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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県宮古島市   「 飛鳥御嶽 ( とびとりうたき ) 」

2013-05-16 06:06:57 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所




























飛鳥御嶽の西北方約400mの場所にある 「 とびとり会館 」






「 飛鳥御嶽 ( とびとりうたき ) 」 は、増原から海岸よりの森にある御嶽で、
西銘城の主、西銘按司の娘オモフ入り婿になった飛鳥爺 ( トゥビトゥリャ ) の居城跡である。
飛鳥爺は幼名を真徳金 ( マトクガニ ) と称していたが、
長じて 「 その勇は虎の如く、その速きことは飛鳥の如く 」 と言われて、その名を得たとされている。
白川浜で弓の試合を挑まれ姦計により両目を打ち抜かれて絶命、主を失った人々は離散し、
西銘城もさびれてしまったが、後に飛鳥爺の霊を祀り、ここを飛鳥御嶽と称するようになったそうである。
また、一説では西銘按司の最初の城が西銘御嶽であったが、
手狭になったため後に飛鳥御嶽の地に移ったとも言われている。
祭神は飛鳥主、脇神に西銘主・龍宮神を祀り、
宮原が主催して行う旧6月の 「 世乞い祭 」 は盛大で、雨乞いの願事もここで行われている。
昭和初期には内地の神社形式を取り入れ、鳥居と参道脇には灯篭が建立された。


所在地 : 宮古島市東仲宗根添


沖縄県うるま市   「 安慶名大川按司 ( あげなおおかわあじ ) の墓 」

2013-05-11 06:10:09 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



安慶名大川按司の墓









安慶名十字路の北西、具志川商業高校の西に安慶名城跡公園がある。
そこの石段を上ると石門の手前右下方に、岩陰に石積みされた按司墓がある。

城主の安慶名大川按司は、今帰仁城を逃れた中北山系の子孫・伊覇按司の分かれだといわれている。
伊波城主の伊波按司は幾人かの息子が出来、一人は安慶名グスクに配し、
安慶名大川按司を称したといわれている。

この按司の長男は同じ安慶名グスクに居城し、次男は屋良グスクに、
三男は具志川グスクに、四男は喜屋武グスクに配していたと伝わっている。
二代目、安慶名大川按司には四人の息子がいて、
長男はあとを継ぎ、次男は高根按司、三男は具志川按司、四男は久志若按司と称していた。
安慶名グスクは三代まで続き、廃城は首里王府軍に攻められたのか?
尚真王の中央集権によるものかは不詳である。
四代目は宜野座村惣慶へ移り、子孫は金武門中ともいう。

安慶名城跡には、グスク嶽 ( 神名・クニヅカサの御イベ ) がある。




沖縄県多良間島   「 嶺間御嶽と大アカギ 」

2013-05-09 04:52:34 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



多良間島 「 嶺間御嶽 」







嶺間御嶽にある 「 大アカギ 」








大アカギの根元







大アカギの説明板







嶺間公民館






公民館の中で食事の準備をしている 「 おば~ 」










嶺間御嶽の神木として御嶽の入口に生える大アカギは、沖縄名木100選に選ばれている。
御嶽は 「 嶺間按司 」 を祭神とするが、
この按司は1480年代の人で、現在あるアカギは御嶽建立の後に植栽されたものとされ、
推定樹齢500年とも言われている。
生育地が道路整備の対象となっていたが、長年地域住民から神木として扱われてきたため、
一部は道路に入り込んでいるが、現況が保たれている



沖縄県宮古島市川満   「 喜佐真御嶽 」

2013-05-03 06:23:28 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所











殿の手前にある拝所













御嶽へ続く道




喜佐真御嶽は、下地の川満集落から南東に約200mにあって、
『 宮古島御嶽 ( うたき ) 由来記』 ( 1707年 )
および 『 琉球国由来記 』 ( 1713年 ) に記録されている由緒ある御嶽である。
祭神を真種子若按司といい、浦島の神であるとされている。
拝所は石垣で囲まれ、100平方メートル余の庭と石段と籠(こも)り家(や)、およびムトゥなどがある。
拝所内の樹木の伐採、および男性の出入りは、旧暦6月のヤマアキ(山明け)以外は禁じられている。
この御嶽で行われる祭祀は、川満の神役による旧暦2月と10月の「世乞い」、
旧暦2月と11月の「籠り御願」などがあり、行事には神女たちは二、三泊して祈願する。
拝殿の前庭で “ アヤグ ” を謡い踊る。

