楽の音にあわせて

ブログは折々にアップしていきます。主にはSNS投稿の記事の掲載となります。

自分のことはわからない

2013-04-24 11:09:00 | Sisterのねごと


これはモルモットを正面から撮った写真です。モルモットというのはいろんな色の子がいますが、だいたいは野生動物の色合いですから、黒、白、茶、チャコールグレーなどの斑になっています。単色の子もいます。

最近動物園や類似施設に行くと、人に危害を加えない優しい動物たちに直接触れるコーナーがあったりして、親子連れや高齢の方などを中心に、それぞれ楽しんで触れ合いが体験できます。

ある日、そんな施設で通りがかりに眺めていると、ヒョイと手渡されたのがこの子でした。「ちょっと珍しい模様ですね」などと言いながら思ったのですが、モルモットが鏡で自分の顔立ちを見ているなんてあり得ないですよね。

だいたい、人間以外で鏡を意識して、つまり他者の目に自分がどのように映るかを意識している生物は、いないのではないかと。このモルちゃんも、まさか顔の中心部分が別の色になっているなど、考えたこともないでしょう。

人間は幸か不幸か鏡に映すことを知っています。しかし鏡はあくまで二次元の世界。三次元に生きている実際のわたしたちの真の姿は、二次元に縮小しては見られないのでは。

近い将来、サイバー空間で三次元の鏡が可能になっても、体温もかもし出す雰囲気も肌の詳細もすべてが再現されるということはあり得ないのでは。そういう意味では、人間も、自分の本当の顔や容姿は百パーセント把握できないということなのでしょうね。

けなげに咲くこと

2013-04-22 10:56:00 | Sisterのねごと






昨年、渡辺和子シスターの『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)という本がとてもヒットしました。書かれているのは題名のことば通りのメッセージなのですが、「咲く」というのは花が咲くこと、開花すること、自分のいのち、可能性を目いっぱい開花させなさいという意味です。

Facebookの投稿で気づくのは、おびただしい数の自然の写真があることです。パッと目を通していくだけでも時間がかかるぐらいたくさんあります。それらを見て、うんざりすることはなく、どれも全部きれいだし、気持ちがホッとします。いわゆる「癒やされる」わけです。特に花や若芽、若葉、そして小枝に止まる小鳥は、癒やし効果抜群です。

花がこれだけ人気が高いのは、自慢したり文句を言ったり、あるいは咲く場所をを選んだりしないからではないでしょうか。まさに「置かれた場所で」咲いています。もちろん咲けないまま枯れてしまうのもあります。でも、命の限り一生懸命咲きたいという「懸命さ」「けなげさ」が、見る人の心を打つのです。

今日はふとそんなことを思いながら。

貫く思い---スーチーさん

2013-04-18 21:58:00 | Sisterのねごと




春色のミャンマーの衣装に身を包んで、アウンサンスーチー女史が来日中です。祖国への熱い思いを語りかける大きな瞳、長年の戦いの傷跡を深く彫り込んだ表情、力強く一言ずつ嚙み締めるように話す唇。

疲れを知らない女性の生き様を、今の時代を生きるわたしたちはリアルタイムで見せていただけるわけです。スーチー女史が置かれている立場に比べると、確かにわたしたちは平和な世界に生きています。けれどもその分「一生懸命」に賭けるものが見つからない世界とも言えますね。

かつてマザー・テレサの存命中は、その生き様やことばの一つひとつに、直接強く揺さぶられるチャンスがありました。スーチーさんも、同じ時代を生き時間を共有できる偉大な人物として、そのパワー、信念を、じかに見せていただき、学ばせていただきたいと願っています。

何でも知りたいけど見えない現実

2013-04-16 22:21:00 | Sisterのねごと
この写真は何かと…いうとハリネズミ君の体の拡大です。





日常の中で、よく知っているし、注意して見ているつもりのものごとが、実はわかっていなかったり、曖昧な理解しかしていなかったりということがよくあります。

人づてに耳に入ってきたような生半可な知識だけで、一方的に誰かや何かを裁いたり、陰で中傷したりするのは、実に迷惑なだけでなく、社会的には自分の評価を貶めていくことにもなります。

そこまで行かなくても、一部分だけを見て隠れている全体像を想像するというのは危険なことです。見えない部分は「見えません」と認めることが大切です。認めれば、それ以上頑張る必要もなく、見えない、知らないという状態のままで神の手に委ねてしまえます。

それが怖いと感じると、どんな手を使っても知ろうとしたり、それができなければ、勝手な想像や虚偽で置き換えるのでしょう。

人間の「何でも知りたい」病は時にほんとに危険です。知らないし知ることができないという自分の限界に目隠しをしてしまいます。

クルリと久留里

2013-04-12 12:16:00 | ホームページ関係
先日、安房君津市の久留里という町まで出かけることがありました。



かわいい小さな駅が旅気分を味わわせてくれます。

駅の向こうには田園風景が広がり、のどかな春のひととき、時間を忘れさせてくれます。忙しい毎日に追われて胸に詰まったままになっているさまざまなことが、スッと消えた気がする自然の眺め… 「癒やしの空間」と呼べますね。







久留里は水で有名な土地でもあるとのことで、地酒造りも盛んな様子でした。おいしい水と米が揃っているということなのでしょう。



町の随所にはこうした水汲み場が設けられています。わき水ファンは遠くからでも汲みにやって来るのだとか。伏見(京都)のわき水スポットのことを思い出しました。





静かなひとときをわき水の音ともに楽しみました。

それにしても初めて「くるり」と耳にした時は、どんな字を書くのだろうと思いました。その名の通り、長く留まりたくなるような里山が何とも魅力的でした。

自分のこころの中に、ずっとそこで過ごしたいと感じられる里山、残っているでしょうかね。