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ユダヤ人の議員であるファリサイ派のニコデモという人が、ある夜、イエスのもとを訪れました。「夜に来る」というのは、きっと「人目につかないように」やって来たということなのでしょう。(ヨハネ福音書3章1-2節)
自分の立場とイエスへの関心の狭間で「こそこそ」と動いていたそのニコデモが、イエスが十字架上で息を引き取ったその時に、大っぴらに名乗りを上げたようなかたちで、同じく「こそこそ」派のアリマタヤのヨゼフと同じく、亡骸を手厚く埋葬しました。(同19章38-40節)
ニコデモは、もし3章のあたりで大っぴらにイエスのことばに耳を傾けていたら、ユダヤ人の社会で地位も信用もなくしてしまう恐れがあったのでしょう。役職から追放され、下手をすると路頭に迷うような事態にもなっていたかも知れません。
イエスの宣教生活の中でもっとも失敗したかと思われた十字架の出来事が、ニコデモには決定的な瞬間となったということですね。復活を先取りしたようなかたちで、自分の中にイエスを受け入れることになりました。結果、こころは満たされたでしょうが、社会的な地位や名誉はすべて失われたことでしょう。
イエスを本当に受け入れるということは、時として、世の中の階段を下へと向かって降りてゆく主の謙遜さを生きることでもあるようです。
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