あけぼの

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噛むほどに味がでるノルウェイ

2009-03-11 08:52:50 | アート・文化

ノルウェーといえばフィヨルド、オーロラ、高福祉社会、カントリー・スキーなどが脳裏に浮かぶことだろう。人口500万人と言えば大阪府ぐらいだが、最近ではスカンジナヴィア四国の中で一番好景気な国であり、北海油田、水力発電によるエネルギー資源輸出国として1人当たりのGDPは世界のトップクラスに位置している。国土面積は日本と同じであるが、森林、湖や人が住めない北極圏のツンドラ地帯が多く、生活用地は限られている。厳しい環境に生きる生活の知恵は漁業を発達させ、その行動力は海洋からの貿易に活路を見出し、音楽家や画家、彫刻家等を輩出した。優れた芸術性も国民性そのものだ。北極圏のため気候は厳しく、観光時期は限られる。歴史的な建造物もなく加えて物価高、23%の消費税は住みにくいと思うのだが、高福祉政策が生活の基盤になっているので国民は安心出来るのだろう。

 何はさておきフィヨルド観光をした。オスローから港町ベルゲンまで列車と船とバスを乗りついでその景観を鑑賞することにした。列車を止めてくれ、下車して見たヒョースの滝は、90m落差が三段に別れ、白い雲のごとくもくもくと湧き出し、押し出されるように観衆に迫って来る。水流の豊かさと勢いには圧倒され、しばし呆然とたたずむのみだった。その滝の上方を見ると深紅の服に身を包んだ女が時折顔を出し、手招きをするのだ。沸き立つ白い滝と赤い女のコントラストが絶妙かつ幻想的で、しばし夢か現実かとまどった。次は船だった。深さ1000m以上もあるフィヨルドの、鏡のような表面を船は滑るように進む。目前のフィヨルドは天然の美を絵画にして見るようだった。迫ってくる山の斜面を白い筋になって次々と流れ落ちる滝がフィヨルドらしさを強調し、脳裏に刻まれるものだった。自悠人


知人ストローク(卒中)で倒れる

2009-03-06 03:54:50 | ブログ

 我が家のパーティーに2回も来てくれたイギリス人、イアン・スコットが脳梗塞で倒れた。独り者で84歳、お医者さんである。知人イーナの知り合いで別れた旦那の友だちだった。彼にはサーモン丸焼きの調理法やイギリスの食文化を教わった間柄である。彼が倒れたのは最近の週末の土曜日か日曜日の何時だったか誰も知らない。イアンの友だちからの電話でどうも言葉のろれつがおかしいとイーナに知らせがあったとのこと。日曜日夜、住居の玄関で倒れていたイアンを発見したのはイーナの依頼によって入ってみた家主だった。病院での診断、治療の結果、右半身麻痺の状態に進展がなく、病院を出されてナーシング・ホーム(老人ホーム)に移った。

イーナと一緒に見舞いに行った。よい保険に入っている割には個室もべッドも質素に思えた。自身の意思が働かなかったのだから誰が手配したか分からない。我々が会いに行ったときはよく喋ったが、言語不明瞭で過去の出来事を忘れていたようだった。イギリスから弟さんが来たが一身上の決定や措置をする術もなく困惑しているそうだ。身内といっても外国人では法的実行力がないそうだ。 イアンは生涯独身だった。アメリカには身寄りは誰れもいない。イギリスから来たイーナはよい友だちで一番親交があったようだ。彼のメモ帳にイーナの電話番号が記録されていたので倒れたことが知らされた。資産としては古いが大規模アパートを保持しているようだが、身体に支障ある以上他の人ではどうしようもない。万一の場合、遺書があってもパワー・アトーニーを指定していないと誰も彼のために働けない。独り者が倒れた場合の教訓になる一事件だ。こうした場合、日本には市町村から認可を受けた登録民間人の資産管理人制度がある。イーナの場合、子どもたちがいるから心配ない筈だが、慌ててパワー・アトーニーの手続きをしたそうだ。(自悠人)

 

 

 


血統

2009-03-03 22:53:23 | ブログ

遺伝ともいうべき血統は育った環境の中でも潜在するのだろ。

子どもは親の背

中を見て育つというが、厳しい境遇の中でも人は自身で何かに目覚めたりする。私は親父の46歳の時の子である。父親は独身時代13年間アメリカで生活していたことを母から聞かされていた。明治の父は青年時代、当時誰も行かなかったアメリカへ大志を抱いて単身飛び立ち、オークランドで飛び込んだ家の丁稚小僧から始め、遂には会社経営者にまでなり、鳥取県の田舎へキャデラックを持ち帰った。だが私は父の冒険・出世物語とは別に、ほとんど母の手ひとつで育てられた。母にくっつきまわって縫い物の針を通してやったり、てんぷらの作り方を学んだりしたことを良く覚えているが父の記憶は少ない。子ども心に感じたアメリカは、家にあった「ヒルズ・コーヒー」の赤い空き缶や、握る柄のついた押し出し式の鋸だけだった。が、戦後、進駐軍の兵隊さんが郷里の温泉宿に来た折、急病になり医者を呼んだが言葉が通じず親父が出かけて通訳をしたことがあった。私自身アメリカに関心があったわけではないが、58歳にして突然駐在勤務になり何の抵抗もなく転勤し、今もって快適にアメリカに住んでいるということは血を受け継いだのかもしれない。

