アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

災害からの復興「自助、共助、公助」

2011年04月03日 | Weblog
 陸前高田市の長洞地区の話なんですけど・・・
 町外へ出ていた1名が亡くなってしまいましたが、あとの地区住民は、高台の家へ非難して全員無事だった。陸路は寸断されてしまったので、救援が来るまでに数週間は孤立していなければならない状況だった。事実「電気」が開通したのは、4月1日。災害発生時から実に、21日ぶりであった。
 長洞の人たちの素晴らしいところは…
 1 米を供出した
 被災しなかった各世帯の米を持ち寄り、地域全体のものとした。それにより、1日一人あたり1合を食べるとして、1か月は暮らせることが分かった。
 不必要なものまで「買い占める」現象が起こっている。つまり、「自分だけは不自由したくない。自分だけは米を食べて生き抜くぞ。自分だけ良ければいい」そういう現象の、「真逆」です。長洞の人は、自分だけ食べるのではない。みんなで分けて食べた。
 水も、3カ所のわき水を、使えるように確保した。これだって、被災してからわき水を掘り出したわけではない。米が確保され、水が使えたので、被災した翌日から地域住民自身による炊き出しが行われた。

 2 寺子屋を作った
 地域に30人ほどの小中学生がいるが、学校が避難所になっているため授業再開の見通しが立たない。そこで、30人を高台の家に集めて、学習会を始めた。先生役は、主婦や高校生。そのような発想を持つことが出来て、実行出来る…!
 寺子屋こそが教育の原点と言うか、理想の教育。

 3 いち早く薬のリストを作った
 高台の家々へ避難した直後、「誰が、何という薬を必要としているか(常備薬なのか)」を調査した。翌日には、医療部(長洞の人たち)が薬リストをもって、ガレキを乗り越えて市内へ入り、薬を入手した。決死隊のようなもの。

 4 自治会組織 
 被災直後、本部を設置、食料部、医療部、連絡調整部、防犯部の4つの部を作った。その下に、「班」を作った。これも、素早く自助、共助体制に入ることができた原因。

 5 仮設住宅を長洞の高台に
 仮設住宅は、陸前高田市の中心部近くに建てられることになったが、長洞からは遠い。そのため、避難している高台の用地を無償で使わせてもらうことにして、仮設住宅を地元長洞に建設するよう市側へ要請した。

 さて、どうして長洞地区がこのように生き生きと復興し始めたか?「地域の力」に他なりません。地域の力は、「自治会」「共同体」「町内会」…言い方はいろいろありますが、「自助、共助、公助」の力です。

 日本の集落は、「外交力と内部への規律」です。集落の外交力というのは、「年貢について領主と交渉する」など。内部の規律は、「手持ちの米の供出」と「買い占め」の例を出せば、よく解ること。自分だけ良ければいい人とは、集落から除外するしかありません。

 では、我々は長洞地区から何を学ぶか?「自助、共助、公助」つまり、日本の集落の姿です。生活が多様化し、共同体的な繋がりなくなっていますが、これを取り戻さなければならない。都市部での地域力…この機会に、近所の人と話をする…そこからはじめる。煩わしさと背中合わせではあるが、一人では何もできないことを自覚し、「みんなで助け合うシステムをつくる」これを進めよう。

 私の西町二町内会第7班班長の任期が切れてしまいました。だけど、班には80歳以上が4人いる(17世帯)。班長の肩書きはないけど、助けますよ。そして…長洞のマニュアル通りにやってみます。
 日常的に「自助、共助、公助」がなければ無理かなあ…?7班の人たち、日常は皆生活に追われているんだよね…。ジレンマです。