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先週のカトリック新聞でしたかに、人には赦しを願う務めというのは生涯あるのだという、ローマ教皇のメッセージが載っていました。
クリスチャンになったからといって人間の本性、弱さが、消えてしまうというわけではないので、過ちを犯したと自覚したら赦しを願う必要があり、そのためには一生懸命に祈る必要があるというのです。
このような祈りは、自分の弱さや罪への傾きを認め、赦しを願うことに向かうだけの勇気を得るための、自分自身との戦いです。一言言えば新しい関わりが開けるのに、それがなかなか口に出てこないのは、いろいろな言い訳や口実で自分の目をくらませているからかも知れません。
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待降節は悔い改めて主を待ち望むための時間ですが、回心するとはとりもなおさず赦しを請うことなのでしょうね。神さまと、そして具体的に心覚えのある一人ひとりに… そんなことを思う待降節直前のひとときです。
そして明日から12月24日のイヴの夜まで、カトリック教会では待降節という、心をあらためて救い主を待つ季節が始まります。
わたしたち思い悩む弱き人間を、愛の火にて照らし給えと祈りつつ…
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