「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県中城村 「 伊寿留按司 ( いじゅるあじ ) の墓 」

2013-07-09 06:07:15 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所








墓は、中城城跡の入口の高台東端にあり、琉球石灰岩の岩盤の下を掘り込んで造られている。
墓の前面は琉球石灰岩を相方積みに積んである。
伊寿留按司は、山田城の按司の長男で、護佐丸盛春 ( 毛岡鼎 ) の兄にあたる。
城主になるのを望まず、中城間切に移り住み、農業に励んで近隣に聞こえた豪農になり、
「 伊舎堂安里 ( 屋号 ) 」 の始祖となったと伝えられているが、
一説には、中城グスクの南側にある台グスクに居城していたとも言われている。
その台グスクがある山の中腹には護佐丸の墓がある。

伊寿留の屋敷は、大城の東原にあったといわれ、
その西側にあるフスグ森は、伊寿留家がもみがらを風で吹き飛ばして脱穀した場所であり、
地名もそのことに由来するという。
「 球陽 」 ( 1745年 ) に、伊舎堂安里の子孫、安仁屋親雲上は、1709年の大飢饉のおり、
近隣十ヶ村に米10石を利息なしで貸して救済したと記されている。
安里家とその一門は、清明 ( シーミー ) と盆に伊寿留按司の墓を拝み、
毛氏一門は、盆と正月に伊舎堂安里家を拝する。
子孫は、名乗字 「 永 」 を名乗頭としている



沖縄県那覇市 「 久米至聖廟 ( 久米孔子廟 ) 」 を歩く

2013-07-08 06:06:55 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所

那覇市にある久米至聖廟(久米孔子廟)には、5つの建物と、3つの石碑と門がある。
ここではそれぞれの施設について説明したいと思います。




「 久米至聖廟 ( 久米孔子廟 ) 」の大成殿






至聖廟から入ると大成殿に向かって一直線に伸びた通路












「 大成至聖先師孔子 」 と書かれた禅位


大成殿は、至聖廟(孔子廟)の本殿です。万世の師表である孔子のほかに、
その高弟の四配(顔子、曾子、子思子、孟子)が祀られ、年に一度の釋奠がここで行われます。





至聖廟( 門 )






聖廟内から見た至聖廟 ( 門 )







道教の最高神が祀られている 「 天尊廟 」








久米三十六姓の渡来によって伝えられた中国の民衆道教の最高神を祀る天尊廟。
義に生きた関羽は 「 関帝王 」 と称され、水を治める神である 「 龍王 」 と共に祀られている。
沖縄戦で焼失し1975年 ( 昭和50年 ) に同地に復興されました。





航海安全の守護神が祀られている 「 天妃宮 」








天妃宮は、航海安全の守護神である天妃を祀っています。
天妃とは中国沿岸部や東南アジアで船乗りや航海者に信仰されている媽祖(まそ)の称号です。
琉球王朝時代は「上の天妃宮」「下の天妃宮」と 二つありましたが、
廃藩置県以降学校用地に使われ、天妃像は若狭の天尊廟地内に合祀されていました。
それも沖縄戦で失われ、戦後久米至聖廟とともに復興されました。
「 上の天妃宮 」 の石門は天妃小学校内に残っており、文化財の指定を受けています。






天妃宮 ( 手前 ) と天尊廟 ( 奥 )








程順則頌徳碑 ( ていじゅんそくしょうとくひ ) は、
日本人の道徳の基礎となった「六諭衍義」を持ち帰った人格者、程順則の碑である。

1663~1734年 クニンダ(久米村)出身。
程順則名護親方といい、程順則は唐名。
三司官座敷 ( 琉球王朝の位階名で三司官に次ぐ位で同待遇 ) を務め、
明倫堂等で子弟教育を行いました。
留学を含めて5度中国(清)へ渡り、4度目に自費で 「 六諭衍義 」 を木版出版し持ち帰り
琉球王国だけでなく、江戸幕府にも献上され、各藩の学校や寺子屋等で大いに活用され、
その徳功は高く評価されている。

