富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

《リバイバル・アーカイブス》河内一寸空豆  1

2015年07月04日 | 歴史

〈リバイバル・アーカイブス〉2021.6.21.~7.12

原本:2015年7月4日

 うちの親は「 おたふくまめ 」と呼んでいました。豆の形がしもぶくれでふっくら「おたふく」に似ているからでしょうか?ほかに、そら豆とか、かいこ豆とかよんでいます。空(そら)豆は、「 サヤが空に向かって伸びるように生える 」からでしょうし、蚕(かいこ)豆は「サヤがカイコの幼虫形に似ている」からだと思われます。江戸時代の書物では蚕豆とかそら豆と呼んでいます。大阪近辺では、ほとんど養蚕はされていませんので、この辺ではあまり蚕豆とは呼ばないようです。

 

〈画像をクリックすると拡大します。〉

 大阪は江戸時代「天下の台所」と呼ばれたように、古くから食文化が栄え、その食文化を支える大阪独特の野菜が多数ありました。

しかし、戦後、農産物の生産性を上げるための品種改良や農地の宅地化、食生活の洋風化が進み地域独特の歴史や伝統を有する品種が次々に店頭から消えていきました。

近年、こうした伝統ある野菜を見直そうという機運が高まり、昔ながらの野菜を再び味わってもらえるよう、大阪府、大阪市 をはじめ、各市町村の方々が、伝統的な「なにわの伝統野菜」の発掘と復活に取り組まれています。

 

〈画像をクリックすると拡大します。〉

「なにわの伝統野菜」

 大阪府で17種類(大阪市8種類含む)があります。

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉

 

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉

 スーパーや八百屋さんに並んでいる、「うすいえんどう」は、実は富田林から程近い、羽曳野市碓井地区が最初に栽培されたところだったんですね。今は和歌山産が有名ですけど...

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉 

上の写真は富田林市西板持の石川右岸の畑です。水田耕作も可能ですが、千両ナスやキュウリの大産地です。

今も富田林市の石川右岸や河南町でよく栽培されている里芋 石川早生。その名の由来は、石川(旧石川村(現河南町)、旧石川郡、石川)にあったんですね。

里芋の品種では非常にメジャーな品種ですが、残念ながら「なにわの伝統野菜」には、選定されていません。

 

  〈画像をクリックすると拡大します。〉

私の記憶では、50年ほど前は、田んぼの米の裏作としてよく見かけました。今は出荷目的で栽培されているのをあまり見かけません。

河内一寸空豆は、現在生産量が少なく、残念ながら「なにわの伝統野菜」には、選定されていません。

 

 かつての河内一寸空豆の大産地、喜志地区の上手(かみて)には粟ケ池があります。

粟ケ池の水は石川上流部の荒前井堰(7.3km上流)と深溝(ふこうど)井堰(4.8km上流)から、人工の水路を通してやってきます。池の起源は伝承では日本書紀の仁徳天皇の条にある和邇池にあたると言われ、考古学的にも奈良時代には築造されていたようです。粟ケ池の水は石川の水なんです。

 

 喜志地区の田んぼ

深溝井路や粟が池の流域の田んぼは肥沃でよく実ります。しかも粘土質で、当時河内一寸空豆の栽培には土壌が適当でした。よって、喜志地区の米の裏作として昭和期には大産地を構成していました。現在は、嗜好も変わり、ほとんど作られなくなりました。〈地図

 

 喜志新家地区の掛稲

 かつての二毛作地帯で、裏作として、そら豆や裸麦(大麦の一種)、菜種などを植えていました。(昭和28年の資料より)

粘質土壌を好み、砂質の土壌は適さない。収量も大きく違うそうです。

 

 敷きわらを敷いてもらって冬を越すそら豆  寒さに強く、雪が降っても、霜が降りても元気です。

冷涼な気候を好む作物で、幼植物の耐寒性は強く、かなりの低温に耐えられます。よって、大阪では、二毛作の裏作として、冬場も育つ作物として作られてきました。しかし、多くの土壌水分を必要とするので、乾燥の被害を受けやすいようです。ソラマメは根の酸素要求量が多いので、過湿は厳禁。特に、水田裏作では、排水対策を十分に注意して、畝をふわっとしてやるといいようです。

 

空豆はすでに奈良時代に中国から伝えられていたようです。

ソラマメの原産地は、一般的に中央アジア~地中海沿岸地方とされています。紀元前5000年ごろ、チグリス・ユーフラテス川流域で栽培の形跡が確認されています。また、エジプトでは4000年前から栽培されており、ピラミッドからそら豆が発見されています。わが国へは、奈良時代の聖武天皇のころにインドの僧が中国を経て伝え、僧 行基にそら豆を贈り、兵庫県武庫村で試作したと伝えられています。明治時代に欧米系の品種が多数導入されました。

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉

 

 〈画像をクリックすると拡大します。〉

江戸前期には、蚕豆(かいこまめ)とか空豆(そらまめ)とか呼ばれていたようです。

 

 昭和30~40年ごろ、よく親が買ってきたのか、もらってきたのかわかりませんが、たくさんの河内一寸空豆が家(うち)の土間にドーンと置いてありました。早く食べないと豆がすぐ固くなるので、さっそく皮むきをさせられました。さやに2個しか入ってないので結構時間がかかるんです。山のようにあったそら豆のさやも、中身はちょっと(少し)...さやをむくとでっかい3センチもあるうす緑のそら豆が「おはぐろ(背の黒い部分)」を着けて出てきます。

その日の晩は決まってそらまめの醤油煮です。これがきらいやった。なんかエグ味があって、皮がかたくて、子供の口にはおっきすぎる。農家に生まれなくてよかったと小学生ながら、真剣にそう思いました。(農家なら、毎日食べさせられる。収穫期間が短いし...スイカの時期は、農家はええなとも思いましたけど...)

 

2015.7月4日 (HN:アブラコウモリH)

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 《リバイバル・アーカイブス... | トップ | 雨の日の景色ー太子町葉室 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事