あけぼの

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血統

2009-03-03 22:53:23 | ブログ

遺伝ともいうべき血統は育った環境の中でも潜在するのだろ。

子どもは親の背

中を見て育つというが、厳しい境遇の中でも人は自身で何かに目覚めたりする。私は親父の46歳の時の子である。父親は独身時代13年間アメリカで生活していたことを母から聞かされていた。明治の父は青年時代、当時誰も行かなかったアメリカへ大志を抱いて単身飛び立ち、オークランドで飛び込んだ家の丁稚小僧から始め、遂には会社経営者にまでなり、鳥取県の田舎へキャデラックを持ち帰った。だが私は父の冒険・出世物語とは別に、ほとんど母の手ひとつで育てられた。母にくっつきまわって縫い物の針を通してやったり、てんぷらの作り方を学んだりしたことを良く覚えているが父の記憶は少ない。子ども心に感じたアメリカは、家にあった「ヒルズ・コーヒー」の赤い空き缶や、握る柄のついた押し出し式の鋸だけだった。が、戦後、進駐軍の兵隊さんが郷里の温泉宿に来た折、急病になり医者を呼んだが言葉が通じず親父が出かけて通訳をしたことがあった。私自身アメリカに関心があったわけではないが、58歳にして突然駐在勤務になり何の抵抗もなく転勤し、今もって快適にアメリカに住んでいるということは血を受け継いだのかもしれない。

 最近、「血」について考えた。教えてもいないのに血統が親類の若者に見られるようになった。海外指向の女の子から父の叔父である私に「血は生きている」と聞かされた。今で言うDNA、私の母方の伯父は朝日新聞の記者で上海駐在の時期もあった。彼女も通信社に勤めている。祖先を知らないのに血が騒いだのだろうか。親子の関係や遠い親戚からの声!偶然とも言えるがどこかで繋がっているのだろうか。知ればこれからの人生に生甲斐や自信が湧いて来る筈である。奇しくもその女の子の従姉妹も最近新聞記者になった。現在の状況に迎合するのではなく創造的な生き方をして欲しいものである。行動こそ力、変化こそ人生だ。発想の転換をして新しい血を呼び込み、人生を楽しんでおくれ。自悠人


世界学会の最中にテロ事件(完) 飛行機事件の対応

2009-03-03 01:57:16 | ブログ

静かな佇まいのトレド市に後ろ髪を惹かれつつ、電車でマドリッドに戻る途中の駅構内で見たものは……恐怖の光景だった。高層ビルに飛行機が頭から突っ込み、ビルがバーンと爆発・炎上する、例のSeptember 11だったのだ。その日から世界中が大変住みにくく変わることになるあの日だった。どの駅も、ホームも、街中に見える全てのテレビが繰り返し真っ赤な炎に崩れるビルを写していた。聞こえるのは人だかりの「オー!」というどよめき。宿舎に戻り、参加者全員が会議場で犠牲者へ黙祷を捧げた。アメリカからの参加者には特に悲壮感が漂った。事件はアメリカで起こったのに参加者の帰国便に支障が出た。筆者はマドリッドからコロラドへ電話した。夫は松茸狩りが趣味で毎年9月上旬にコロラドへ行く。夫の帰路の便は足止めとなり、筆者の飛行機もテロの影響を受け、シンガポールで一泊させられた。NYから遠く離れた人たちにもこうして影響があった911。ましてあのビルにいた人たちの運命は大きく変わったことだろう。日本人留学生について911後にも追跡調査を行ったが、彼らの生活も変化した。制約が増え、苦しくなり、アメリカへ向かう留学生数も減った。

このように旅先で自分では対処できない飛行機事件に巻き込まれることがある。アメリカの飛行機を使う乗客の検査が厳しい国が多い。ウィーンでの出来事。アメリカン・エアラインを利用していた。我々夫婦とも旅好きのため「パスポートの出入国スタンプがやたら多い」という理由で疑われ、しつこい検査・検問の間に我々の乗る飛行機は出てしまい、次のNW社のフライト時間も過ぎ、ヴィエンナ・エアがやむなく引き受けてくれたが、当然帰国は遅れた。昨冬「娘難病で手術!」の電話に驚き即日本へ向かった。これもアメリカン・エアーだった。雪のため国内線が遅れ、シカゴで国際線はもう出た後、当のアメ・エアー社の受付嬢は冷たくて役立たず、出航間際のJALに事情を話し、直前だったが乗せてもらえた。合同運行であることを知っていたので頼み易かった。天候の事情による飛行接続はアメ・エア社が面倒をみるべきことだと思ったが、職員の能力次第なので自分で交渉した。事件に巻き込まれても落ち着いて対応しなければならない。彩の渦輪