※ 程順則については以前ブログに掲載したものがあるので参考にしてもらいたい。






程順則頌徳碑の奥にある蔡温頌徳碑 ( さいおんしょうとくひ ) は、
琉球王朝時代有数の偉人、蔡温の碑である。

1682~1761年 クニンダ(久米村)出身。蔡温具志親方といい、蔡温は唐名。
三司官(琉球王朝の位階名で王に次ぐ国政を司る三人の宰相)を務め、
政治・経済・儒学・哲学に関する18の著書のほか、
科学者・技術者としての業績も高いものを残し、
琉球王朝時代有数の偉人として尊敬され、 その徳功は程順則とともに、高く評価されている。






大成殿の横にある 「 中山孔子廟建立碑 」














久米至聖廟(久米孔子廟)は、1676年、久米村に建てられた孔子及び
四配(顔子・曾子・子思子・孟子)を祀る廟である。

1671年、金正春城間親方が孔子廟建立の件を尚貞王に啓奏して許可を受け、
1672 年に廟地を久米村の泉崎橋頭に選定してただちに着工し、 1674年建物が竣工した。
1675 年5月孔子及び四配の塑像に着手し、1676年1月に完成。
この年から毎年春秋2回、最初の丁の日に釈奠が行われた。
正門には「至聖廟」の扁額が掲げられ、俗に「チーシンブー」と呼ばれていた。

第二次世界大戦で大成殿、明倫堂などの建物や聖像、蔵書が灰燼に帰し、
敷地も旧軍道1号線(現国道58号線)が貫通して僅かに残るのみで
跡地での廟再建が 不可能となった。
(社)久米崇聖会では、天尊廟敷地内(那覇市若狭)に廟地を選定して復興工事に着手し、
1975年(昭和50年)1月に至聖廟落成式と復興後第1回の釋奠を行っている。



沖縄県与那原町  「 聞得大君の墓 ・ 三津武嶽 ( みちんだき )」

2013-06-29 00:14:01 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



「 聞得大君の墓 」 ( 三津武嶽 )































三津武嶽の下にある「 我謝公民館 」











与那原にある 「 沖縄カントリークラブ 」 の南端の丘上、
鉄塔付近の岩下に聞得大君 ( きこえおおぎみ ) の墓がある。

聞得大君が琉球発祥の地、久高島に参詣される途中に強い逆風に遭い、
薩摩の国に漂流し、一命をとりとめることが出来たが、
琉球は日照りが続き、これは最高神女が他国に居る所為だと、神女たちはささやき合った。
君真物のお告げで、薩摩に居るからお迎えせよという。
そこで馬天ヌルを船頭に女ばかりで船を出した。
無事に聞得大君を乗せて帰還するが、
その時、既に彼の地で懐妊しており、王府からの招きを快しとせず、
与那原海岸の御殿山に庵を結んで一生を終えた。

三津武嶽は、聞得大君が死後、葬られたと言われる場所であると遺老説伝の伝わる所で、
「 友盛ノ嶽御イベ 」 ともいわれている。
現在は子宝の神として子宝を望む人のお参りが絶えない。

聞得大君は、NHKの 「 テンペスト 」 の中で高岡早紀が演じているので、
テレビを見た人は大方の人物像が解ると思うが、聞得大君について書いておきたい。


聞得大君(きこえおおぎみ、きこえのおおきみ、チフィジン)とは、琉球神道における最高神女(ノロ)である。

「聞得」は大君の美称辞で、「君」は「カミ」の意で、従って「大君」は君の最高者という意味であるという説がある。
琉球方言で、チフィウフジンガナシ(聞得大君加那志)と称した。
宗教上の固有名詞となる神名は 「 しませんこ あけしの 」 「 てだしろ 」 である。

聞得大君は琉球王国最高位の権力者である国王のおなり神に位置づけられ、
国王と王国全土を霊的に守護するものとされた。そのため、主に王族の女性が任命されている。
琉球全土の祝女の頂点に立つ存在であり、命令権限を持った。
ただし祝女の任命権は国王に一任されていた。
また、琉球最高の御嶽である斎場御嶽を掌管し、首里城内にあった十御嶽の儀式を司った。

就任儀礼

沖縄本島最大の聖地である斎場御嶽において就任の儀式である 「 御新下り 」 が行われた。
「御新下り」の本質は琉球の創造神との契りである聖婚 ( 神婚 ) 儀礼と考えられている。
宗教観念上は、この聖婚により君手摩神の加護を得て、聞得大君としての霊力を身に宿すのである。
就任後は、原則として生涯職である。

