「ビルマ」と呼ぼうミヤンマー
小学生の頃読んだ、「ビルマの竪琴」 あらすじは次の通りです
1945年7月。日本軍は、ビルマで連合軍の攻撃に遭い、戦局は非常に悪くなっていました。
日本軍の、ある小隊長は自分の小隊に合唱を教えていました。明日死ぬかもしれない状況下で、隊員達は合唱の力で、団結し、規律を守り、癒されていたのでした。
とりわけ水島上等兵は音楽に熱中し、竪琴の演奏を得意としていました。水島は、ビルマ人の格好で斥候に出て、状況を竪琴で小隊に知らせるなどの活躍をしていました。
終戦となり小隊は捕虜となり、捕虜収容所に送られました。しかし、終戦を知らない三角山の部隊が戦闘を続けており、放置すれば全滅する状況でした。「終戦を知らせなければ!」イギリス軍と交渉して、水島が、三角山へ行ったのですが、帰ってきませんでした。その後、青いオウムを肩に乗せた、水島によく似た青年僧が捕虜収容所へ現れ、逃げるように立ち去りました。
小隊長は、青年僧は水島であり、三角山部隊を説得できなかったので戻れないと見抜きました。そこで、親しくなった物売りの老婆からオウムを譲り受け、「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と日本語を覚えこませました。
数日後、小隊が森の中で合唱していると、どこからともなく水島の竪琴の音が聞こえてきました。
小隊は、日本へ帰国することが決まりました。隊員達は、水島を連れて帰ろうと毎日合唱しました。隊長は、物売りの老婆に、日本語を覚えこませたオウムを青年僧に渡してくれるよう頼みました。帰国前日、青年僧が姿を現しました。収容所の柵ごしに隊員達は『埴生の宿』を合唱…青年僧は、竪琴を合唱に合わせて弾いた…。隊員達は一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけた。しかし、彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を弾く。祖国のメロディーに心打たれる隊員達を後に、水島は森の中へ去って行った。
翌日、出発前の小隊のもとに、オウムと封書が届けられた。水島は、三角山に立てこもっていた部隊を必死で説得したが、部隊は自爆の道を選んだ…。
水島は、自分だけ帰国することはできない、英霊を弔うためこの地に留まろうと決心する。手紙には、日本や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意が綴られていた。 オウムは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と叫びつづけていた。
これを読んだ少年がどれほどの衝撃と感動を覚えたか。自分が水島一等兵だったらどうしただろうか?隊員と一緒に帰国したら、卑怯者になるのだろうか?現地に残って僧になって、家族は喜んでくれるだろうか…考えました…。
ビルマのその後は…
1962年 軍事クーデター 軍事独裁体制
1989年 民主化指導者アウン・サン・スー・チーさん軟禁
1991年 軍事政権が、国名をビルマからミャンマーに変更
1998年 民主化運動の1,000人以上の国民が虐殺される
2006年 ヤンゴンからネピドーへ遷都
2007年 反政府デモ ジャーナリスト長井健司さん射殺される
タイを旅行して、最も親しい隣国を、「ミヤンマー」と、呼ぶタイ人とは出会わなかった。出会った人々は、皆、「ビルマ」と言っていた。
ビルマもミャンマーも古くから用いられてきた呼称。ビルマは口語で、ミヤンマーは文語。国名変更は、軍事政権が決めたこと。
「現地音を尊重するという意味では、ビルマよりミャンマーを用いたほうが良い」という説もある。もっともらしいが、「それは違う」と、司馬遼太郎の母校のビルマ語専攻が主張している。
では、どうして日本では、ミヤンマー?