 最近、「血」について考えた。教えてもいないのに血統が親類の若者に見られるようになった。海外指向の女の子から父の叔父である私に「血は生きている」と聞かされた。今で言うDNA、私の母方の伯父は朝日新聞の記者で上海駐在の時期もあった。彼女も通信社に勤めている。祖先を知らないのに血が騒いだのだろうか。親子の関係や遠い親戚からの声!偶然とも言えるがどこかで繋がっているのだろうか。知ればこれからの人生に生甲斐や自信が湧いて来る筈である。奇しくもその女の子の従姉妹も最近新聞記者になった。現在の状況に迎合するのではなく創造的な生き方をして欲しいものである。行動こそ力、変化こそ人生だ。発想の転換をして新しい血を呼び込み、人生を楽しんでおくれ。自悠人


世界学会の最中にテロ事件(完) 飛行機事件の対応

2009-03-03 01:57:16 | ブログ

静かな佇まいのトレド市に後ろ髪を惹かれつつ、電車でマドリッドに戻る途中の駅構内で見たものは……恐怖の光景だった。高層ビルに飛行機が頭から突っ込み、ビルがバーンと爆発・炎上する、例のSeptember 11だったのだ。その日から世界中が大変住みにくく変わることになるあの日だった。どの駅も、ホームも、街中に見える全てのテレビが繰り返し真っ赤な炎に崩れるビルを写していた。聞こえるのは人だかりの「オー!」というどよめき。宿舎に戻り、参加者全員が会議場で犠牲者へ黙祷を捧げた。アメリカからの参加者には特に悲壮感が漂った。事件はアメリカで起こったのに参加者の帰国便に支障が出た。筆者はマドリッドからコロラドへ電話した。夫は松茸狩りが趣味で毎年9月上旬にコロラドへ行く。夫の帰路の便は足止めとなり、筆者の飛行機もテロの影響を受け、シンガポールで一泊させられた。NYから遠く離れた人たちにもこうして影響があった911。ましてあのビルにいた人たちの運命は大きく変わったことだろう。日本人留学生について911後にも追跡調査を行ったが、彼らの生活も変化した。制約が増え、苦しくなり、アメリカへ向かう留学生数も減った。

このように旅先で自分では対処できない飛行機事件に巻き込まれることがある。アメリカの飛行機を使う乗客の検査が厳しい国が多い。ウィーンでの出来事。アメリカン・エアラインを利用していた。我々夫婦とも旅好きのため「パスポートの出入国スタンプがやたら多い」という理由で疑われ、しつこい検査・検問の間に我々の乗る飛行機は出てしまい、次のNW社のフライト時間も過ぎ、ヴィエンナ・エアがやむなく引き受けてくれたが、当然帰国は遅れた。昨冬「娘難病で手術!」の電話に驚き即日本へ向かった。これもアメリカン・エアーだった。雪のため国内線が遅れ、シカゴで国際線はもう出た後、当のアメ・エアー社の受付嬢は冷たくて役立たず、出航間際のJALに事情を話し、直前だったが乗せてもらえた。合同運行であることを知っていたので頼み易かった。天候の事情による飛行接続はアメ・エア社が面倒をみるべきことだと思ったが、職員の能力次第なので自分で交渉した。事件に巻き込まれても落ち着いて対応しなければならない。彩の渦輪


世界学会の最中にテロ事件  ~スペイン~ 

2009-03-02 02:13:46 | ブログ

  マドリッドには学会発表で行った。筆者の専問は教科教育で、特に多文化・異文化教育、グローバル教育、平和教育であり、当然教壇にも立ち、カリキュラムも作れる。世界学会の発表はバンコックで一回とここ、マドリッドは2回目だ。一回目の発表は「全米に散らばる日本人留学生の留学動機、志望、遭遇する問題、満足度、異文化適応能力その他の特徴と生活実態を16項目にわたり、学部学生、大学院生、男子学生、女子学生の相違が分かるようにデザインして調査し、ケース・スタディーも多数つけ、量的・質的両面の研究であった。諸国の代表から「研究法が自身の研究に応用できる」と好評で、学会長賞も受賞した。マドリッドでは平和教育の参考として「平和の文化を創造する一方略:ピース・ボート活動」を発表、外国からの参加者が多く賛同してくれ、多くの友人ができた。

発表の合間に街を歩いた。マドリッドで最も美しい建物の一つと言われる王宮を見てオリエンテ広場から北へ進み、ドン・キホーテとサンチョ・パンザの像のあるスペイン広場で休み、グラン・ビア通りで店を覗く。DONDE ESTA MI CERVEZA?(私のビールはどこ?)というTシャツを記念に買って悦に入った。プラド美術館周辺には数え切れないほど美術館、博物館、芸術センターがあり、まさに芸術の街だ。プラド美術館の東にあるレティロ公園には白鳥が泳ぐ澄明な池があり、鏡のような水に反映する建物や噴水は見飽きない。公園内の水晶宮殿はロンドンの水晶宮をモデルにしたというが建物は本当に巨大な水晶のイメージだ。

  発表後、近くのセゴビアやトレドに電車で出かけた。完璧な姿で残るという世界遺産、セゴビアの水道橋は二万個以上の石をただ積み上げただけだという。128のアーチがある二層からなる建造物で、驚異的に保存状態が良く、古代ローマ時代の技術の高さに驚く。観光満足度の大変高い水道橋である。カテドラルが美しく迷路が楽しい街、タホ川とサン・マルティン橋に限りない郷愁を覚えさせられたトレドも筆者には去りがたい街だった。このトレド市は1987年に世界文化遺産の指定を受けており、奈良市やオハイオ州と姉妹都市関係を結んでいる。(続く)彩の渦輪