由来

琉球王国では、尚真王代に中央集権化と祭政一致が行われた。
この際に各地に存在していた神女をまとめるため神女組織が整備され、
その階位の頂点として新たにこの役職が設けられた。
ちなみにそれまでの琉球王国における祝女の最高位は佐司笠 ( さすかさ / または 「 差笠 」 と表記 )
職と国頭地方由来の阿応理屋恵(あおりやへ / または「煽りやへ」と表記 / 琉球方言読み:オーレー)職であり、
これらは聞得大君職制定のあと、全祝女の中で聞得大君に継ぐ第二位の格付けと降格されている。

その神名 「 しませんこ あけしの 」 は勢理客にあった既存の祝女職と同じであることが判明しており、
聞得大君職の元になった宗教概念が以前から存在したと考えられるが、その詳細については不明な点がある。
また 「 てだしろ ( =太陽の依代 ) 」 はそれまで馬天祝女の神名であったが、
聞得大君職の制定とともに馬天祝女から剥奪された。

盛衰

尚真王の妹である音智殿茂金(神名、月清)が就任したのが最初である。
王国崩壊後もこの役職は存続し、戦時中の1944年に18代、思戸金翁主が就任したのを最後に不詳年に廃職されている。

聞得大君の一覧

初代:月清(生没不明) 就任:尚真王代
二代:梅南(不明 - 1577年) 就任:尚元王代
三代:梅岳(不明 - 1605年) 就任:1577年
四代:月嶺(1584年 - 1653年) 就任:1605年
五代:円心(1617年 - 1677年) 就任:1653年
六代:月心(1645年 - 1703年) 就任:1677年
七代:義雲(1664年 - 1723年) 就任:1703年
八代:坤宏(1680年 - 1765年) 就任:1723年
九代:仁室(1705年 - 1779年) 就任:1766年
十代:寛室(1719年 - 1784年) 就任:1780年
十一代:順成(1721年 - 1789年) 就任:1784年
十二代:徳沢(1762年 - 1795年) 就任:1789年
十三代:法雲(1765年 - 1834年) 就任:1795年
十四代:仙徳(1785年 - 1869年) 就任:1834年
十五代:仲井間翁主(1817年 - 不明) 就任:1870年
十六代:安里翁主(1825年 - 1909年) 就任:明治年間
十七代:安室翁主(1874年 - 1944年) 就任:大正年間
十八代:思戸金翁主(1887年 - 不明) 就任:1944年。戦後廃職

(出典:「歴史・伝説にみる沖縄女性」比嘉朝進著、那覇出版社)



沖縄県具志頭 「 南風原守忠按司と花城親方の墓 」

2013-06-21 07:16:22 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



南風原按司と花城親方の墓








南風原按司の墓







花城親方の墓























国道331号線を具志頭ドライブインから右に入った所に墓がある。

動画も写真も南風原按司守忠 ( はえばるあじ もりただ ) と
その子花城親方守知 ( はなしろうぇーかた もりとも ) の墓である。
墓は那宇島から当地に移したと言われている。
神屋 ( かみやー ) は、具志頭グスクに上る右手角の瓦葺き屋である。

南風原按司守忠は南山王他魯前の弟で、八重瀬グスクの南山王統最後の城主といわれている。
尚巴志が南山を攻めた時、親交のあった具志頭の安里大親の身を隠し難を逃れた。
しかし、ここは危険とみて与那原から舟で久志村汀間 ( 名護市久志汀間 ) に逃れた。
後年、安里大親の身が気がかりでこっそりと帰って来た。
その後、安里大親の娘 ( 次女 ) との間に子をもうけた。その子が後の花城親方守知である。

守知は具志頭花城村の地頭職をつとめ、花城親方を名乗り、
具志頭村の屋富祖大屋子の娘をめとって、一女をなす。
その孫娘が尚 真王の夫人 ( 華后 ) となり、尚清王を産んだ。
よって花城親方守知は、第二尚氏第三代王尚真王の養父を努めた人物である。

