〈リバイバル・アーカイブス〉2021.6.21.~7.12.
原本:2015年7且4日
河内一寸空豆の花。花は白色で、黒い目玉があります。
さやは太く短く、ふっくらボリウムがあり、中に「おはぐろ」のついた3cmくらい(一寸)の大きな実がなります。さやに入っている豆の数は基本2個です。
☆〈上の表〉平成21年(2009)の農業統計では、富田林市が結構いろんな作物を作付しているのがわかりますね。南河内地方ではトップではないですか!千両ナスやキュウリは有名ですが、トマトや大根、白菜、玉ねぎも結構作っていますね。もちろんそら豆もトップです。
☆〈下の表〉昭和25年(1950)においては、二毛作の裏作として裸麦(大麦に一種)が圧倒的の多いのがわかります。押麦にして、お米に混ぜていただきましたね。ご飯が炊けたら、押麦が表面にたまるので、これを重点的にしゃもじですくっていただきました。裸麦は麦茶やはったい粉にも加工され、はったい粉は口に含んで、当時流行っていたゴジラの光線のように、口からパァ~ッと出して、ふざけて遊んでいました。
次に裏作としては、エンドウやそら豆、小麦が多いのがわかります。
喜志七郷は今も農産物の大産地ですが、昭和28年(1953)においても、特にエンドウ、そら豆(=蚕豆)の大産地であったようです。
喜志地区の中では、大深、宮、桜井地区の生産が多かったのがわかります。
雪でも霜でもガンバル。
2012.12.19. 12月でもガンバルそら豆
昭和10年(1935)の大阪府の資料より
戦前に「本場 河内一寸蚕豆 種子」として、関東方面に出荷していたのがわかります。
粟ケ池下流部の鷺(さぎ)
河内一寸空豆はこの周辺で多く作られていました。
粟ケ池の川鵜
粟ケ池 喜志七郷北部・北東部の田んぼをを潤します。
辰池 喜志七郷のうち、平、喜志新家地区を潤します。
辰池は谷池になっており、上手(かみて)から、七回り池→ウサイ池→喜志新池→星ケ池→辰池と縦に並んでいます。
富田林市の種苗店の出荷倉庫:倉庫は富田林駅の引き込み線の横にありました。選別と燻蒸をして、貨車に積み込みます。一番よく出荷していたのは、昭和のはじめ。大阪鉄道(通称大鉄、現近鉄)の時代。 阿倍野に大鉄百貨店(現 近鉄百貨店阿倍野店ができた時代でした。(S12年、1937)
当時、二硫化炭素で燻蒸しマメゾウムシを駆除。この出荷倉庫で、駆除をしていました。駆除があまいとゾウムシが豆を食い、ダニも発生し、駆除が強すぎると、種の出芽率が落ちます。燻蒸は要注意。
富田林駅より貨車に乗せて関東方面(千葉・茨城)に出荷します。この写真は、当時 この商店の絵ハガキになっていたもの。近鉄 富田林駅もこんな時代があったのですね。関東への出荷は戦後しばらく続きました。
昭和の初めから戦前までがもっとも、「河内一寸そら豆」が華やいだ時代。
【今回わかったこと】
河内一寸空豆が継続的に、大量に出荷された理由
『河内一寸蚕豆は他の蚕豆と一番大きな違いは、他の蚕豆も多少は連作すると退化現象を表しますが、河内一寸は他の土地で取り返しの種子を使うとF1(註1)と同じような現象を表し、大阪以外の土地で栽培しますと2年目以降は甚だしい退化を表し粒径が小さくなります。...(そのため)関東地方で稲の裏作として栽培されていましたので毎年種子が必要とされ、F1でないのに種子の自家で種を取ることができず長年にわたり関西から大量に供給されていました。』(参照:季刊 大阪「食」文化専門誌「浮瀬(うかむせ) 」H17.3.1.号(2005.No.8) 浪速魚菜の会事務局)
F1:雑種一代植物(動物)のこと。FIは両親の良いところをあわせもっている場合が多い。品質が良い。病気に強い。収量が多いなど。
つまり、普通の農産物は、その作物を栽培し収穫しながら、来年の蒔く種も自家で残しておくのですが、河内一寸空豆の特徴で自家で収穫した種を植えても、本来の河内一寸のような大きな豆には成長せず、また収穫も少なかったそうです。つまり、自家で次の種を作ることができず、毎年種が必要であったため、大量に作付している関東方面に種の出荷が継続されたということだそうです。
そういうことって、あるんですね。
関連記事: 河内一寸空豆 1 2015.7.4.
2015.7月4日 (HN:アブラコウモリH)
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