楽の音にあわせて

ブログは折々にアップしていきます。主にはSNS投稿の記事の掲載となります。

くっつくの、大好き

2013-05-28 19:13:00 | Sisterのねごと
動物園などでは、モルモットをたくさん飼育していて、ふれあい広場などと称して希望者に自由に抱かせてくれたりしています。

とても温厚な性格で、サイズも小型。人に危害を加えることはないということで、こうした人気があるのでしょう。



草食で小柄なモルモット、身を守るための知恵なのでしょうか、くっつき合って生活しているように見えます。狭いスペースでも、ケンカもせずに仲良く静かにくっついたままでいます。パイプのような細長い場所に入れると、一列になって、前後はやはりくっついたままなんだそうです。



人間は自立して生きていたいと望むあまり、こうしてくっつき合う生き方に抵抗を感じてしまうのですね。ほんとに体をくっつけ合うかどうかは別として、気持ちを同じくして、家族や無二の友だちとして一緒に生きようとする感覚、時々モルモットのことを考えてみるといいのかも。



かつては動物実験によく使われていたため、今でもたまに、「モルモット」という語は「実験台」と同義語で使われることがあります。

ヨーロッパに紹介されたのは大航海時代のようですが、南米ではすでに古くから食肉として利用されていたそうで、今でも丸焼きなどにして食べられているそうです。



残酷な話ばかり書いてすみません。けれども人間との関係は、歴史の中ではこれが事実です。



すっぽり入れる狭い場所が好きなのは、きっと身を守る習慣が身についているからなのでしょうね。

ちなみに英語ではモルモットとは言わず、ギニーピッグ(ギニアの豚)と呼ぶそうです。



もしどこかでじかに触れ合えるチャンスがあれば、ぜひ膝の上に載せて、その“ピッタリ感”と温もりを味わってみてください。心が優しくなりますよ。

久し振りにHP更新しました

2013-05-27 22:47:00 | ホームページ関係
ホームページの「ベルナデッタに出逢う」にご出現シリーズ最後になる「最後の微笑み」をアップしました。どうぞご覧ください。

今月に入ってしばらく更新の作業から遠のいていましたが、久々にベルナデッタの“その後”を書いてみました。聖女を愛する皆さまのお祈りのサジェスチョンに、少しでもなれば幸いです。

Facebookのほうは、このブログ同様、比較的コンスタントに書いていますので、もし登録しておられましたらコンタクトしてみてください。

クマの気持ち

2013-05-23 08:42:00 | Sisterのねごと


タヌキは「出る」と表現されます。普段そこにはいないはずのものが、どこかからその場に「出てくる」という意味が込められているのでしょう。



クマも「出る」と言います。「クマが出た!」というゲームがあるぐらい、クマが出ると「危ない!」という危険信号が人間の頭の中で点滅します。

昔から、山の中でクマと遭遇したら死んだふりをせよとか、刺激してはいけない、背中を見せてはいけない、逃げ出してはいけないなどなど、いろんな注意があり、どれが本当のところ有効なのかよくわかりません。クマだって生き物ですから、個体によっても人との遭遇の状況によっても反応は異なるだろうし、一概に決めつけられても困る(クマる!?)かもですね。



クマは野生動物です。他の野生動物同様、人間によって家畜化されることなく、自立して生活してきました。これからもそうさせてあげたいものです。この地球をシェアしている仲間です。棲み分けさえきちんとできれば、彼らだって人間を脅かしてわざわざ怖がられたくもないでしょう。というより、向こうだって人間が怖いのです。

共存にはいろいろな可能性があるので、自然破壊を続けて動物たちの生息区域を狭めてしまいさえしなければ、お互いに自立したまま平和に暮らしていけると思うのですが…

典礼暦(教会暦)のこと

2013-05-20 11:44:00 | Sisterのねごと




教会の典礼暦では、昨日が復活祭の最後を締めくくる聖霊降臨(ペンテコステ)、そして今日から“フツーの日”です。

典礼暦あるいは教会暦というのは、一年を通してキリストの生涯や信仰のポイントになることなどを思い出し記念するためにあります。聖人の祝日などもあります。その日には該当する聖人のことを思い出し、少しでもあやかることができますように、とか。

信じる心を持った一人の人間として、青空の下、凛と立って生きることができますように。そんな願いを込めて暦というものをよく見てみると、新たにいろいろな発見ができると思います。

タバコの煙と周囲への配慮と

2013-05-18 13:54:00 | Sisterのねごと


分煙、禁煙が当たり前になってきている今の社会で、それじゃあ喫煙者の権利はどうしてくれるという反論もあるそうな。

禁煙が目的というより、喫煙による副流煙で周囲の人に健康被害が出るということが問題なのですね。喫煙者ご本人の健康は、最終的には自分の判断で守るしかありません。

しばらく前、ある会に参加していた方が、休憩時間に誰かがタバコを吸い始めて流れてきた煙がもとで咳が止まらなくなりました。暗黙の了解で禁煙だと思っていたら、そうは考えていない人がいたということでしょう。

ハンカチを口に押し当て、お水を飲んだりして頑張りましたが、ついに咳が止まらなくなり、中途退席することになりました。

後で電話をいただき、咳き込みながら話すに、当分はその会には出られそうにないと。せっかく治まっていたぜんそくの発作が再発したのだそうです。和やかな集まりに水を差すよすなことになって申し訳ないと、なぜか謝っていました。咳き込んで耐えられなくなったほうが悪い?

ぜんそくの体験がないと、「大袈裟な」という反応をしてしまいがちで、その時も誰かがそんなことばを口にしていました。当の本人にとっては、呼吸もままならない大変な事態なのです。

禁煙を連呼されると耐えられないという人もあります。何が何でも禁煙を徹底させるべしという発想ではなく、煙に弱い人もいるかも知れないところでは、配慮が大切だということでしょうか。だから分煙なんでしょうけれど。