「愛」を兜に掲げ、閻魔大王へ嘆願書を書いた武将
山形県で見逃してはならないのは、直江兼続(なおえかねつぐ)の兜でしょう。大きく「愛」の文字が掲げられています。文字を兜に付けること自体まれでしょう。しかも、「覇」「気」「武」「勇」など、勇ましい文字ではなく、「愛」ですから。その兜の本物が、上杉謙信が祀られている上杉神社の稽照殿(宝物殿)にあります。撮影禁止のため写真は撮れませんでしたが、しっかりと、目に焼き付けてきました。見たいと思ったものを、首尾良く見ることが出来るのは、高跳びでバーをクリアしたときの感じに似ています。
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、直江兼続。上杉謙信から…
「天下を取るは小事に過ぎず、義を貫いて生きるが大事」
「目先の利に心を曇らされず、不利益を承知の上で背筋を伸ばして生きる事が『義』の精神」と諭された。
この言葉を深く心に刻み、稀代の義将へと成長。謙信の死後、上杉景勝を支え、「義」を貫いた。景勝の奥さんは、兼続の姉、つまり、景勝と兼続は義兄弟でした。
兼続はどんな人物だったか…史実の点を私の60年の経験に裏打ちされた慧眼で繋ぐと、次のような線となります。
◎ 天下統一を目指す織田信長軍と戦った。このときすでに兜には、「愛」の文字をつけていた。
◎ 豊臣秀吉は、兼続の人間性と才能を見込み、家来にならぬかとオファーを出した。しかし、兼続は、「わが主君は上杉景勝様のみ」と、拒否。秀吉は、ますます兼続が気に入り、上杉景勝には、「よい家臣を持っている」と、会津120万石を与えた。兼続(上杉家の家老)には、米沢30万石を与えた。家老にですよ!信じられないけど、史実なのです。
◎ 伊達政宗に対して不遜な言動をした。
大坂城での出来事→伊達政宗が、当時すでに入手困難になっていた、「天正大判」を同席の諸大名に自慢げに回覧した。兼続は、素手ではなく扇子で受け、卵焼きをフライパンで返すようにして表裏を見た。「苦しゅうない。手に取って見よ」という正宗に対し、「お金は、不浄。私の手は、上杉謙信様の代よりの采配を預かるもの。こんな小汚いものを触れるか!冗談言うな」と、天正大判を投げ返した。
また、江戸城内では→伊達政宗とすれ違った時、兼続は挨拶しなかった。当然正宗は、「挨拶はコミュニュケーションの基礎・基本だ。身分からいって私に挨拶しないとは無礼だ」と、言った。兼続は、「(戦場で)敗走する後ろ姿しか見ていないので、中納言様(政宗)の顔を知らなかったのでごめんね」と言った。伊達政宗も形無し。
◎ 真田幸村は、勝手に兼続を師匠とした。あの、有名な真田十勇士の主君がですよ。十勇士のメンバー知ってますか?猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎です。小学生の頃、暗記して自慢したものです。昔覚えたことは、今でも覚えている。新しいことはすぐ忘れる…昨夜の食事内容もおぼつかない…。
◎ 直江兼続の家来になりたがる戦国武将が続出。強力な軍が出来ていった。
武勲も何度かあるが、どーも戦が下手だったような気がするのです。圧倒的な数の軍勢を持っていながら、少数相手に苦戦したり、敗走を余儀なくされたりしているんです。兜に愛ですから、手加減したんでしょうか?
