつけて寝るのだけど、あんまり効き目なし。背中だけじゃない。左手の臂のあたり、右脚の脹ら脛の外側。臍より下の腹一帯。どこもぼりぼり掻きむしるので真っ赤になっている。

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小さなホウレン草の収穫

2015年02月21日 17時40分31秒 | Weblog

さぶろうは午前中はずっとホウレン草を引いて過ごした。プランターに種を蒔いて育てたホウレン草だが、成育が悪くて大きくても20cm~25cmくらいにしか伸びていない。間引きの労もとらなかったので草に追い抜かれている。外の葉は朽ちて黄色くなっている。これを掘り上げて(ホウレン草は根が深く張っている)、剪定鋏で根を切り落として、変色した葉を落として、収獲した。こつこつこつ作業をしてやっと籠いっぱいになった。こういうのは不良品の裁可がおりて、店に出荷されることもないし、スーパーなどには列んでいない。収獲もされないのだ。

だが、どんなに小さくともお命さまなので捨てられないのである。この世に生を受けたお命さまは、澄んだ空気や雨や風を楽しみ、青空を楽しみ、光の暖かさを楽しんで、最終、人間に食べられる。そして人間の命に引き継がれることになる。短い一生ではあるがこれで最終を全うされたことになる。

こうして野菜などが人間に喰われることは正当化するくせに、人間はウイルスなどに喰われることを正当化しないではないか。病原菌扱いをして抹殺を企てるばかりじゃないか。彼はこの辺りの正当化理論のところで沼地に足を取られたような感覚がした。

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多千億の仏に仕えてきた菩薩

2015年02月21日 17時01分21秒 | Weblog

弘誓深如海 弘誓の深きこと海の如し

歴劫不思議 劫を歴(ふ)るとも思議せられじ

侍多千億仏 多千億の仏に侍(つか)へ

発大清浄願 大清浄の願を発(おこ)せり

もう一度ここを味わいたい。特に「侍多千億仏」という箇所を。

侍多千億仏。劫という長い長い時間を費やして、多千億の仏さま方のお傍に侍りお仕えをして来た。ここだ。

お仕えをしてきたのは観世音菩薩である。仏教では仏はお釈迦様一人に限っていない。それこそガンジス川の砂の数ほどもおられるのである。なにをかいわんや、このさぶろうもやがては仏に成る身の上なのである。

菩薩さま方は長年月、それこそ劫を歴て、千や億の仏さま方にお仕えして修行をされる。そして鍛錬成って免許皆伝の日が来る。「あなたも仏になる時がきました」という受記をされる。

われわれもまた菩薩さま方に長年月お仕えをして修行をするのである。何の修行か。仏道入門修行である。

まずはこの懐疑、仏などあるものか、菩薩などいるものか、仏身を見ることなどあるものか、仏の説法なんてまやかしだなどという疑念を解く修行からである。これに劫という時間がかかるとうのだ。地球だってまだ数十億年しか経っていないというのにその何百倍何億倍もの長年月をこれにかけるというのだ。実に壮大なドラマなのだ。そこでやって「発大清浄願」が成立することになる。

さぶろうはこれを信じている。宇宙が膨張をして収縮をしてゼロになってまた初めから繰り返すという無限大に近い時間を何度も何度も経て菩薩さまや仏さま方が修行をし誓願を立てて大宇宙の秩序と調和と進歩に向かって行動しておられるということを信じる。

法華経の経典を読んでいるとこの菩薩さま、仏さま方がたくさんたくさん次から次から登場される。皆、衆生を利益(りやく)するという誓いを建てられている。さぶろうを救う、さぶろうを助ける、さぶろうを守る、さぶろうを正しい方へ導く、さぶろうを仏にさせるという大悲願を建てられている。

さぶろうは、ここを今日は味わってみて嬉しさが込み上げてきた。さぶろうの嬉しさはしかし瞬時である。気まぐれ的である。永遠の時間をかけておられる菩薩や仏陀たちの比ではない。とてもとてもその比ではない。

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名を聞き身を見ることがあるか

2015年02月21日 15時17分42秒 | Weblog

汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願 我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦   妙法蓮華経「観世音菩薩品」偈より

にょうちょうかんのんぎょう ぜんのうしょうほうじょ ぐぜいじんにょかい りゃっこうふしぎ じたせんのくぶつ ほつだいしょうじょうがん がいにょらくせつ もんみょうぎゅうけんしん しんねんふくうか のうめつしょうく

汝(これはお釈迦様の説法を聞いている無尽意菩薩のこと)、観音の行を聴け ①(観音は)善(よ)く諸々の方所に応ず。②(観音の)弘誓(ぐぜい =誓い)の深きことは海の如し。③(観音の行は)劫を歴(ふ)るとも思議せられじ。④(観音は)多千億の仏に侍(つか)へたり。⑤(観音は)大清浄の願を発(おこ)せり。我(お釈迦様のこと)は汝の為に略して説かん。⑥(あなた方がもしも)(観音の)名を聞き、及(か)つは身を見ることがあって、⑦ (あなた方が)心に(観音を)念じて空しく過ごすことがないならば、能く諸有の苦を滅すべし。

