汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願 我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦 妙法蓮華経「観世音菩薩品」偈より
にょうちょうかんのんぎょう ぜんのうしょうほうじょ ぐぜいじんにょかい りゃっこうふしぎ じたせんのくぶつ ほつだいしょうじょうがん がいにょらくせつ もんみょうぎゅうけんしん しんねんふくうか のうめつしょうく
汝(これはお釈迦様の説法を聞いている無尽意菩薩のこと)、観音の行を聴け ①(観音は)善(よ)く諸々の方所に応ず。②(観音の)弘誓(ぐぜい =誓い)の深きことは海の如し。③(観音の行は)劫を歴(ふ)るとも思議せられじ。④(観音は)多千億の仏に侍(つか)へたり。⑤(観音は)大清浄の願を発(おこ)せり。我(お釈迦様のこと)は汝の為に略して説かん。⑥(あなた方がもしも)(観音の)名を聞き、及(か)つは身を見ることがあって、⑦ (あなた方が)心に(観音を)念じて空しく過ごすことがないならば、能く諸有の苦を滅すべし。
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さぶろうは、此処をしばらく味わいたくなった。とりわけ⑥の「名を聞き身を見る」という句を。
まず観音さまの名を聞くとは? 観音さまの名を呼べば観音さまはその音(=声)を観察した(=観て聴いた)だけで、たちどころにその人のところへ出現されることになっている。ここは念仏称名と相通じている。観音さまの名を声に出して称すると、「はい、わたしをお呼びですか」とお返事をされるのだろう。この観音さまの返事の声を聞く。するとどんなところへでもたちどころにご自身の身を現される(=善応諸方所)のである。観音さまは、「あなたがわたしを呼んだらすぐに現れて来てあなたを守り救い出し導きます。お誓いします」という弘通の誓いを建てられているからである。だから、(いざというときには)わたしたちは観音さまの身(すがた=相)を見ることができるはずである。ここで「聞名及見身」が成立することになる。この上で、次の「心念不空過」へ移行する。心に観音さまを念じて念を余所に移さないでいれば、諸有(ありとあらゆる)の苦しみは滅除される。
観音さまは菩薩である。菩薩行の第一は「代受苦(だいじゅく)」の救済手段が執れるというところだ。苦しんでいる者に代わって苦しみを受けることができるのが菩薩さまなのである。さぶろうはこうはいかない。反対の「代受楽(だいじゅらく)」をしている。他人の楽しみまでもその受けるべき人から奪い取るようにして平然と受けているところがある。
「名を聞き身を見る」というところをもう少し味わいたい。観音さまは変化(へんげ)の達人でもある。その人に合わせて三十三通りに変身されると経典にしたためてある。だから、一通りではない。仏にも天神にも人間にも、修行者にも税務官吏にも、女性にも子供にも姿を変えられるのだ。こちらは観音さまを呼んでもいないのに、SOSをいち早く察知して出現されるということもある。前世からの引き続きということもある。連帯意識が強烈なのである。で、奥さんになったり夫になっているということもある、らしい。
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長くなってきた。ここらでさぶろうの結論を出したい。
さぶろうが観音さまの身(姿)を見るということがあるか? 答はイエスだ。これが結論だ。さぶろうはこうやって常に守られ正しい方へ導かれている。さぶろうを守護する存在、導き手なるものが菩薩である。観音さまの声を聞いたことがあるか。ある。観音さまがさぶろうを救済する姿を見たことがあるか。ある。何度もある。
仏も菩薩も目には見えない存在である。禅の方では「仏に会えば仏を殺せ」なる語がある。物騒だ。目に見える仏なんて<まやかしだ>というのだろう。しかし、山川草木には悉く仏性がある。とすれば、どこをどう見回したところでどれもこれもが仏を見性しているということにもなる。山川草木なら見渡す限りだ。
「峯の色渓も響きも皆ながら我が釈迦牟尼の声と姿と」なる道元禅師のお歌もある。