神仏にも見放されたと感じるときも、
長い人生の間にはあるかも知れません。
そのときには、実際には神さまのほうがわたしたちに
見捨てられているのではないかと思います。
もはや探し求め、信頼し、すがる価値などないと。
傍らで、黙して重荷を共に背負ってくださっている方の姿は、
苦しいときには見えなくなることがあります。
砂の上の足跡という詩を思い出します…
“わたし”が一番辛くて孤独であったとき、
“わたし”を担って砂の上を歩いてくださっていた方のことを。
神仏にも見放されたと感じるときも、
長い人生の間にはあるかも知れません。
そのときには、実際には神さまのほうがわたしたちに
見捨てられているのではないかと思います。
もはや探し求め、信頼し、すがる価値などないと。
傍らで、黙して重荷を共に背負ってくださっている方の姿は、
苦しいときには見えなくなることがあります。
砂の上の足跡という詩を思い出します…
“わたし”が一番辛くて孤独であったとき、
“わたし”を担って砂の上を歩いてくださっていた方のことを。
わたしたちは皆、今日、明日、明後日などは大体
すでに何らかの予定が入っていて、
1年後、2年後までということも少なくありません。
とりあえずそれまでは元気に生きていると、
本人は信じているということでしょうか…
身近な誰かが亡くなると、そんないい加減な感覚が虚しく感じられます。
誰も確約などしてくれない数年後の自分の存在について、
とにかく生きているという前提で予定を入れていく…
そうしないと日々の生活は進まないので。
昨日旅立ったシスターのように天寿を全うする人もあれば、
志半ばで倒れる人もある、そういうこの世での存在の不確かさを、
祈りのうちによく観たいですね。
メメント・モリ。いつか必ず自分にも死が
訪れることを忘れないように。
そして誰にでも…
今日一日をどんな気持ちで過ごすのか、
毎朝確認するのはいいことですね。
もし朝にその日の聖書朗読箇所などを読む方は、
そこからなにかの示唆を得られるでしょうし、
そうでなくても、今日一日人に親切にしようとか、
感謝の気持を意識しようとか、
マズイことになったらすぐにごめんなさいと言おうとか、
何が起きても気にしないで過ごしたいとか…
そんなことを意識するだけで、1日の雰囲気が違ってきます。
一言かけたことばが相手の心を開いたり、逆に閉ざしてしまったり。
言わなければいいのかといえはそうでもありません。
しかし、言葉数が増えると、
その分相手の受け取り方の違いで誤解が生じたり、押しつけがましいと思われたり。
少なすぎると説明不足になってしまうかも…
聞く側の気持ちにとってちょうどよい量のことばというのはどれぐらいなのか、
ことば数が多い傾向であるとすれば、時々黙って考えることも大事でしょうね。