子孫は阿氏前川殿内で、
安里大親の長女?の子孫は具志頭に住む屋号 「 謝嘉比 」 仲間家といわれている。



沖縄県南城市佐敷 「 苗代大比屋の屋敷跡 」

2013-06-19 06:28:59 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所







苗代大比屋の屋敷跡は南城市佐敷町の集落後方の丘にあり、小公園を左折すると、
舗装道の左手に舗装のない坂小道を登ると左手に 「 苗代大比屋の屋敷跡 」 の路標が立っている。
コンクリート建ての神殿内に位牌があり、 「 尚思紹王霊位、妻思真満金 」 と記されており、
もうひとつの位牌には 「 尚巴志王ウナザラヌメー妻 」 と記されている。
向って左に火ヌ神を祀る。


苗代大比屋は本名を思紹 ( ししょう ) と言い、父である鮫川大主 ( さめかわうふしゅ ) が当時、
一帯の勢力を持っていた大城按司 ( うふぐすくあじ ) に認められて按司の娘を貰い、
二人の間に産まれた子が思紹であった。

思紹は鮫川大主の跡を継ぎ佐敷按司となりました。
思紹は美里の子を妻にしてこの地に住んでいたと伝わっている。

その後は息子の巴志が産まれ、巴志が育つと彼に按司を任せて隠居の身となったが、
祖父の大城按司が隣の大里 ( うふざと ) グスクの大里按司との戦いに敗れると
息子と共に兵を挙げて大里グスクを攻略して大里按司を討ちます。

息子の巴志は当時の王であった武寧 ( ぶねい ) を討ち思紹は1406年に中山王に即位した。
在位期間中は30回の交易を行い、息子である巴志の琉球統一の為の国力となった。





沖縄県宮古島市   「 スカプヤー御嶽 」

2013-06-16 06:13:21 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所














スカプヤー御嶽は宮国集落から南の海岸域に旧集落があって、 「 宮国元島 」 と呼ばれている。
15世紀ごろの集落と言われ、輪入陶磁器が出土しているが、
後世、大津波で消滅したと伝えられている。

この宮国元島にスカプヤー御嶽があり、
スカプヤー元 ( ムトゥ ) では、海からの冨を期待するンナフカ祭りを行なう。
豊穣を積んだ綾船 ( アヤブニ ) がやって来てから、スプカヤーは裕福になったという。
神を迎えるため、毎年9月乙卯 ( きのとう ) 3日間は人も牛馬も外出しない。
夜間は火を燃やさず、早く寝るなどの物忌みが昭和初期まで村じゅう守っていたという。
ンナフカは仮死の意味だという。

現在は8月ごろの迎えンナフカと二ヵ月後の送りンナフカを十数人の神女が、
スプカヤー御嶽で祈願し神歌を謡う。
最終日は友利・砂川・新里・宮国の四カ字の人々が参拝にみえる。
この神船の来島を日本海賊船とみる説があるが、
行動を秘密にするため神事に託して村人を家に閉じ込めておいたというわけである。



沖縄県嘉手納町 ・ 琉球の産業の大恩人 「 野国総管の墓 」

2013-06-14 04:40:56 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



野国総管の墓


野国総管の名前だが、これは、「野国村」出身の進貢船の事務総長である「総管」という役職名で、
本名ではないが、こっちの方が有名になっている。
本名は判っていない。






野国総管の遺骨が入った厨子甕














これはカデナマリーナ内の総管の墓の前にある碑である。



野国総管は1605年に中国福建省より甘藷(サツマイモ)の苗を持ち帰り、
今のカデナマリーナ周辺にあった、野国村で栽培を始めました。
これが琉球での甘藷の始まりで、以降干ばつや暴風などで米などが取れなくても、
餓死者を出す事が少なくなったという事です。
琉球で普及していた甘藷を1615年、ウイリアム・アダムス ( 後の三浦按針 ) が長崎平戸に、
1705年、前田 利右衛門が薩摩に持出して、それらが全国に普及して現在に至っているそうである。





野国総管の墓の前にある説明板







「 道の駅・かでな 」 にある野国総管の像











カデナマリーナ内にある野国総管の墓を紹介するのは、今回で2度目だが、
前回は、 沖縄の文化財 」 として墓を紹介したが、
この場所で何回写真を撮ってもボケるので再度撮り直しにこの場所に来たわけである。




