鶴の一声で「はんこ不要論」が急浮上した。
「省庁」において「はんこ廃止」となれば、影響は大きい。
「省庁」においては、これからの1~2年で「押印作業」はかなり減り、「電子印鑑」が代用されることになろう。
ただ、全く「はんこ」が姿を消すことはないだろう。
といっても「はんこ屋さん」にとっては死活問題になるかも?
今ある「はんこ」である程度はまかなえることだろう。
だとしても「役職+氏名」や「部署+日付」などは、役職・部署などの変更とともに新しいものは必要か?
「はんこ」とは、「印章」と呼ぶのが正式か?
木、竹、石、角、象牙、金属、合成樹脂などを素材として、その一面に文字やシンボルを彫刻したもので、個人・官職・団体のしるしとして公私の文書(公文書や私信など)に押して特有の痕跡(印影・印痕)を残すことにより、その責任や権威を証明する事に用いるもの。
印(いん)、判(はん)、印判(いんばん)、印形(いんぎょう)、印顆(いんか)、印信(いんしん)、ハンコ(判子)ともいう。
しばしば世間一般では、正式には印章と呼ばれるもののことをハンコ、印鑑(いんかん)と呼んでいるが、厳密には印章あるいはハンコと同じ意味で「印鑑」という語を用いるのは正確ではない。古くは、印影と印章の所有者(押印した者)を一致させるために、印章を登録させた。この印影の登録簿を指して「印鑑」と呼んだ。転じて、印鑑登録に用いた印章(実印)を特に印鑑と呼ぶこともあり、更には銀行印などの登録印や、印章全般もそのように呼ぶ場合もある。*Wikipedia より
「印章」の語源
日本語の「印章」という単語の語原は中国の秦や漢の時代に遡る。それ以前の時代において印章は「鉥」(じ)と呼ばれていたが、秦の始皇帝は、皇帝が持つもののみを「璽」(じ)、臣下の持つものは「印」と呼ぶよう定義し、更に後の漢時代になると丞相や大将軍の持つものは「章」と呼ばれるようになった。これら印と章を総称するものとして「印章」という単語が生まれた。
現代日本で生活・実用品として用いられる印章は、市町村に登録した実印、銀行などの金融機関に登録された銀行印、届け出を必要としない認印の3種類に大別され、そこから更に細分化することができる。文書の電子化に伴い、署名の分野では2000年の電子署名法の施行により電子署名が登場しているのに対し、印章の分野では印影の画像を電子文書に添付する機能を有する電子印鑑(デジタル印)が登場している。
印象の歴史
原始的な印章は中東の遺跡(紀元前7000年 - 6000年頃)から発掘されていて、紀元前5000年頃に古代メソポタミアで使われるようになったとされる。最初は粘土板や封泥の上に押すスタンプ型の印章が用いられたが、後に粘土板の上で転がす円筒形の印章(円筒印章)が登場し、当初は宝物の護符として考案され、のち実用品になったが、間もなく当時の美意識を盛り込んだシリンダー・シールとなった。紀元前3000年頃の古代エジプトでは、ヒエログリフが刻印された宗教性をもったスカラベ型印章が用いられていた。それ以来、認証、封印、所有権の証明、権力の象徴などの目的で広く用いられた。インダス文明ではインダス式印章が普及し、今日大量に発掘されている。これがシルクロードを通って古代中国に伝わったのは、かなり遅れて戦国時代初期(紀元前4、5世紀)であったろう。その図象を鋳成した青銅印を粘土に押し付けると、レリーフ状の図象が浮きあがり、シリンダー・シールとの文化的連続性は否定すべくもない。
中国における印章
中国最古の、ひいてはアジア地域最古の印章といわれるものの一つに、殷時代の遺跡から出土したとされる3つの殷璽があるが、これについては発見の状況が疑わしく、またこの時代に印章が用いられていたことを示す痕跡が他に何も発見されていない。学術的な発掘によって発見された印章として最も古いものは戦国時代のもので、この頃から文章や物品の封泥に鉥(じ)と呼ばれる印章が用いられていたことを示す文献や出土品が数多く発見されている。秦・漢の時代に入ると制度が整備され、印章は持ち主の権力を示す象徴となっていく。その後、紙に普及の伴って、中国の印章は封泥のためのものから紙に朱泥で押すためのものへと変化していき、陰刻ではなく陽刻が用いられるようになる。
一方、隋・唐の時代には書道の発展を背景として署名が用いられるようになり、公文書や書状に私印が使われることは少なくなっていった。その一方、この頃から書画などに用いる趣味・芸術のための印章が使われ始めるようになり、印影そのものを芸術とする、書道としての篆刻へと発展していく。
中国の印章は芸術として独自の発展を遂げたものの、その後も民間に浸透することはなく、実用的な日用品として用いられることはなかった。識字率の低い時代にも署名や押印の代わりには、他の様々な手段が使われた。
日本における印章
