選抜高校野球、東海大相模の打力…すさまじいものがありました。個人的には、鹿児島実業、日大三高に…勝ち進んでほしかったなあと…。なぜかというと、開会式を観ていて、日大三高と鹿児島実業の行進に感動させられたからです。
今大会は、自粛(これ、困ってしまいます。日本の経済が膠着してしまいます)のせいか…入場行進は、なし。外野に整列して内野まで行進。日大三高は、高く上がった大腿。手の振りは水平まで上げる。一糸乱れぬ行進。素晴らしいものでした。鹿実は、日大三高並の行進に、さらに号令がかけられた。全員が胸を張って、「いちに!いちに!」…「勇気をもらう」という言葉がありますが、彼らの行進で勇気が湧いてきました。他のチーム?失礼ながら、勇気が湧いてくる行進ではありませんでした。…単に歩いているだけ。
見る人に感動を与える立派な行進が出来るということは、「生きる力を持っている」ということです。立派な行進がなぜ生きる力なのか?18名が心を合わせて歩くのは、非常に難しいことなのです。そのことの一例として、少年院の子供達は、歩くことは出来るが、行進が出来ない。毎日の練習で、行進らしくはなりますが…完璧な行進にはなりません。行進と生きる力との関連は、この度の東日本大震災でクローズアップされています。
東日本大震災で岩手県釜石市では、3,000人近い小中学生のほとんどが無事に避難した。(釜石市では、死者・行方不明者が1,200人を超えた)
釜石市は、「津波てんでんこ」(津波の場合は、自分の判断・責任で逃げろの意味)に基づいた防災教育をしていた。想定外の大津波が押し寄せる中、防災の教えが多くの子供たちの命を救ったわけです。
「津波てんでんこ」つまり、てんでバラバラに逃げる…それが津波から身を守るのであれば、日大三高と鹿児島実業のような美しい行進は不要なのではないか?行進と、生きる力は関係ない…。
いえいえ密接な関係があります。釜石東中学校(生徒数222人)を例に挙げると…
釜石東中学校は、「助けられる人から助ける人」への意識を育むことを目的に、独自の全校防災学習をおこなってきていました。活動が評価され、「ぼうさい甲子園」の優秀賞を平成21年、22年と2年連続で受賞しました。甲子園にもいろいろあるもので…。
大地震のあと校庭に出た生徒たちは、教師の指示を待たず(これが、てんでんこ。指示を待っていたら、助からなかったかも知れません。事実、校庭で点呼していたある小学校では、8割の児童が津波にさらわれてしまいました)。釜石東中の生徒は、防災訓練で使っている高台に向かって走った。途中、隣の鵜住居小学校(児童数361人)の児童も合流。中学生は小学生を守って走り続けた(その様子の映像を見ました。整然と一生懸命走っていました。助けられる人から、助ける人になったわけです)。いつもの高台では、「まだ危ない」と生徒が判断し(これも、てんでんこ)、さらに高い場所へ避難した。学校から1キロも走っていた…!その日登校していた、両校の児童生徒計562人全員が無事だった。
「てんでんこ」の避難訓練…「てんでバラバラ、我先に!自分か生きれば」ではない。教師の指示で避難行動をとるのでななく、自分の判断で避難するということ。そのことの学習が毎週1時間、避難訓練は年間3回(釜石東中)。釜石東中と鵜住居小の校舎はどうなったかって?両校の校舎は津波にのみ込まれました…。
行進は、「呼吸を合わせなければできません」。訓練により、指揮者がいなくても呼吸を合わせることが出来るようになります。「避難訓練」も、呼吸を合わせるために行うもの。行進練習と避難訓練は目的が全く同じものです。
この度の大災害を機に、日本中の学校も職場も、「行進の練習」をしなければならないと思います。
体育祭の入場行進で、意識の高い体育教師が整然とした行進を指導しているのを見た愚かな教員が、「自衛隊みたいでいやだ」と批判したという。自衛隊、消防、警察がなぜ整然とした行進の練習をするか?ダラダラと歩く人や、逆方向へ歩く人がいると、グループ全員の命が危機にさらされるのです。自衛隊みたいな行進ができることが生きるための力なのです。
