海軍施設跡看板のところにバイクを停め、母島支所長さんの運転する車に乗せてもらい、上の入り口へ。
母島は「硫黄島からの手紙」で描かれているとおり、日米玉砕の島ではないが、昭和16(1941)年に沖港防衛のために海面砲台の建設開始。
およそ64年前の残骸、機関銃。
「硫黄島の手紙」は邦画のため、字幕はアメリカ人の発する英語を訳された部分のみ。
DVDも日本語字幕なし。何と言っているか気になる映画だけに先日、テレビでその作品が字幕付きで放映されました。
栗林忠道氏は太平洋戦争が始まる前、アメリカに滞在、日本よりも軍力は優れていることは理解していた。
よりによって太平洋戦争が悪化し、アメリカが硫黄島を航空基地にしようとしたため、それを防衛するために彼が硫黄島に赴任。
水際防衛だけではすぐ陥落になるのは目に見えてくるので、地下要塞への持久戦に切り替えたそうです。
こんな機関銃だって、アメリカ軍の一撃で壊されるのは決まっている。
真っ先に挑発したのは日本、朝鮮半島や台湾までも大日本帝国にしてしまっては、敗戦。最初から戦争しなくてよかったと思えるような残骸たち。
コースの途中、この道に出ます。
きのこらしきものを発見。
夜になれば光る「グリーンペペ」かな?
タコノキ。
タコの足のようになっているので、「タコノキ」とそう名付けらしい。
亜熱帯に多い、樹木。 ここは弾薬庫跡。
64年以上前の建物にしてはしっかりしていました。
廃墟には見えないけど、崩壊などの危険もあるため、足元と周辺に充分ご留意ください、とのこと。 ここは「壕」かな。
終戦後、国の指示により軍事記録をすべて燃やされてしまったのか、この用途は不明だそうです。
このあたりは「静沢の森遊歩道」に整備されていますが、戦時中は「海軍 母島海面砲台及び静沢101高地防空砲台」という名称。
ほぼ1時間あれば散策できそうです。