沖縄県那覇市 ・ 忠義の人 「 国吉比屋の墓 」

2013-06-10 06:06:09 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



国吉比屋の墓




















国吉比屋の墓は、以前に紹介した 儀間真常の墓 の近くにあり、
亀甲墓が多い沖縄にあって家屋造りの珍しい墓で、
国吉家の家紋の丸に二本帯が入っている。

始祖は忠義の士・国吉比屋 ( クニヨシヒヤー ) 。
阿麻和利の軍勢に取り囲まれて護佐丸は、妻、長男、次男、ともども自害して果てる。
この時、三男の盛親一人が、乳母に抱かれて城から逃れた。
無事に落ち延びた先が、島尻の高嶺間切国吉・真栄里。
そこで、盛親は、気骨のある人物に会い、一命を救われた。
この気骨ある人物というのが、国吉比屋 ( クニヨシヒヤー ) で、
那覇士族、査姓の始祖・国吉真元であった。
護佐丸に劣らぬ 「 忠義心の持ち主 」 で、
その気骨ある人柄は、いまだに子孫達の間で、熱っぽく語られている。
沖縄の組踊りにも 「 情けに厚い人物 」 として 「 二童敵討 」 にも登場する。
又、 「 義臣物語 」 では、 「 国吉比屋の忠義心 」 がテーマである。
現在、那覇市松山を中心に子孫の数は、三万人にも及ぶといわれる。
同門中の特色は、そのほとんどが、 「 国吉 」 の姓を名乗っていることである。




沖縄県南城市奥武島   「 ハマヒチぬ拝所 」

2013-06-04 06:14:44 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所







この拝所は、海からの恵に感謝し、豊漁航海安全を祈願する拝所であるが、
以前はこの場所に無かった拝所である。
平成23年4月7日に新漁港拡張工事にともない、この地に移設したものである。




沖縄県北中城村   「 舜天王と舜馬順熈の墓 」

2013-06-01 00:02:03 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



琉球最初の王 「 舜天王の墓 」




















「 舜天王と舜馬順熈王之墓 」 と刻まれた墓碑







墓の前にある「ナスの御嶽」の碑


















仲順の集落のはずれから屋宜原へ向かう道路沿い、水道タンクの南側の杜がナスの御嶽である。
『 琉球国由来記 』 ( 1713年編集 ) によるとここに祀られている神は 「 ナスツカサ御イベ 」 で、
安谷屋ノロが祭祀を掌っていた。
仲順の集落はかつてこの御嶽一帯にあり、
御嶽を 「 腰当て 」 として南側に発展していったといわれる。

御嶽の中にある琉球石灰岩の大岩が御嶽の本体 ( イベ ) だと考えられる。
この岩の上には、舜天・舜馬順熈・義本の三王を葬ったとされる墓がある。
舜天王 ( 12世紀後葉 ) は、琉球最初の王と伝えられている。

三代目の義本王のとき、干ばつで大飢きんとなり、国の半数が餓死したという。
自分の力では世を治めることが出来なくなり、英祖王に王位を譲り身を隠し、
晩年は旧知の仲順大主に身を寄せ、没した。
その遺骨をひそかにナスの御嶽の西方約200mにある王妃墓に葬られたとか?
義本王の家臣は、舜天王と舜馬順熈の遺骨を抱いて人目を忍んで移動し、
ナスの御嶽に葬ったと伝えられている。
沖縄県北部にある辺戸の義本王の墓は、息子の浦添王子という説がある。
義本王の直系にあたるという花崎家には、元祖位牌を祀ってあり、
旧暦9月13日には、花崎門中や仲順の住民によって、
舜天王、義本王、仲順大主の例祭が行なわれている。

仲順の集落はかつてこの御嶽一帯にあり、
御嶽を「腰当て」として南側に発展していったといわれる。
平成7年6月16日に北中城村の史跡に指定された。



沖縄県宮古島市   「 下崎神社 ( イーバリ御嶽 ) 」

2013-05-29 00:04:48 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所

















御嶽の近くにある 「 砂山ビーチ入り口 」






下崎神社は、砂山ビーチの入り口にあり、地元ではイーバリ御嶽とも呼ばれている。
村造りをした鉄具の神 「 カニドノ 」 を祀っている。
旧暦4月の麦ブーイ、6月の節願イ、9月の世乞イに祈願している。

砂山ビーチ近くに 「 万古山御嶽 」 がある。
ここには竜宮神を祀り、その親神はオヤテダ ( 男親神 ) 、ンマテダ ( 母親神 ) といわれ、
天照大神は、この両神の主だという。
普段は御嶽への立ち入りは禁止されている。

