〈リバイバル・アーカイブス〉2021.10.4~10.18
原本:2016年10月17日
まずは、1番バッターは、アブラコウモリHより、『喜志の宮さんのだんじり祭り』をお伝えします。
2016.10.16. 9:54 富田林市桜井町1丁目 喜志の宮さん=美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ) の御旅所前で、神社のある地区、「宮町」のだんじり(右)と、上手の深溝(ふこうど)井路が流れる「毛人谷(えびたに)」のだんじりがお互いにあいさつを交わしています。
今年新調した毛人谷のだんじり
お迎えする宮町のだんじり
喜志の宮に宮入りする13町のだんじりは、この粟ケ池で結ばれています。というのも、毛人谷・富田林・新堂・若一・中野・喜志(宮)はこの池に流入する人工の水路(深溝井路)が通る上手の地区、喜志(桜井)・川面(かわづら)・喜志(大深おうけ)・木戸山・喜志新家・尺度(羽曳野市)はこの粟ケ池を水源にする下手地区、別の水源の地区が平町です。
宮・桜井・川面・大深・平は江戸時代は喜志としてまとまり、喜志五郷と呼ばれ、江戸後期にはごくまれな二千石を越える巨大な一つの村(惣村)として存在していました。ひとつの村なのに庄屋さんが五人もいたんですよ。
深溝井路は、錦織東一丁目の石川から深溝井堰により取水し、延々4.8km、上手の地区を通り、田んぼを潤しながら、粟ケ池に入ります。そして、粟ケ池からは7つの樋門より下手の地区を潤します。
不思議なことに、現在粟ケ池に流入する自然の河川はひとつもなく、すべて人工の水路、深溝井路に頼っています。この水路は、なんと奈良時代から粟ケ池と同時期に成立していたことが、考古学資料により近年解明されてきました。
粟ケ池の水で灌漑する桜井地区の豊かな水田
...なのに、富田林市では有数の豊かな土地。戦前・戦後は、「河内一寸空豆」で一世風靡、関東までその種子を出荷していたこともありました。
2016.10.16.9:36 宮入り前の準備で忙しい式内社 美具久留御魂神社
10時ころから子供だんじりから宮入りします。
関連記事:やっと、やってきました! 2014.9.4.
宮町集会所の提灯
下拝殿 真ん中は「みぐくるん」 頭は二上山です。
みこしが二基、奉納されています。
宮入りした各地区のだんじり曳行責任者に、ここでお祓いが行なわれます。
振り返ると、参道のむこうは二上山
参道の手水鉢の横にも神輿がありました。
下拝殿右にある「朝鮮通信使の絵馬」です。
関連記事:私の富田林百景+ 「 太陽の道 美具久留御魂神社 」2013.12.17.
元禄八年(1695)に奉納されたようです。
奉納者は、「喜志櫻井村」(現在の喜志 桜井)と書かれ、11名の名前が記されています。
その、ご子孫が曳行されている喜志 桜井の だんじり。
のんびりと曳き歌を歌いながら、ゆっくりしたリズムでマイペースで宮入りするだんじり。「やりまわし」はしません!
屋根の勾配のきつい、背高の石川型のだんじりです。
宮入りの時に俄芝居を奉納するので、役者が出てくるための舞台と幕があるのが特徴です。
岸和田や古市のように、 「やりまわし」はしませんが、こんなことができます。
こんなこともできますよ。
こんなこと、できますか?
こんなん、でけへんでしょう!!
たてしゃくり・よこしゃくり・おじぎ・おじぎの反対、できます!
うちのだんじりも頑張るときは頑張ります!
ちょっとやかましいけど、祭りやさかいに...
...元気があって、いいですね❤
さあ、一つ目の鳥居をおじぎして参道を参ります。
緊張と喜びの一瞬!
「寺内町」のこどもだんじりが行く。
獅子噛がにらんでいます。たしか、ケヤキではなく、ヒノキ製であったと思います。
最初の鳥居のところで、「あばれます。」
舞台で奉納する俄芝居の準備をする「役者」たち
十数台もあるので、数珠つなぎになって、大渋滞。
「あばれた」あと、粟ケ池の堤=参道を、またマイペースで宮入りします。
のどかな宮入りの朝
きょうは会社の出勤日なので、ここまで...残念!
2016.10月17日 (HN:アブラコウモリH )
お次の方、どうぞ。
二番手は、KUSUが照会します。
2016.10.15-16 kusu
つぎの方お願いします。
つぎのかた、ありませんか? 2016.10.20.
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