***

さぶろうは、此処をしばらく味わいたくなった。とりわけ⑥の「名を聞き身を見る」という句を。

まず観音さまの名を聞くとは? 観音さまの名を呼べば観音さまはその音(=声)を観察した(=観て聴いた)だけで、たちどころにその人のところへ出現されることになっている。ここは念仏称名と相通じている。観音さまの名を声に出して称すると、「はい、わたしをお呼びですか」とお返事をされるのだろう。この観音さまの返事の声を聞く。するとどんなところへでもたちどころにご自身の身を現される(=善応諸方所)のである。観音さまは、「あなたがわたしを呼んだらすぐに現れて来てあなたを守り救い出し導きます。お誓いします」という弘通の誓いを建てられているからである。だから、(いざというときには)わたしたちは観音さまの身(すがた=相)を見ることができるはずである。ここで「聞名及見身」が成立することになる。この上で、次の「心念不空過」へ移行する。心に観音さまを念じて念を余所に移さないでいれば、諸有(ありとあらゆる)の苦しみは滅除される。

観音さまは菩薩である。菩薩行の第一は「代受苦(だいじゅく)」の救済手段が執れるというところだ。苦しんでいる者に代わって苦しみを受けることができるのが菩薩さまなのである。さぶろうはこうはいかない。反対の「代受楽(だいじゅらく)」をしている。他人の楽しみまでもその受けるべき人から奪い取るようにして平然と受けているところがある。

「名を聞き身を見る」というところをもう少し味わいたい。観音さまは変化(へんげ)の達人でもある。その人に合わせて三十三通りに変身されると経典にしたためてある。だから、一通りではない。仏にも天神にも人間にも、修行者にも税務官吏にも、女性にも子供にも姿を変えられるのだ。こちらは観音さまを呼んでもいないのに、SOSをいち早く察知して出現されるということもある。前世からの引き続きということもある。連帯意識が強烈なのである。で、奥さんになったり夫になっているということもある、らしい。

長くなってきた。ここらでさぶろうの結論を出したい。

さぶろうが観音さまの身(姿)を見るということがあるか? 答はイエスだ。これが結論だ。さぶろうはこうやって常に守られ正しい方へ導かれている。さぶろうを守護する存在、導き手なるものが菩薩である。観音さまの声を聞いたことがあるか。ある。観音さまがさぶろうを救済する姿を見たことがあるか。ある。何度もある。

仏も菩薩も目には見えない存在である。禅の方では「仏に会えば仏を殺せ」なる語がある。物騒だ。目に見える仏なんて<まやかしだ>というのだろう。しかし、山川草木には悉く仏性がある。とすれば、どこをどう見回したところでどれもこれもが仏を見性しているということにもなる。山川草木なら見渡す限りだ。

「峯の色渓も響きも皆ながら我が釈迦牟尼の声と姿と」なる道元禅師のお歌もある。

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今日から集落の文化祭

2015年02月21日 10時54分23秒 | Weblog

今日から集落の文化祭である。さっき公民館から放送が流れていた。集落の住人が作った様々な文化的傑作が公民館を埋め尽くす。さぶろうはもまたこれまでに数回クレヨン水彩画や詩を書き殴った墨作品を提出してきた。今回はでも怠けてしまって出さなかった。家内は編み物の小物を作って投稿したようだ。この集落の文化行事は公民館の館長さん、集落自治会の役員のみなさんのご好意、労力に負うところが多い。さて、今回はどんな傑作が列んでいることだろう。毎回、玄関入り口には梅、椿、水仙、菜の花などの冬の花を生けた生け花が出迎えてくれていたっけ。

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どんなことがあってもいい

2015年02月21日 10時38分28秒 | Weblog

どんなことがあってもいい。それがあったら、人間の成長が止まってしまうということはない。止まってしまうようなことは起こらない。常に跳ね板(さぶろうの現在力量に見合う丁度いいくらいの)の役割をしていてくれるので、そこで飛び上がってジャンプをしていけばいいのである。ここを超えてクリヤーをしていくのだ。次へ進んで行くのだ。そういう跳ね板になっていてくれるのだ、とさぶろうは思う。ああ、また超えていったぞ、とさぶろうは思う。嫌なことに出会ったとき、そこで四苦八苦をしたとき、足をすくわれそうになってよろけたとき、さぶろうは考えをチェインジしてみる。否定から肯定へチェインジしてみる。ああ、さぶろうをもう一度高い位置へ跳ね上げようとしているのだな、と考え直してみる。そういうふうにこれに耐えうるだけの力を温存している存在として自分を評価してくれたのだな、と思う。そして平穏に戻る。えいやっと声を出して、ジャンプしてクリヤーをする。どんなことがあってもいい。さぶろうをそうやって高く高く導こうとしているのだ。そういう愛情あふれる導き手に守られているのだ。そういう安心を再確認するのである。

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