御嶽の祭事は旧正月、3月、8月に行なわれ、御嶽の祈願はツカサだけで行なうという。
とくに旧正月の祭祀は、ツカサたちは禊ぎをして一週間御嶽ごもりをするという。

海岸近くに天照大神が誕生したといわれる洞穴があるが、
ここも立ち入りが禁止されている。字民は外側で拝んでいるという。
万古山御嶽は、この誕生地の中継ぎといわれる。
旧暦3月に御嶽ごもりをして、竜宮の神へ大漁と海上無事を祈願し、
あわせて天照大神への感謝祭が行なわれる。


所在地 : 宮古島市下崎



沖縄県那覇市 「 儀間真常の墓 」

2013-05-24 06:29:15 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



儀間真常の墓



















儀間真常(ぎましんじょう)は、サツマイモや木綿織り、
砂糖の作り方などを国中に広め、沖縄を支える産業を起こした人である。

儀間真常は、1557年、真和志間切垣花村 ( まわしまぎりかきのはなむら ) に生まれた。
台風や日照りなどの影響を受けやすかったこの頃の琉球王国は、
食べ物が乏しく人々は食量不足に悩まされていた。
領主である父と一緒に、村を歩くことが多かった小さいころの真常は、
人々が苦しんでいるようすを見て 「 何とかしてみんなの暮らしを楽にしてあげたい 」 と思っていた。
14才になって、首里城に勤めるようになった真常は、
一生懸命働き、36才の時に父のあとを継いで領主になった。

39才の時、琉球王国の使者として中国に渡った真常は、
広い土地に青々と育っている豊かな農作物を見て驚いた。
「 このように農作物が育てば、琉球も豊になるのだが… 」

そんな思いで琉球に戻って来た真常に、いい報せが入って来た。
台風にも強く、やせた土地でも育つという、
まさに琉球にぴったりの作物が、ある村で栽培されているという報せだった。
イモという作物が、新しい食べ物として人々に喜ばれているというのだ。

さっそく真常は、このイモを中国から持ち帰った野国総管(のぐにそうかん)に会いに行き、
タネイモをわけてもらうと、家のうら庭でさっそくイモを育てた。
すると半年も経たないうちに、畑いっぱいにイモが育った。
イモの栽培は、そのあと真常の指導で琉球のあちこちに広まり、
さらには薩摩にも伝わって、サツマイモとして日本中に知られるようになった。

しばらくして、薩摩が琉球に攻め入って来た。
長い間平和な時代が続き、戦いに慣れていなかった琉球はすぐに敗れ、
捕虜となった尚寧王(しょうねいおう)は江戸に連行されてしまった。
尚寧王のお供として薩摩に渡った真常は、そこで初めて綿と出合った。

そのころ琉球の着物といえば、芭蕉や麻で造ったうすい布ばかりだった。
木綿の着物があれば、冬でも暖かく過ごせると考えた真常は、
綿のタネを持ち帰ると庭で栽培した。
それから泉崎に住んでいた薩摩出身の姉妹の助けを借りて、木綿の作り方を村の女性たちに習わせた。
こうして出来上がった木綿の着物は、のちに 「 琉球絣 」 として沖縄の特産品になった。

薩摩が侵入して来ると、琉球は中国との行き来を制限された。
また、薩摩にも、取れた作物を年貢として納めなければならなくなったため、
人々の暮らしは苦しくなっていった。
そんな人々のようすを見て悲しんだ真常は、 「 琉球を豊に出来る方法はないものか 」 と考えた。
そして、目をつけたのがサトウキビだった。

琉球ではサトウキビは栽培されていたが、あまい汁を食べ物の代わりとしていただけで、
サトウキビから黒糖を造る方法は誰も知らなかった。
黒糖が薩摩で高く売れているといううわさを聞いた真常は、黒糖づくりの方法を学ばせるため、
二人の若者を中国に渡らせた。

黒糖づくりを学んだ若者たちが中国から帰ってくると、
真常は自分の家の庭の砂糖小屋で黒糖を造り、やがて国中に広めていった。
およそ400年経った今では、サトウキビの栽培は沖縄の中心的な産業になっている。