◎ 徳川家康から嫌われていた。兼続は、石田三成とお友達だったので、家康とは対立の立場を取った。家康からの度重なる上洛要求も、徹底して拒否した。当然家康は怒った(このことが会津征伐から関ヶ原の戦いへとつながっていく)。
直江兼続が生きた、戦国時代から江戸時代前期時代は、下克上の乱世。肉親同士でもその命を賭けて争う、親殺し子殺し…苛酷な時代です。その中で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が天下盗りに突っ走る。謀略、裏切り、欺き…何でもあり。
そんな中で、ただ一人、「愛をかかげ、戦国を生き抜いた」。
…現代も、戦国時代と同じです。謀略、裏切り、欺き。利益の追求が当然の原理とされ「勝ち組」「負け組」の格差が開く一方。そして、そのひずみがさらなる問題を産んでいく。現代の「愛」は、棚の上に揚げられっぱなし。
兼続は、「愛」をどこから持ってきたか?普通に考えると、「愛染明王」か「愛宕権現」でしょう。
「義」を突き詰めていって、「愛」にたどり着いたと考えられます。主君への「義」、民衆への「義」、家族への「義」これらの義は全て愛に置き換えられませんか!戦国武将で、残されている記録から「家族愛」を特筆される人、兼続だけでしょう。
かくして、兜に大きく「愛」の文字を掲げた兼続は、「利」になびかず、「愛」を貫いて行ったのでありました。
数多ある兼続のエピソードで、特異なものがあります。
兼続の家臣が下人を無礼討ちした。下人の遺族が兼続に「無礼討ちにされるほどのことはしていなかった」と訴え出た。兼続は、それを了承し、慰謝料を払うと言った。遺族たちは下人を返せと譲らない。兼続は、「下人を返そう。そのほうたちがあの世へ迎えに行ってくれ」と、遺族3人の首をはね、その首を河原に晒した。その横に、「嘆願書 閻魔大王殿 この者どもを使いに出すから死人を返せ 慶長二年二月七日 直江兼続」と書いた立て札を立てた。死人を生かせなどの無理難題を突きつける輩に対しては、それ相当の対処をしますということなのですね。
「常山紀談(江戸時代中期の逸話集。簡潔な和文体です。著者は儒学者湯浅常山)」に、兼続の評価が書かれています。
「大男にて、百人にもすぐれたるもったいにて、学問詩歌の達者、才知武道兼ねたる兵なり。恐らく天下の御仕置にかかり候とも、あだむまじき仁体なり」
「長高く容儀骨柄並びなく、弁舌明に殊更大胆なる人なり」
2009年1月から1年間、NHK大河ドラマ「天地人」が放映されます。その主人公が、直江兼続。脚色されて、ほめ讃えられるでしょうが、江戸中期にこれだけ褒められているのって、本物だなあと思います。
なお、本物の兜の「愛」の字は、薄い銅板製。5~6カ所、小さなビスで兜に止めてありました。大きさは、およそ20cm×20cm。角張った力強い行書体でした。
上杉神社は、山形県米沢市の米沢城址にあります。現在、米沢城址は、「松が岬公園」となっています。
山形県で見逃してはならないのは、直江兼続(なおえかねつぐ)の兜でしょう。大きく「愛」の文字が掲げられています。文字を兜に付けること自体まれでしょう。しかも、「覇」「気」「武」「勇」など、勇ましい文字ではなく、「愛」ですから。その兜の本物が、上杉謙信が祀られている上杉神社の稽照殿(宝物殿)にあります。撮影禁止のため写真は撮れませんでしたが、しっかりと、目に焼き付けてきました。見たいと思ったものを、首尾良く見ることが出来るのは、高跳びでバーをクリアしたときの感じに似ています。
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、直江兼続。上杉謙信から…
「天下を取るは小事に過ぎず、義を貫いて生きるが大事」
「目先の利に心を曇らされず、不利益を承知の上で背筋を伸ばして生きる事が『義』の精神」と諭された。
この言葉を深く心に刻み、稀代の義将へと成長。謙信の死後、上杉景勝を支え、「義」を貫いた。景勝の奥さんは、兼続の姉、つまり、景勝と兼続は義兄弟でした。
兼続はどんな人物だったか…史実の点を私の60年の経験に裏打ちされた慧眼で繋ぐと、次のような線となります。
◎ 天下統一を目指す織田信長軍と戦った。このときすでに兜には、「愛」の文字をつけていた。
◎ 豊臣秀吉は、兼続の人間性と才能を見込み、家来にならぬかとオファーを出した。しかし、兼続は、「わが主君は上杉景勝様のみ」と、拒否。秀吉は、ますます兼続が気に入り、上杉景勝には、「よい家臣を持っている」と、会津120万石を与えた。兼続(上杉家の家老)には、米沢30万石を与えた。家老にですよ!信じられないけど、史実なのです。
◎ 伊達政宗に対して不遜な言動をした。
大坂城での出来事→伊達政宗が、当時すでに入手困難になっていた、「天正大判」を同席の諸大名に自慢げに回覧した。兼続は、素手ではなく扇子で受け、卵焼きをフライパンで返すようにして表裏を見た。「苦しゅうない。手に取って見よ」という正宗に対し、「お金は、不浄。私の手は、上杉謙信様の代よりの采配を預かるもの。こんな小汚いものを触れるか!冗談言うな」と、天正大判を投げ返した。
また、江戸城内では→伊達政宗とすれ違った時、兼続は挨拶しなかった。当然正宗は、「挨拶はコミュニュケーションの基礎・基本だ。身分からいって私に挨拶しないとは無礼だ」と、言った。兼続は、「(戦場で)敗走する後ろ姿しか見ていないので、中納言様(政宗)の顔を知らなかったのでごめんね」と言った。伊達政宗も形無し。
◎ 真田幸村は、勝手に兼続を師匠とした。あの、有名な真田十勇士の主君がですよ。十勇士のメンバー知ってますか?猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎です。小学生の頃、暗記して自慢したものです。昔覚えたことは、今でも覚えている。新しいことはすぐ忘れる…昨夜の食事内容もおぼつかない…。
◎ 直江兼続の家来になりたがる戦国武将が続出。強力な軍が出来ていった。
武勲も何度かあるが、どーも戦が下手だったような気がするのです。圧倒的な数の軍勢を持っていながら、少数相手に苦戦したり、敗走を余儀なくされたりしているんです。兜に愛ですから、手加減したんでしょうか?