軍事政権が、対外呼称をMyanmarに変更したら、日本政府がいつにない俊敏さで、「ミャンマー」の呼称を受け入れたのです。メディアも、「それでいいんだ?」と半信半疑ながら追随した。つまり、軍事政権を受け入れない多くのビルマ国民の声を排除したということです。それでいて、アウン・サン・スー・チーさんに同情的な報道…一体どっちの味方なんだ。ミヤンマーと呼ぶのは、スー・チーさんの敵ということですから。軽率すぎましたね、日本政府。
軍事政権を認めない日本国民の皆さん!胸を張って、「ビルマ」と、呼びましょう。いるんですよ!ビルマと言えば、「今は、ミヤンマーです」と、訂正する人が。でも、そういう迫害に負けないでください。
ビルマの英霊と、長井健二さんの御冥福をお祈りいたします。
小学生の頃読んだ、「ビルマの竪琴」 あらすじは次の通りです
1945年7月。日本軍は、ビルマで連合軍の攻撃に遭い、戦局は非常に悪くなっていました。
日本軍の、ある小隊長は自分の小隊に合唱を教えていました。明日死ぬかもしれない状況下で、隊員達は合唱の力で、団結し、規律を守り、癒されていたのでした。
とりわけ水島上等兵は音楽に熱中し、竪琴の演奏を得意としていました。水島は、ビルマ人の格好で斥候に出て、状況を竪琴で小隊に知らせるなどの活躍をしていました。
終戦となり小隊は捕虜となり、捕虜収容所に送られました。しかし、終戦を知らない三角山の部隊が戦闘を続けており、放置すれば全滅する状況でした。「終戦を知らせなければ!」イギリス軍と交渉して、水島が、三角山へ行ったのですが、帰ってきませんでした。その後、青いオウムを肩に乗せた、水島によく似た青年僧が捕虜収容所へ現れ、逃げるように立ち去りました。
小隊長は、青年僧は水島であり、三角山部隊を説得できなかったので戻れないと見抜きました。そこで、親しくなった物売りの老婆からオウムを譲り受け、「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と日本語を覚えこませました。
数日後、小隊が森の中で合唱していると、どこからともなく水島の竪琴の音が聞こえてきました。
小隊は、日本へ帰国することが決まりました。隊員達は、水島を連れて帰ろうと毎日合唱しました。隊長は、物売りの老婆に、日本語を覚えこませたオウムを青年僧に渡してくれるよう頼みました。帰国前日、青年僧が姿を現しました。収容所の柵ごしに隊員達は『埴生の宿』を合唱…青年僧は、竪琴を合唱に合わせて弾いた…。隊員達は一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけた。しかし、彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を弾く。祖国のメロディーに心打たれる隊員達を後に、水島は森の中へ去って行った。
翌日、出発前の小隊のもとに、オウムと封書が届けられた。水島は、三角山に立てこもっていた部隊を必死で説得したが、部隊は自爆の道を選んだ…。
水島は、自分だけ帰国することはできない、英霊を弔うためこの地に留まろうと決心する。手紙には、日本や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意が綴られていた。 オウムは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と叫びつづけていた。
これを読んだ少年がどれほどの衝撃と感動を覚えたか。自分が水島一等兵だったらどうしただろうか?隊員と一緒に帰国したら、卑怯者になるのだろうか?現地に残って僧になって、家族は喜んでくれるだろうか…考えました…。
ビルマのその後は…
1962年 軍事クーデター 軍事独裁体制
1989年 民主化指導者アウン・サン・スー・チーさん軟禁
1991年 軍事政権が、国名をビルマからミャンマーに変更
1998年 民主化運動の1,000人以上の国民が虐殺される
2006年 ヤンゴンからネピドーへ遷都
2007年 反政府デモ ジャーナリスト長井健司さん射殺される
タイを旅行して、最も親しい隣国を、「ミヤンマー」と、呼ぶタイ人とは出会わなかった。出会った人々は、皆、「ビルマ」と言っていた。
ビルマもミャンマーも古くから用いられてきた呼称。ビルマは口語で、ミヤンマーは文語。国名変更は、軍事政権が決めたこと。
「現地音を尊重するという意味では、ビルマよりミャンマーを用いたほうが良い」という説もある。もっともらしいが、「それは違う」と、司馬遼太郎の母校のビルマ語専攻が主張している。
では、どうして日本では、ミヤンマー?
軍事政権が、対外呼称をMyanmarに変更したら、日本政府がいつにない俊敏さで、「ミャンマー」の呼称を受け入れたのです。メディアも、「それでいいんだ?」と半信半疑ながら追随した。つまり、軍事政権を受け入れない多くのビルマ国民の声を排除したということです。それでいて、アウン・サン・スー・チーさんに同情的な報道…一体どっちの味方なんだ。ミヤンマーと呼ぶのは、スー・チーさんの敵ということですから。軽率すぎましたね、日本政府。
軍事政権を認めない日本国民の皆さん!胸を張って、「ビルマ」と、呼びましょう。いるんですよ!ビルマと言えば、「今は、ミヤンマーです」と、訂正する人が。でも、そういう迫害に負けないでください。
ビルマの英霊と、長井健二さんの御冥福をお祈りいたします。