儀間真常は、88才でこの世を去るまで、新しいモノを造り出す喜びと希望を、
苦しい時代を生きる人々に与え続けたといえるだろう。

そんな儀間真常の墓は首里崎山町の御茶屋御殿跡の下にある。




沖縄県多良間島   「 イビの拝所 」

2013-05-23 04:57:23 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所














イビの配所は、いつ誰が建てたものであるのかは定かではないが、
航海安全を祈願するために建てられたものであることは、
前泊港を唯一の玄関口として使用していた頃、
船が出航した後に、この拝所で航海安全のお祈りをしてから帰るのが慣例となっていたことからも
うかがい知れる。
ウエーム゜マたちも夫(役人)を泣く泣く見送った後は、
この拝所でねんごろにお祈りをしたといわれている。

昔は、船の出入りにウプフッツーとンガーフッツが使用されていた。
役人の出張、上納物の運搬、緊急連絡などに使われる公用船舶を地船または地下船といって、
ウプッツーに停泊し、ナガグーを伝って人の乗り降りや荷物の積み降ろしをしていた。
馬艦船などの民間商船はンガーフッツーを経てショウミンヴァリ゜、カディカリ゜のニリ゜に、
「 ンガヤパマ 」 「 ンガヤフツー 」 などの言葉があることでもうなずける。

また、イビの広場はウプリという虫除けの行事が行なわれる場所としても知られている。



沖縄県宮古島市下地町   「 川満大殿のミャーカ ( 墓 ) 」

2013-05-21 06:21:31 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



川満大殿の古墳
































川満大殿の古墳は、宮古島市下地町の下地町指定文化財で、
洲鎌集落東方の森の中にあり、人目に付きにくい農道の前にひっそりと存在する。
加工した大きな石を積んだミャーカ ( 墓 ) は、川満大殿とその妻が眠る巨岩墓で、
古い石垣にガジュマルの木の根が巻き付き、敷地内はさまざまな樹木や雑草が生い茂っている。
ミャーカの築造は1500年~50年ごろだといわれている。

下地町の建てた案内文によると、
5百年以上も前の宮古の社会では門閥の背景が無ければ
人の上に立つことは絶対に不可能であったという。
平民として、田舎に生まれた川満大殿が一躍下地の首長に任じられたことは
かって例のない出世であったとされる。
大殿は、寅年の生まれと言われているので、長禄2年天順2年(1458年)の生まれと推定される。

宮古首長、仲宗根豊見親の認めるところとなり、
その知遇を得て遂に下地の首長に任ぜられた。
大殿として残っているのは、弘治11年(1498年)に仲宗根豊見親の命を受け、
ベウツ川掘割工事により、嘉手苅南部水溜りの汚水を排出して病原を絶ち、
併せて広大な農耕地を拓いて勤農に力を尽くした。
永正3年正徳元年(1506年)には加那浜に前代未聞の一大土木工事を起こして
橋道を築造して庶民苦難を除き、
若くして非業の死を遂げた義人、川満村の真種子若按司を庇護して、
慈悲人情の手本を示し、さらに八重山のアカハチ征伐、与那国の鬼虎との戦に従軍して戦功をたてた。
将に智仁勇兼備の巨人で下地の生んだ偉人である。


所在地 : 宮古島市下地町洲鎌ハシモト280



沖縄県宮古島市   「 下地神社 ( ツヌジ御嶽 ) 」

2013-05-19 06:18:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所




















洲鎌公民館の南方300mほどの所に、二つの鳥居と石灯篭、拝殿、本殿がある。
地元では 「 津野瀬 ( ツヌジ ) 御嶽 」 と呼ばれており、
町民や島外からの喜捨によって昭和53年に立派な社殿が出来てから、一般の参拝者が多くなった。
祭神は母テダの生んだ十二の神々のうちの大主ヌ主豊見親を祀り、学問、航海、豊作の神とされる。
下地神社はここから約1キロの海岸寄りにある赤崎御嶽の中取り ( 遥拝所 ) である。
下地神社では、旧暦6,8,10月の庚午の日に例祭があり、宮古各地から参拝者が訪れる。
また、11月の 「 こもり御願 」 には、ツカサたちは赤崎御嶽で祈願し、
2日目から下地神社に七晩も泊り込んで祭事を行なう。
一般の人も酒、洗米、菓子を供え、大主 ( 豊穣 ) をもたらすよう祈願する。


所在地 : 宮古島市下地町洲鎌