◎ 徳川家康から嫌われていた。兼続は、石田三成とお友達だったので、家康とは対立の立場を取った。家康からの度重なる上洛要求も、徹底して拒否した。当然家康は怒った(このことが会津征伐から関ヶ原の戦いへとつながっていく)。
直江兼続が生きた、戦国時代から江戸時代前期時代は、下克上の乱世。肉親同士でもその命を賭けて争う、親殺し子殺し…苛酷な時代です。その中で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が天下盗りに突っ走る。謀略、裏切り、欺き…何でもあり。
そんな中で、ただ一人、「愛をかかげ、戦国を生き抜いた」。
…現代も、戦国時代と同じです。謀略、裏切り、欺き。利益の追求が当然の原理とされ「勝ち組」「負け組」の格差が開く一方。そして、そのひずみがさらなる問題を産んでいく。現代の「愛」は、棚の上に揚げられっぱなし。
兼続は、「愛」をどこから持ってきたか?普通に考えると、「愛染明王」か「愛宕権現」でしょう。
「義」を突き詰めていって、「愛」にたどり着いたと考えられます。主君への「義」、民衆への「義」、家族への「義」これらの義は全て愛に置き換えられませんか!戦国武将で、残されている記録から「家族愛」を特筆される人、兼続だけでしょう。
かくして、兜に大きく「愛」の文字を掲げた兼続は、「利」になびかず、「愛」を貫いて行ったのでありました。
数多ある兼続のエピソードで、特異なものがあります。
兼続の家臣が下人を無礼討ちした。下人の遺族が兼続に「無礼討ちにされるほどのことはしていなかった」と訴え出た。兼続は、それを了承し、慰謝料を払うと言った。遺族たちは下人を返せと譲らない。兼続は、「下人を返そう。そのほうたちがあの世へ迎えに行ってくれ」と、遺族3人の首をはね、その首を河原に晒した。その横に、「嘆願書 閻魔大王殿 この者どもを使いに出すから死人を返せ 慶長二年二月七日 直江兼続」と書いた立て札を立てた。死人を生かせなどの無理難題を突きつける輩に対しては、それ相当の対処をしますということなのですね。
「常山紀談(江戸時代中期の逸話集。簡潔な和文体です。著者は儒学者湯浅常山)」に、兼続の評価が書かれています。
「大男にて、百人にもすぐれたるもったいにて、学問詩歌の達者、才知武道兼ねたる兵なり。恐らく天下の御仕置にかかり候とも、あだむまじき仁体なり」
「長高く容儀骨柄並びなく、弁舌明に殊更大胆なる人なり」
2009年1月から1年間、NHK大河ドラマ「天地人」が放映されます。その主人公が、直江兼続。脚色されて、ほめ讃えられるでしょうが、江戸中期にこれだけ褒められているのって、本物だなあと思います。
なお、本物の兜の「愛」の字は、薄い銅板製。5~6カ所、小さなビスで兜に止めてありました。大きさは、およそ20cm×20cm。角張った力強い行書体でした。
上杉神社は、山形県米沢市の米沢城址にあります。現在、米沢城址は、「松が岬公園」となっています。