楽の音にあわせて

ブログは折々にアップしていきます。主にはSNS投稿の記事の掲載となります。

闇の中にこそ輝く光

2012-11-30 21:50:00 | ホームページ関係


毎年暮れになると行っているのが東京ミッドタウンのイルミネーションです。今年は六本木に行くついでがあったので、12月にならないうちに行ってきました。

スペースが限られているので、毎年同じパターンと言えばそれまでですが、それでも寒い中に青く光るイルミネーションには、つい足を止めてしまいます。

静止画像ではあまり面白くありませんね。動画も短いですがその内にアップします。



会場は、昼間訪れると何の変哲もない大きなビルとその裏というか横にある広場なのですが、陽が落ちて、LEDのランプが無数に光り始めると、あたりの様子が豹変します。

暗闇の中に光るから美しい… かつてホームページの中にもどこかでこのことを書いていますが、マイナス・イメージの大きい「闇」が、ほんの少しでも輝く光を美しく引き立てているというのが、こうした夜景やイルミを見る度に、とても新鮮に感じられて仕方ありません。

ヒトもウサギも黄色の世界で

2012-11-27 16:43:00 | ホームページ関係




まだ青い色も残っていましたが、秋晴れに恵まれた一日は、銀杏の葉が風に舞い落ちるのを楽しめるものでした。神宮外苑の銀杏並木はこの時期になるとお祭りとなって、屋台なども出ます。





ヒトもウサギも、イヌもネコも、黄色い世界に安心して身を預けていました。銀杏の黄色というのは、見ていて安心できる色ですね。
けれども、銀杏の枯れ葉の上をサクサクと歩くというのは、熟したギンナンを踏みつぶしながら歩くということでもあり… 幸い臭いほうは写りません。







まだまだ除染できていなくて、土や葉っぱと触れ合えない地域の子どもたちのことを考えずにはいられません。

一段ずつ高みへ

2012-11-26 12:12:00 | ホームページ関係


何年か前に撮ったこの写真は単なる石段ですが、とても好きな写真です。どこに続いているかというと、登り切ったところにあるレンガ造りの教会です。



カトリック黒崎教会。寒い季節に行くと、石段を登り詰める前から、ぼうぼうという風の音が海から駆け昇ってくるのが、肌からも聞こえます。



黒崎教会というのは、九州北部だけでも二つあると思います。こちらは外海(そとめ)に面するほうです。



中に入って祈っていると、どこからか潜伏していたキリシタンが足音を忍ばせて出てきて、「サンタ・マリア様のご像はどこに?」と耳元に尋ねてきそうでした。

再び外に出ると、風はますます強くなっていて、荒れ狂う海に次々と突き落とされていった殉教者たちの最後の叫びを、かき消しているようにも感じられました。

今思い返してみると、彼らの叫びを増幅していたのかも知れません。どんな叫びだったのか… 最後まで信ずるものに忠実に生き、忠実に死にたいという、祈りの叫びだったのでしょう。

石段の写真を見ると、地上に生きている間一歩ずつ高みへと上りたいという願いと、すべてを委ねて生き、死ぬことの重さとを、あらためて思い出します。

王であるキリスト

2012-11-25 21:30:00 | Sisterのねごと
このブログはクリスチャンではない方もご覧いただいていることはよく知っていますが、今日はそれでも敢えて、最初からキリスト教のお話をさせていただきます。

今夕facebookに配信された片柳神父のメッセージにこんなことばがありました。
「イエスは王としてこの世界にやって来られましたが、その支配は地上の王の支配とはまったく異なったものでした。イエスの支配は、力による支配ではなく、真理による支配だったのです。」
バイブル・エッセーより)

教会では、イエスが誕生したことを祝うクリスマスを待つ季節「待降節」をこれから始めますが、その前に「王であるキリスト」という祝日があり、それが今日なのです。世界の王としてキリストを迎え入れるというのは、独裁者や権力あるいは武力をもって人間を支配するのではない、まったく異なった“王”のイメージを知ることでもあります。

やたら偉そうにする人を好きな人はあまりないと思いますが、それでもある程度力を持って秩序を守ってくれるイメージを、為政者に求めてしまいがちなのは、安心して頼っていたいという心理も働くのでしょうか。

「ただひたすら慈しみ深く、正しく、謙遜であることによって人々を惹きつける王でした。従わせる王ではなく、従わずにはいられなくする王だったのです。」



謙遜であることによって人々を招いているキリスト。それは強い・弱いがはっきりしている世界の価値観とはまったく別の、観たいと願う人にしか見えない姿なのでしょうか… 

神の子でありながら自らを空しいものとし… その謙遜をほんの少しでも学ばせていただきたいと願いつつ。

写真の十字架は、とあるカルメル会修道院の壁にかかっていました。農作業をしている山で見つけた木なのでしょう。

過去に忘れ物があるように感じる時代

2012-11-24 19:38:00 | ホームページ関係




上野の下町風俗資料館には、「カフェ下町」があります。もちろん営業しているわけではなく、ご覧の通り2階の展示の一部なのですが、かなり忠実に復元しているところは撮影のセットのような感じがします。

当時はカフェでゲームができたらしく、各テーブルの中央に木製のシンプルなゲームが置いてありました。ゲームというよりは玩具と呼ぶべきか。

日本の高度成長時代であった昭和30年代から50年代あたりまで、いわゆる懐かしい昭和の時代が、東京の下町を中心に再現されています。プロ野球の長嶋・王選手、初期の家電製品、東京タワー建設や東京オリンピック、新幹線などについても展示されていました。『ALWAYS三丁目の夕日』の映画を彷彿とさせられます。

昭和の東京は同じ時代の日本全国の様子でもあったと思います。こんな駄菓子屋さん、こんな路地裏など、見覚えがあるという世代の方も多いかと思います。





平成生まれの学生が昭和の街並みなどを見て「懐かしい」と表現したのを聞いたことがありますが、ここまで必死に走ってきた日本人が何か忘れてしまった、置き去りにしてしまったと感じる、歳を越えて共通する原点のようなものがあるのかも知れません。