アンネ・フランクの隠れ家を訪れた。かつて「アンネの日記」を英語で読む会の講師をしたことがあるので以前から訪問を願ってきた。大変な行列で一度は入館を諦めたが翌朝は早めに並んだ。運河沿いの明るいビルだが勿論カーテンは閉め、窓はペンキで塗りつぶし、隠れ家への通路のドアの前には動く本棚が置かれた。一階は父オットーの会社の倉庫で従業員は何も知らされていない。トイレの給・配水管が一階の壁を通っているので昼間はトイレは使えない。「しーっ、もう水は流しちゃだめよ!静かに歩いてね!」と言い合いつつ、密告の恐怖に耐え、8人が励ましあって耐えた2年間余。ある部屋は特に真っ暗にしてあり、恐怖に曝されて生きる当時のアンネの気持ちが共有でき、優れた効果だと思った。1944年8月4日、匿名の密告電話により8人は大量虐殺処理収容所へと送られた。密告者はいまだ不明という。8人中7人が毒ガスまたは病気のため死亡、アンネと姉マルゴーは終戦の年1945年の3月、数日の違いで息を引き取った。父オットー一人が同じ年の6月に生還し、娘アンネの日記出版を決意、人々が共に生きる世界を作るための活動に従事した。世界中で今なお人権侵害が絶えない現状だが、多くの観光客がアンネの隠れ家に行き、屋根裏部屋の暗澹体験をする。この隠れ家公開は人権意識高揚の啓蒙活動になっていると思える。続く(彩の渦輪)
2週間もブログを休んでしまったのは学期末の忙しさの故だった。去年新しい講座「日本文化紹介」を開いてもらい、責任上徹底的に準備に時間をかけたこと、学期末ゆえ有終の美を飾ろうと、他のどのクラスにも色々ナアイデアを盛り込んだこと、等が理由だが、欲張ればいくらでも忙しくなるものですね。得意でない俳句まで教えたので、英語で書いた俳句の本を2冊も読み、学生が2,3句詠めるとこまで指導し得たと思う。後3週間でこの学期は終わり日本へ帰れる。今日は先頃訪問したオランダ報告のPart Iです。
オランダの冬は長く風は冷たい。海岸線は長く、地面は海面より低く、無数の運河が交錯し、水に脅かされ続けてきた。アムステル川にダムを作って人が住み始めたのがアムステルダムだというが、「地球は神がお造りになり、オランダはオランダ人が造った」とは本でも読み現地でも聞かされた。水、風等の自然との戦いを通して忍耐力を培い、対策や予測のための学習を通して自信と楽観性を身につけたオランダ人は、日本を始め多くの国へ貿易にも出かけて行った。第二次大戦中、ナチスに追われるユダヤ人たちを匿う優しさも持ちあわせていた。
風車とチューリップで有名なオランダは北海に面した小さな国、面積は日本の9分の1だ。ネーデルランド(低い土地という意味)とも言われ、国土の4分の1は海抜ゼロ以下だそうだ。正式国名はNetherlands、複数だから「ランド」ではなく「ランズ」である。しっとり美しい運河の水際通りを歩いたり、運河の舟から台形や三角形の独特の屋根、美しく頑丈な建物やハネ橋を見上げると、箱のようなビルが並ぶ東京の町並みなど虚しく思える。人々がまた素敵だ。忍耐強く、明るく、大胆で勉強心がある。なぜだろう。
風車が考案されたのは低い土地から滲み出す水を吸い上げるためだったが、後には工業に利用した。風車で有名なザーンセ・スカンスにはかつて1000基の風車があり、世界初の工業地帯を誇ったが現在は13基、産業の現役として観光用として活躍している。(彩の渦輪)