実は私は彼女の事を知らなかった。
YOU TUBEで「神演奏」をキーワードに、
検索した時に引っ掛かった方。
私は、グラミー賞受賞も、知らなかった大馬鹿野郎。
さらに言えば、わが静岡県浜松市出身。
もっと言えば、
ただの話題の人ではなく、技術の裏打ちされた、
本物のジャズピアニスト。
私が好きな、
ダラー・ブランドやチックコリアとはまた違ったジャンル?
あまりの実力に圧倒されてしまった。
こんな世界的な方が、静岡県出身ということが素直にうれしい。
上原 ひろみ(うえはら ひろみ、Hiromi Uehara、1979年3月26日 - )は、日本のジャズピアニスト。静岡県浜松市出身でアメリカ合衆国在住。日本国外ではHiromiという名前で通している。2007年(平成19年)9月1日にデザイナーの三原康裕と結婚した。
2011年
日本時間2月14日(現地時間13日)に行われた「第53回グラミー賞」で、バンドのメンバーとして自身も参加したアルバム『THE STANLEY CLARKE BAND FEAT. HIROMI』が第53回グラミー賞「Best Contemporary Jazz Album」(ベスト・コンテンポラリー・ジャズ・アルバム)を受賞した。
生い立ち
1979年、浜松市に生まれる。
1985年、6歳でピアノを始め、ヤマハ音楽教室ではピアノとともに作曲も学んだ。また、15歳以下の子供たちが参加するヤマハ音楽教室主催の「ジュニアオリジナルコンサート」(ヤマハでは、JOC と略称する)に何度も参加した。
1987年、8歳の時、ピアノの教師宅でジャズのレコードを発見、以降ジャズへの傾倒が始まった。その後もジャズ好きの教師たちに恵まれ、周りの影響で小学校時代からすでに、オスカー・ピーターソンやエロル・ガーナーに熱中する時代を送り、当時からインプロヴィゼーションをこなす。校内の音楽会で発表するため、人気アニメの主題曲「おどるポンポコリン」を独自に編曲。楽器パートの譜面作りもすべて一人で行い、周囲を驚かせた。
1993年、14歳の時にチェコに行く機会があり、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演する機会を持つ。
1994年、NHK趣味百科「ピアノで名曲を」に生徒として出演。シューマンの「幻想小曲集作品12 (シューマン)」から「飛翔」「なぜに」を演奏した。
1995年、静岡県立浜松北高等学校国際科に入学。在学中は、ロックにものめり込んだ。
12月、上原が16歳の時、上京した折にたまたまヤマハで来日公演のためのリハーサルを行っていたチック・コリアと出会い、コリアに促されて目の前でピアノを弾いた。上原の技術に感銘を受けたチックも加わり、その場で即興での共演となった。上原の卓越したピアノの才能を見抜いたチックは来日公演の最終日に上原をステージに上げ、今度は観客の前で共演を果たす。その後、チックの見立て通り、見事に音楽的才能を開花させた上原は国内外のコンサートに出演するかたわら、日産自動車や花王などのコマーシャル・ソングを作曲する。
1997年 ミシシッピー州知事からの招聘を受けたヤマハが、現地のサリアマラ国際芸術財団とヤマハ・アメリカ共催で開催したチャリティ(インターナショナル)ジュニアオリジナルコンサート(JOC)にアメリカの子ども8名とともに特別ゲストとして参加。このコンサートは全米三大ネットワークでテレビ放映された。
1999年、20歳のときに長年付き合いのあるヤマハの音楽支援制度で留学奨学支援(奨学金)を得たのを機に、マサチューセッツ州ボストン市にあるバークリー音楽大学への留学を決意する。20歳で法政大学法学部を中退し渡米。留学の主要な目的はピアノ修行ではなく、作編曲技術の習得であったので作編曲科に入学した。
YOU TUBEで「神演奏」をキーワードに、
検索した時に引っ掛かった方。
私は、グラミー賞受賞も、知らなかった大馬鹿野郎。
さらに言えば、わが静岡県浜松市出身。
もっと言えば、
ただの話題の人ではなく、技術の裏打ちされた、
本物のジャズピアニスト。
私が好きな、
ダラー・ブランドやチックコリアとはまた違ったジャンル?
あまりの実力に圧倒されてしまった。
こんな世界的な方が、静岡県出身ということが素直にうれしい。
上原 ひろみ(うえはら ひろみ、Hiromi Uehara、1979年3月26日 - )は、日本のジャズピアニスト。静岡県浜松市出身でアメリカ合衆国在住。日本国外ではHiromiという名前で通している。2007年(平成19年)9月1日にデザイナーの三原康裕と結婚した。
2011年
日本時間2月14日(現地時間13日)に行われた「第53回グラミー賞」で、バンドのメンバーとして自身も参加したアルバム『THE STANLEY CLARKE BAND FEAT. HIROMI』が第53回グラミー賞「Best Contemporary Jazz Album」(ベスト・コンテンポラリー・ジャズ・アルバム)を受賞した。
生い立ち
1979年、浜松市に生まれる。
1985年、6歳でピアノを始め、ヤマハ音楽教室ではピアノとともに作曲も学んだ。また、15歳以下の子供たちが参加するヤマハ音楽教室主催の「ジュニアオリジナルコンサート」(ヤマハでは、JOC と略称する)に何度も参加した。
1987年、8歳の時、ピアノの教師宅でジャズのレコードを発見、以降ジャズへの傾倒が始まった。その後もジャズ好きの教師たちに恵まれ、周りの影響で小学校時代からすでに、オスカー・ピーターソンやエロル・ガーナーに熱中する時代を送り、当時からインプロヴィゼーションをこなす。校内の音楽会で発表するため、人気アニメの主題曲「おどるポンポコリン」を独自に編曲。楽器パートの譜面作りもすべて一人で行い、周囲を驚かせた。
1993年、14歳の時にチェコに行く機会があり、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演する機会を持つ。
1994年、NHK趣味百科「ピアノで名曲を」に生徒として出演。シューマンの「幻想小曲集作品12 (シューマン)」から「飛翔」「なぜに」を演奏した。
1995年、静岡県立浜松北高等学校国際科に入学。在学中は、ロックにものめり込んだ。
12月、上原が16歳の時、上京した折にたまたまヤマハで来日公演のためのリハーサルを行っていたチック・コリアと出会い、コリアに促されて目の前でピアノを弾いた。上原の技術に感銘を受けたチックも加わり、その場で即興での共演となった。上原の卓越したピアノの才能を見抜いたチックは来日公演の最終日に上原をステージに上げ、今度は観客の前で共演を果たす。その後、チックの見立て通り、見事に音楽的才能を開花させた上原は国内外のコンサートに出演するかたわら、日産自動車や花王などのコマーシャル・ソングを作曲する。
1997年 ミシシッピー州知事からの招聘を受けたヤマハが、現地のサリアマラ国際芸術財団とヤマハ・アメリカ共催で開催したチャリティ(インターナショナル)ジュニアオリジナルコンサート(JOC)にアメリカの子ども8名とともに特別ゲストとして参加。このコンサートは全米三大ネットワークでテレビ放映された。
1999年、20歳のときに長年付き合いのあるヤマハの音楽支援制度で留学奨学支援(奨学金)を得たのを機に、マサチューセッツ州ボストン市にあるバークリー音楽大学への留学を決意する。20歳で法政大学法学部を中退し渡米。留学の主要な目的はピアノ修行ではなく、作編曲技術の習得であったので作編曲科に入学した。