楽の音にあわせて

ブログは折々にアップしていきます。主にはSNS投稿の記事の掲載となります。

聞き書きのこと

2012-09-28 19:42:00 | Sisterのねごと


植物音痴なので、岩手県で見かけたこの巨大松ぼっくり、正確な名前を知りません。ご存じの方、教えてください。

今日は下北沢へ行ってきました。

聞き書きというボランティア活動がありますが、ご存じでしょうか。自分の半生を振り返って、それを世界にたった一冊の本というかたちに残したいと希望する人のところに行き、ゆっくり時間をかけてお話しを伺います。話してくださるほうを語り手、録音したりメモをとったりしながら集中して聴くほうを聞き手といいます。

聞き手はそれを編集して、語り手と相談しながらパソコンで一冊の本にまとめていきます。このプロセスの中で、語り手は自分と再び出会い、聞き手は一人のかけがえのない人の人生と出会います。

この活動に関心を寄せて、聞き書きのボランティアをしながら、あるいはこれからしてみたいと思いながら、広く傾聴の活動と関わり、聴くことについて自由に語り合う小さな集まりのためです。

孤立して生きている人が多い今の社会、聴いてもらうことに人は飢えていると思います。人は誰でも必ず、誰かに聴いてほしいとこころのどこかで感じているのだと思います。

根ざすところ スカイツリー3

2012-09-27 10:55:00 | ホームページ関係


真下から見上げるとこういう感じです。てっぺんの細くなっている部分は見えません。展望台の下側が見えるだけ。



いつも変な好奇心があって、高いものはその足もとはどうなっているか、確認してみたくなります。エッフェル塔の足もとも近くから写真を撮ったぐらいです。

スカイツリーの場合は、上は円形ですが下の部分は三角形。1本の脚を確認できれば残りの2本も基本的に同じであろうと思い、よく見ました。建築の専門家ではないので、見てもさっぱりわからないのですが。それでも見て安心できました。地震国の智恵が随所に生かされているタワーです。

土台というものは、一般的に目立ったり輝いていたりということはなく、縁の下の力持ちと評されるように、見えないところでしっかりと全体を支える真(まこと)の力持ち、それでいて存在を感じさせる部分です。

人の土台も同じだと思います。信念があり、その上に根ざして立っています。土台がいい加減だと、砂の上に家を建てるようなものです(マタイ7章26節参照)。家はすでに建っていますが、築年数とともに土台も含めてあちこち傷んできます。こまめな修復や補強も忘れないようにしたいものです。

先週の葬儀の話題で、大勢の人に見送られてという文章を書きながら、無縁社会のことを考えずにはいられませんでした。

その翌日でしたか、ある方から、最近読んだ本からということで、「私の人生のエンディングがどんなものであれ、エンドロールには多くのキャストの名前が連なることでしょう」という引用のことばをいただきました。孤独死ということばは、死の瞬間の部分しか見ていないのですね。一人の人が人生を終えるということは、全生涯の重みが集約された時刻(とき)を過ぎ越していくことであって、死後に駆けつけた者が簡単にどうこう言える種類のことではないのでしょう。

10月1日はタワーの日だそうです。高いものと速いもの(新幹線)が好きなお国柄のようです。

足下への信頼 スカイツリー2

2012-09-26 09:57:00 | ホームページ関係




昨日のスカイツリーの続きです。上の写真、右手前には東京ドームの屋根が見えます。左寄り奥に見えるのは都庁でしょうか。

面白かったのは下の写真です。低い方(340メートルぐらい)の展望台に設けられた、下を見るための床の窓。この高さで床に窓があるというのは、なかなか肝(きも)試しになります。



十分安全性を確認して設計されているのですから、上に乗ったからといって、いきなりガラスが割れて落下するということはあり得ないのですが。それでも皆さん、わたしを含めて、足を乗せるときは「そっと、そっと」の感覚で。つま先立って通り抜ける人もありました。

学生らしいカップル、女の子のほうは上に乗って楽しげに下を眺めています。「ねえ、来ないの。よく見えるよ」と声をかけられて、友だちはガラスには足をかけないまま、横から返事していました。「よくそんなところに乗ってられるなあ。落ちたらどうするんだよぉ~」

たいていの人にとって、足下に何もない感覚は、時に耐えられないぐらい恐ろしいものです。重力がいつも下に向かって働いているのに生まれて以来ずっと慣れていると、視覚的に足下に何もない、足の裏が宙に浮いているというのはあり得ないと、脳が考えるのでしょう。

足下(あしもと)をよく見て、とよく言われます。脚下照顧(きゃっかしょうこ)という禅のことばもあります。下ばかり向いていてはいけません、とも言われます。確かな自分の存在の上にしっかり両足で立って、天を仰ぐ、そういう姿勢が問われているのでしょうか。己(おのれ)を観る、神仏を観る、その視界の中に周りの人々との絆を入れるということでしょう。

自分探し、自我の確立などなど、いろいろなことばがありますが、自分の足下に信頼を置くということが、そもそものスタートラインだとおもいます。



高みへの憧れ スカイツリー1

2012-09-25 07:46:00 | ホームページ関係


東京スカイツリーから見た東京湾に今年完成したゲートブリッジです。望遠で撮っています。肉眼ではこんなに大きく見えません。7月半ばに撮影しましたが、霞んでいます。



ソラマチにあるすみだ水族館で巨大水槽に見入る…ではなくて、これもスカイツリーです。展望台から望む風景は、まぶしいほどの空の青さが印象的でした。高い方の展望台は地上450メートルほど。肉眼では地上のものはほとんど何も見えません。



やがて天からスルスルと梯(はしご)が降りてきてという感じで、窓拭きの作業の人がいつの間にか音もなく。確かに窓が汚れているのでは、展望台も意味がありません。しかし外からの掃除のことは考えたこともありませんでした。高所恐怖症の人には絶対に不向きなお仕事です。

○○とナントカは高いところが好きとか言いますが、人は皆、高みへの希求を持っているようです。神はいつも「天」と呼ばれる空にいると昔から考えられてきました。今の時代、空は宇宙へと続いていて「宇宙のなぎさ」と呼ばれたりしますが、そういう科学的イメージとは別の「天」の概念が、今も人の心に深く根付いています。大切な人が亡くなると空の星になって見守ってくれるとか、お願い事をするときに手を合わせて天を仰ぐとか。

高みを目指して生きる日々でありますように。成功を収めるという意味ではなく、威張りたいから、目立ちたいからという意味ではなく、人として悔いない一生を終えるために、こころの高みは大切なのだと思います。

生きていくことと老いることと…

2012-09-24 19:19:00 | Sisterのねごと


先週は葬儀に参列したこともあり、多くの方と再会し、お話しする機会がありました。

高齢化社会が深刻化しているというニュースに耳が慣れてしまっているところがありましたが、同年代の人々が口々に親、きょうだい、親戚の老いに直面している体験談を聞き、改めていろいろと考えさせられました。

認知の症状が出てきた親や配偶者、きょうだいをどのように支えていけるのか… 

久しぶりに出会い、自分は元気でしっかりしていると言うのですが、2分も経たないうちに同じ話を何度も繰り返すようになっている一人の身内と話しながら、計り知れないその人の胸の内にゆっくりと流れる時の河を、手をつないで一緒に渡らせてもらった気がします。

時間や情報、習慣やしきたりに振り回されて、それが生きるということだと考えていると、もしかするとちょっと違うのかもですねぇ…