アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

鶴ヶ城 難攻不落の謎

2008年10月16日 | Weblog
  鶴ヶ城 難攻不落の謎

 鶴ヶ城といえば白虎隊。白虎隊は戸の口原で奮戦した。奮戦…は、美化した言い方、火力、つまり鉄砲を持たない14歳~17歳の子どもたちですよ、奮戦できるはずがない。「刀VS鉄砲」、死にに行くようなものです。それでも行った…子どもたちが。隊員のうち、20名が隊長とはぐれてしまい…はぐれる?迷子になるってこと。20人は戦場をさまよい、ようやく飯盛山に辿り着いた。飯盛山から鶴ヶ城が肉眼でもよく見えます。逆に、鶴ヶ城から飯盛山がよく見えます。その名の通り山の形状が、てんこ盛りの御飯状態ですね。白虎隊は、武家屋敷が燃えるのを、鶴ヶ城落城と誤認し、「敗戦なら生きて還るわけにはいかない」…その場で、20名全員が集団自決(一人蘇生)。

 会津若松を訪れて、鶴ヶ城をスキップ出来ない…しかし、お城なんてどこも同じ、外見は往時の面影を残していても、中は博物館。展示品は、似たり寄ったり。大きな期待は持っていなかった。
 ただ…どうして、難攻不落だったのであろうか?戊辰戦争でも燃やされていないどころか、一人の敵兵の進入も許していないのですから。不勉強なのかもしれないが、このことについて書いてあるものにはまだお目にかかっていない。もっとも視点が違うというか、そんなことを気にする人がいないってことでしょうか。
 
 鶴ヶ城は、若松城が正式の名前(国の史跡としての指定名称)なのですが、鶴ヶ城の方が通りが良い。そのほかに、会津若松城とか黒川城の呼び名がある。1593年に、城主の蒲生氏郷(がもううじさと)が、鶴ヶ城と名づけた。なぜ、「鶴」なのかの理由については不明となっている。所在地は、福島県会津若松市追手町。
 築城当時は、黒塗り。その後、白塗りに変えた。そのあたりで、「鶴」がイメージされたのであろうか?
 また、誰も唱えていない説でしょうが、還暦パパの調査によると、「亀ヶ城」があるんですよ。猪苗代城(いなわしろじょう:福島県耶麻郡猪苗代町)の別名が、なんと、「亀ヶ城」。湖を挟んで、「鶴と亀」。時間的にもほぼ符合。なぜ、鶴ヶ城としたかの答えとして、「亀ときたら、鶴だべ」…いい線いってると思いますがね。

 これまで、26ほどの日本の城を見てきました。印象深かったのは、世界遺産「姫路城」…外観がすこぶる美しい。内部が、往時そのままで保存されてあり、侍や忍者が出てきても不思議がない雰囲気。実に興味深かったです(昭和の大修理直後。高校3年生の時に行きました。古ッ!)。大阪城は、石垣がアンビリーバブルでした。「巨大な石、どうやって運んだのだろうか?ピラミッドの石より大きい」クレーンも大型ダンプもない時代に、大阪城をつくったのです…。

 期待していなかった鶴ケ城。外観と城域に、「凄い城だなー」と、感じました。日本有数の城郭といえますよ。
 外観は、「中国の元(げん)時代のデザインの流れだ」と、見抜きました。紫禁城太和殿と似ているのです。「また、奇想天外な!それは、考えられない」と、思われるかもしれませんが、自信があります。1384年に築城ですが、1592年、蒲生氏郷(がもう うじさと)が近世城郭に大改造した、というか建て直したのです。蒲生氏郷はキリシタン大名で、クリスチャンネームは、レオンまたはレオだった!ハイカラなものです。会津若松市内の循環バスが、「ハイカラ号」というのですが…無関係ですね。レオンの目は、世界へ向いていた。レオンは、当然、紫禁城太和殿など、当時の中国の城のデザインは知っていたでしょうから、取り入れたとして何の不思議もないです。

 中はお決まりの博物館で、「ああそうですか」っ感じ。大したことないだろうという予測を裏切ってくれたのが、城域。石垣や土塁がよく残されておりました。水堀も現存。さらに、内郭と外郭の間に16の門を構え、延々10kmにもおよぶ水堀・土塁で囲んだ惣構えの広大な縄張りからなっていました。もちろん縄張り内は、戊辰戦争当時からあったと思われる樹木がうっそうと立ち並んでおります。その広いこと。今は、城域のあまりの広さに管理できなくなったためか、テニスコートにしたり、公園にしたり、県立博物館にしたり贅沢に使っています。

 さて、「鳥羽伏見の戦い」でその火蓋が切られた「戊辰戦争」。「奥羽越列藩同盟」もむなしく、新政府軍の標的とされ、城下へ突入された鶴ケ城。昼夜を問わず砲撃にさらされる熾烈な戦い。一ヶ月に及ぶ篭城戦に耐えた孤塁の堅城。
 なぜ、難攻不落だったか?私の結論は二点です。
1 盤石かつ大規模(10km)な、石垣、土塁。干上がることがない水堀。内郭と外郭の間の堅牢な門(16門)。敵の動きがよく見える広大な縄張り。
2 士気。白虎隊の陰に隠れてはいるが、50歳以上で構成された、玄武隊もあった。ほかに、朱雀隊、青龍隊、幼少隊…。とにかく、使命を全うするためなら自分の命は惜しまない。この強固な意志で戦われては、板垣退助が攻めきれなかったのも当然。

 会津武士道のほまれ、会津藩士たちの魂を支えた堅牢優美な鶴ケ城。往時の面影を今にとどめています。