日本では西暦57年頃に中国から日本に送られたとされ、1784年に九州で出土した「漢委奴国王」の金印が日本最古のものとして有名である。ただし当時の日本ではまだ漢字が知られておらず、印章を使う風習もなかったため、漢委奴国王印が実際に印を押す用途で使用されたかどうかには懐疑的な意見もある。日本の文献に残る最古の記述は『日本書紀』のもので、692年には持統天皇へ木印を奉ったという言及がある。なお『日本書紀』にはそれ以前にも、紀元前88年頃に崇神天皇が四道将軍に印を授けたという記述が見られるが、これについては後世の脚色と考えられている。
日本において印章が本格的に使われるようになったのは、大化の改新の後、701年の大宝律令の制定とともに官印が導入されてからであると考えられる。当時の日本における印章の用法は、隋・唐における用法が模範となったものの、それ以前の中国での歴史的用法は伝播しなかったため、中国とは趣を異にするものとなった。律令制度下では公文書の一面に公印が押されており、奈良時代に勃発した藤原仲麻呂の乱では双方で印の確保や奪回が行われるほどであったが、次第に簡略化されるようになり、平安時代後期から鎌倉時代にかけては花押(意匠化された署名)に取って代わられた。しかしながら、室町時代になると宋から来た禅宗の僧侶たちを通じ、書画に用いる用途で再び印章を使う習慣が復活することとなり、武家社会へと伝播していく。戦国時代には花押にかかる手間を簡略化するため、大名の間で文書を保証する用途に、略式の署名として印章が使われるようになる(織田信長の「天下布武」の印など)。
江戸時代には行政上の書類のほか私文書にも印を押す慣習が広がるとともに、実印を登録させるための印鑑帳が作られるようになり。これが後の印鑑登録制度の起源となった。江戸時代の日本における印章は命の次に大事なものに例えられるなど、庶民の財産を保証するものとして非常に重く扱われるようになり、日本独自の印章文化が確立した。
明治政府は印章の偏重を悪習と考え、欧米諸国にならって署名の制度を導入しようと試みたが、事務の繁雑さや当時の識字率の低さを理由に反対意見が相次いだ。以後の議論の末、1900年までに、ほとんどの文書において自署の代わりに記名押印すれば足りるとの制度が確立した。例えば、1900年には、政府の反対意見にもかかわらず、議員立法により、商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律が成立し、商法の規定により必要な署名は記名押印をもって代えることができるようになった。また、印鑑登録制度が市町村の事務となったのも明治時代である。
現代日本においては、印章の制作請負・販売を主とする実店舗やオンラインストアがあり、その業界誌も刊行されている。
政府では紙の書類に印を押すという文化がペーパーレス化やオンライン化を妨げているとして、eシールなどを利用した手続きを検討している。
日本の印章の製造拠点は、主に山梨県西八代郡市川三郷町の六郷地区であり、六郷印章業連合組合が設置され全国の50%のシェアを持つ。経済産業大臣指定伝統的工芸品として甲州手彫印章が指定されている。
2020年には2019新型コロナウイルスの感染が拡大してテレワークが推奨されるようになったが、会社によっては印鑑を押すためだけに出社を余儀なくされる者も現れ、押印の慣習、慣行がネガティブに報道されるようになった。日本経済団体連合会会長を務める中西宏明は「印鑑はナンセンスで、美術品として残せばいい」という意見を表明し、代替として電子署名を挙げた[63]。河野太郎行政改革担当大臣は、行政手続きでは印鑑を原則廃止し、使用する場合は理由を明示することを各省庁に伝達した。なお河野自身は文化的側面については評価しており、蔵書印も所有している。
コロナウィルスの感染以前から需要は減少しており、行政手続きでの不使用でさらなる需要減が見込まれるため、業界団体では蔵書印や落款など趣味向けの商品開発を行っている。
*Wikipedia より
「印章-はんこ」は時代遅れと言わんばかり。
既に第二次世界大戦前に日本統治されたアジア諸国において、「はんこ文化」も伝えられた。
しかし、ほぼ消滅したといっていいらしい。
やはり「はんこ」は、ガラパゴス日本の象徴かも?(笑
ではどうすべきなのか?
「生き残り策」はあるのか?
前述の通り、「伝統的工芸品」としての存在意義・需要は多少はある。
市場は小さいだろうが、「技術」を持つ「差別化」を図った「専門店」は生き残ることだろう。
しかし「技術」を持たない「町のハンコ屋さん」はどうすべきか?
一部には「機械彫り」であっても、「デザイン」に特化したお店は生き残れるか?
さすれば、やはり「業態変更」しかないのか?
今の「はんこ」に取って代わるものがない限り難しい選択になろう。