楽の音にあわせて

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ありがとう、ごめんなさい…

2014-08-30 09:00:00 | Sisterのねごと


「ありがとう」
「ごめんなさい」
「よろしくお願いします」

小学生でも知ってるような、基本中の基本のことばです。

「こんにちは」などの日常の挨拶と同じく、この三つのことばを自然に使いこなせるようになったら、他者との関係はもちろんのこと、自分との関係、そして神さまとの関係も、とてもスムースになると思います。

本気で謙虚になれますようにと願いながら、まずはこんな日常のマナーから意識していきたいものです。



* 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」と呼びかける今日の朗読箇所での聖パウロです。「能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません… 世の無学な者、世の無力な者、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」(コリント人への第一の手紙1章26-31節より抜粋)

洗礼者聖ヨハネの殉教から思ったこと

2014-08-29 09:59:00 | Sisterのねごと


今日は洗礼者聖ヨハネの殉教を記念する日で、マルコ福音書6章17節からの当該箇所が今日の福音になっています。5世紀から記念されるようになり、6世紀頃にはすでに、「洗礼者聖ヨハネの受難(斬首)」として教会で広く祝われていたそうです(『毎日の読書』より)。

斬首といえば先般アメリカ人ジャーナリストが残酷な最期を遂げましたが、人の尊厳と存在そのものを決定的に否定するしるしですね。日本でも、戦国時代どころか太平洋戦争の間も、兵士の首をはねるという処刑が行われていたらしいですから、人類共通の発想として、決定的に息の根を止めるには最も確実だと考えられていたのでしょう。



しかし、紛争地域での地雷敷設や平和なはずの国でのさまざまな虐待などで、苦しめながらジワジワいのちを奪っていくのも、斬首と変わらない他者の命の拒否ですね。
で、わたしたちの日常でも、こころの中で、あるいは巧みなことばで、同様に他者を“処刑”しないように、見張っていたいものです。



風を見る

2014-08-27 11:26:00 | Sisterのねごと


風見鶏というと、人の顔色を見たり
周囲の風向きを計算して態度を決めることの
代名詞のように使われることがあります。

しかし、正しきこと、歩むべき方向を指し示す、
聖霊の風をとらえるという意味での風見なら、
屋根の上の風見鶏さんに倣いたいものです。

…って、よく見たら、この写真、
「鶏」ではなく風向計ですね!

旧京都教区カテドラル

2014-08-26 12:25:00 | Sisterのねごと




カトリック京都教区は京都府、滋賀県、奈良県、三重県を管轄する教区です。

現在のカテドラル(司教座聖堂)は河原町三条にありますが、
今の教会堂が建てられる前には、
このような大きな「天主堂」が建っていました。

今でも明治村に行くと観られます。
新しいカテドラルを建築する前に移築されたようです。





幸いよ、来たれ

2014-08-25 20:45:00 | Sisterのねごと



災害、事故、事件… そして海外では終わることのない紛争、伝染性の疾患…

祈りたくなることばかりが目につきますが、
一番祈らないと行けないのは、
まずは自らの足りなさ・生ぬるさをお詫びすることですね。 

それから忘れてはいけないのが、
こうした現実の中にありながらも、
落ち込まないで救いを希望し続けることでしょう。