あと、日大三高、鹿児島実業に代表されるような行進は、人々に勇気・夢・希望を与えます。
今大会は、自粛(これ、困ってしまいます。日本の経済が膠着してしまいます)のせいか…入場行進は、なし。外野に整列して内野まで行進。日大三高は、高く上がった大腿。手の振りは水平まで上げる。一糸乱れぬ行進。素晴らしいものでした。鹿実は、日大三高並の行進に、さらに号令がかけられた。全員が胸を張って、「いちに!いちに!」…「勇気をもらう」という言葉がありますが、彼らの行進で勇気が湧いてきました。他のチーム?失礼ながら、勇気が湧いてくる行進ではありませんでした。…単に歩いているだけ。
見る人に感動を与える立派な行進が出来るということは、「生きる力を持っている」ということです。立派な行進がなぜ生きる力なのか?18名が心を合わせて歩くのは、非常に難しいことなのです。そのことの一例として、少年院の子供達は、歩くことは出来るが、行進が出来ない。毎日の練習で、行進らしくはなりますが…完璧な行進にはなりません。行進と生きる力との関連は、この度の東日本大震災でクローズアップされています。
東日本大震災で岩手県釜石市では、3,000人近い小中学生のほとんどが無事に避難した。(釜石市では、死者・行方不明者が1,200人を超えた)
釜石市は、「津波てんでんこ」(津波の場合は、自分の判断・責任で逃げろの意味)に基づいた防災教育をしていた。想定外の大津波が押し寄せる中、防災の教えが多くの子供たちの命を救ったわけです。
「津波てんでんこ」つまり、てんでバラバラに逃げる…それが津波から身を守るのであれば、日大三高と鹿児島実業のような美しい行進は不要なのではないか?行進と、生きる力は関係ない…。
いえいえ密接な関係があります。釜石東中学校(生徒数222人)を例に挙げると…
釜石東中学校は、「助けられる人から助ける人」への意識を育むことを目的に、独自の全校防災学習をおこなってきていました。活動が評価され、「ぼうさい甲子園」の優秀賞を平成21年、22年と2年連続で受賞しました。甲子園にもいろいろあるもので…。
大地震のあと校庭に出た生徒たちは、教師の指示を待たず(これが、てんでんこ。指示を待っていたら、助からなかったかも知れません。事実、校庭で点呼していたある小学校では、8割の児童が津波にさらわれてしまいました)。釜石東中の生徒は、防災訓練で使っている高台に向かって走った。途中、隣の鵜住居小学校(児童数361人)の児童も合流。中学生は小学生を守って走り続けた(その様子の映像を見ました。整然と一生懸命走っていました。助けられる人から、助ける人になったわけです)。いつもの高台では、「まだ危ない」と生徒が判断し(これも、てんでんこ)、さらに高い場所へ避難した。学校から1キロも走っていた…!その日登校していた、両校の児童生徒計562人全員が無事だった。
「てんでんこ」の避難訓練…「てんでバラバラ、我先に!自分か生きれば」ではない。教師の指示で避難行動をとるのでななく、自分の判断で避難するということ。そのことの学習が毎週1時間、避難訓練は年間3回(釜石東中)。釜石東中と鵜住居小の校舎はどうなったかって?両校の校舎は津波にのみ込まれました…。
行進は、「呼吸を合わせなければできません」。訓練により、指揮者がいなくても呼吸を合わせることが出来るようになります。「避難訓練」も、呼吸を合わせるために行うもの。行進練習と避難訓練は目的が全く同じものです。
この度の大災害を機に、日本中の学校も職場も、「行進の練習」をしなければならないと思います。
体育祭の入場行進で、意識の高い体育教師が整然とした行進を指導しているのを見た愚かな教員が、「自衛隊みたいでいやだ」と批判したという。自衛隊、消防、警察がなぜ整然とした行進の練習をするか?ダラダラと歩く人や、逆方向へ歩く人がいると、グループ全員の命が危機にさらされるのです。自衛隊みたいな行進ができることが生きるための力なのです。
あと、日大三高、鹿児島実業に代表されるような行進は、人々に勇気・夢・希望を与えます。