楽の音にあわせて

ブログは折々にアップしていきます。主にはSNS投稿の記事の掲載となります。

霧の向こうにあるものを

2013-01-31 12:03:00 | ホームページ関係


これは富士山の五合目で雲に覆われたときの写真です。上を見ても下を見ても、何も見えません。



すぐ目の前のもの以外は、少しでも遠くのものは、まるでそこに存在していないような… 空間が霧色に切り取られてしまっているように感じられます。

ホームページにも、このテーマではこれまでからいろいろ書いてきた気がします。霧、靄(もや)、霞(かすみ)、雲。わたしたちの視界を覆い、見たいものも見えなくしてしまうカーテンのような、ベールのような。



サンテグジュペリもたしか、本当に見たいものは隠れているという意味のことを書いていました。こころの目でしか見えないものがある、と。真理を「観る」ためには、レースのカーテンを開けるしかないのでしょうか。

このカーテン、目の前にあるはずなのに見えないという風景にかかっているのか、自分の目そのものにかかっているのか…



霧や靄に隠されて、あるいは雲の向こうに、山や自然はいつも姿を変えずに存在し続けているのに、それが見えたり見えなかったり、あるいは一部分だけ見えたりする… いつも変わらない全体像は「観る」しかないのでしょう。

「今日は見えないけれど、そこに必ずあるはずだ」と主に信頼して歩む日々でありたいものです。

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Mount Fuji

「森」って何?

2013-01-28 16:36:00 | ホームページ関係
自然の中を歩くということにあまり関心がない方だったのですが、フランスに滞在しているうちに、自然と触れあうことが自分のちっちゃな人間性を少しでも高めてくれるということに気づきました。こういう気づき、環境をガラリと変えないとできないものでしょうか!?

真冬の低い気温の中を、“森”を散策する… 



ところで「森」と「林」の区別がよくわかっていません。フランス語ではle boisという語で両方カバーしているように思えます。ブーローニュの「森」と訳されますが、日本語の「森」のイメージでは、あれは森であるより公園のように思えてしまいます。



勝手なイメージかも知れませんが、日本語の「森」はもっとこんもり木が生えているという気がするのですが…



森とは違いますが、下の写真はヌヴェールのすぐとなりにあるla Charité(ラ・シャリテ)という小さな町です。廃墟になった古城が残っていたり、ほどよい散策ができます。下に見えるのはロワール河です。

ところで町の名前、訳してしまえば「愛徳」です! 住民は聖人ばかり!?

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Forest of Nièvres, la Charité, (France)

隠された神秘…由布岳

2013-01-26 11:12:00 | ホームページ関係
湯布院に初めて行ったのはある寒い季節のことでした。大分にある修道院に旧知の友を訪ねた後、立ち寄ったのです。



温泉町であり、由布岳でも知られており、観光客は粉雪交じりの雨の中でも少なくありませんでした。駅には足湯が完備されていて、そちらで一時の暖をとる人もありました。



駅の近くで、もう早速由布岳がそびえているのが見えました。着いたときはものすごい吹雪で、九州だから本州よりは暖かいだろうなどという読みは完全に外れ、震え上がってバスを降りたのでした。



雪が止んでも山は半分以上雲の中に隠れていました。



それが次第に雲が晴れていき…



ついには全貌が明かされる…という山の天気の不思議、とても好きです。



山になぞらえて人生の姿を見ているような。あるいは神の神秘を垣間見させていただいているような。スッポリ雲に隠れて、その向こうに何があるのかさっぱり見えないというときにも、そこには必ず山があり、それが動ずることは絶対ないという確信を、あらためて思い起こさせてくれます。

この下の2枚は別の時期に訪れた時に撮影しました。山沿いに雲が音もなく忍び寄り、また立ち消えてゆく、その一部始終を、車で行ったときに小高いところから見ることができました。






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Mount Yufu in winter, Kyushu

一段ずつ高みへPart 2 黒崎教会

2013-01-25 19:55:00 | ホームページ関係
Blogの不具合が収まったようですので、再開します。

2012年11月26日の記事「一段ずつ高みへ」に続いて、長崎市外海の黒崎教会の写真をアップします。



内部は、日本ならではの木造の暖かさと荘厳さとが混じった沈黙が支配していました。

外から見るのとではイメージが違うようで、中はとてもシックでした。



半時間か1時間に一本程度のバスだったような… 初めて訪ねたときはバスを乗り継いでいきました。レンタカーで行くことをお薦めします。



木の温もりが、薄暗い聖堂内で神さまからじっと見守られているという気持ちにさせてくれます。静かに座っているだけで、自分の記憶の中の「木の時代」を懐かしめました。





日本伝統の建築技術で西洋の教会堂を建てる… ヨーロッパの教会堂など見たこともないのに、外国人宣教師たちの絵や説明を聞くだけで、浦上天主堂を建てた当時の日本の匠たちの想像力と技術には、21世紀になった今でも深い感銘を受けます。

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Kurosaki Church, Sotome, Nagasaki

お手本を見ながら生きる

2013-01-21 12:20:00 | Sisterのねごと
毎朝、百歳を超えてなお現役で笑顔を絶やさない聖路加病院名誉理事長・日野原重明先生のメッセージが、Facebookで配信されます。今朝はこんなことばが届いていました。

おはようございます。日野原重明です。
「生き方のモデルを探し、モデルに学びましょう。」

☆20年後の自分をイメージ☆
肝心なのは、20年後の自分をはっきりとイメージすることです。その上で「こうなりたい」と思う人を決めるのです。そうすると、今何をすればいいか、やるべきこと、選ぶべき道は自然と決まってくるはずです。






(写真は京都・鴨川と高瀬川)

それで、こんなことばを添えてFacebook上でシェアしました。

                  ○

学生時代から、誰に倣ったわけでもないのですが、「すごい!」「いいな!」と感じる人の“いい側面”を見倣わせてもらいたいと思ってじっと見つめるクセがありました。あらためて今こうしてことばにされると、人間同士、お互い長所も足りないところも持ち合わせている中で、Facebookではありませんが「いいね!」をクリックしたくなる部分については、謙虚に倣っていきたいなと思います。もちろん一番にはイエス様とか聖人なのでしょうが、もっと身近な人にも、よく見ていると見倣いたいところがたくさんあります。

                  ○

人を見るとき、できることならその人のいいところを見ていたいですよね。もちろん誰だって人間ですから、足りないところはあるのが当たり前。そこばっかり見ているのでは、高みへと向かえる関わりにはなり得ない気がします。

素晴らしい、見倣いたいと感じるところは、しっかり学ばせていただきましょう。ちょっと古い表現ですが、お手本を見せてもらっているというところでしょう。

そして、かつて毛沢東が最初に使ったという「反面教師」ということば、これもまた真です。こんなふうには生きたくないなあと感じたら、その人を毛嫌いしたりというのではなく、例を見ながらとても具体的に教えてもらっていると考えるのが一番です。

しかし、一人の人の存在丸ごとが「こうなりたくない」という例に見えるようなら、自分のものの見方のほうが反面教師になっているかも知れません。