15世紀後葉、若按司の持つ宝玉を川満村の首長の娘モリマラが横取りしようと、
侍女たちに若按司を拷問させた。
徳高い下地村の首長の川満大殿(うーどぅん)は、真種から宝玉の隠し場所を聞き、
ぐったりなった真種を喜佐真の丘に埋葬した。
宝玉は川満が宮古島の仲宗根豊見親に贈り、仲宗根は尚 真王に献上したという。



沖縄県北中城村  「 仲順大主 ( ちゅんじゅんうふぬし ) の墓 」

2013-04-30 06:09:21 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



仲順大主 ( ちゅんじゅんうふぬし ) の墓







仲順大主の墓の入り口







墓の前に広がる風景











仲順集落の北側はずれの十字路を屋宜原に向かう道と、
反対方向へ約70m進んだ所に琉球石灰岩の岩山がわずかに残っている。
この岩山の北側の岩根を掘り込んで造られた墓が仲順大主の墓である。
仲順大主は、仲順村の創建者といわれる。
1259年に英祖に王位を譲り、放浪していた義本王をかくまったとの伝承があることから
13世紀中葉の頃の人物だと考えられる。
エイサー曲で有名な 「 仲順流り 」 も仲順大主にまつわる伝承が念仏歌になっている。
元は 「 長者流れ 」 と称していたようで、発音が似ているので、
仲順大主のことだと言うようになったなったと思われる。
歌劇 「 仲順流り 」 では三人の息子が登場するが、実際の仲順大主には子どもが居なかったようである。
また、隣村の喜舎場公とは同年代の人で、お互い協力して義本王をかくまったとしている。

仲順大主の位牌は花崎家に祀られていたが、明治末期に中之安里家に移り、
1952年ごろ 「 根殿の宮 」 に舜天王・義本王と一緒に合祀されている。



沖縄県宮古島市   「 赤名宮 ( あかなぐう ) 」

2013-04-21 06:31:25 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所







この御嶽の御祭神は御栄加主 ( うえかぬす ) と称し、
公的な事業・官職栄達の道を司り、成就隆盛隆昌の途を拓き給う霊感あらたかな神様である。

子方母天太神が養育した12方の神々は、それぞれの方角の神になったよいう神話伝説。
池間島の大主御嶽に祭られ人命を守り給う尊い神様を初めとし、
赤崎御嶽 ( 大世の主 ) は農耕万穀を掌り給い、
平良の阿津真間御嶽 ( 蒲戸金主 ) は総ての人事諸事の記帳を掌り、
西里添のピマル御嶽 ( 美真瑠主 ) 産児出産を掌る兄弟の神々であるが、
その他の神様は詳かでないと宮古史伝に記してある。

現在の神殿は1965年5月20日改築、さらに鳥居と他一部が昭和61年に改築され、
宮古島の住民より厚く信仰されている。


所在地 : 宮古島市下地町上地




沖縄県宮古島市 ・ 川満 『 ヌース°マー御嶽 』

2013-04-16 06:06:48 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所














国道390号線をウプカー御嶽から上地方面へ約50mほど進んだ左手前方に
クワノハエノキを中心にこんもり茂った雑木林の丘が目に付く。
そこが目指す 「 ヌース°マー御嶽 」 である。
言い伝えによれば、その昔、宮古に大津波があった時、
この丘だけ波に飲まれることなく取り残され津波の被害がなかった。
そのため村人の崇めるところとなり、 「 ヌース°マー御嶽 」 と名づけられたという。
ちなみに、ヌース°とは、川満の方言で 「 上る 」 あるいは 「 乗る、登る 」 の意味を持ち、
マーはマース ( 塩 ) が訛ったものと考えると、漏れや残りの意味を持ち、
「 ヌース°マー 」 は、 「 ヌース°マース 」 ( 乗り残し ) に由来すると考えられる。


ただ、ここで単純な疑問だが、 「 スに¨ 」 は 「 ず 」になるが、
「 スに゜ 」 になると、どんな発音になるのだろうか?
なんとなく 「 プ 」 と読んでしまいそうな 「 ス゜ 」 である。



沖縄県宮古島市 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 尻間御嶽 」

2013-04-06 05:25:53 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



尻間御嶽の拝所








尻間御嶽の全景





平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


尻間御嶽は宮古島市役所に隣接する住屋遺跡の東側に所在する御嶽である。
祭神は、男神 「 ちやくむ金大世主豊見親 」 、フデの神様 ( 学問の神様 ) である。

『 薙正旧記 』 には、この御嶽について、次の様な記述がある。
昔、下里村住屋という所に 「 こいとの 」 という人がいた。
この人は年頃になっても子供がなかったので悲歎にくれていたが、
神仏に祈願したかいあって、間もなく女子一人生まれたので、名を 「 まんなふ 」 とつけて寵愛した。
ところがこの子が七歳の時に母が死んだので、 「 こいとの 」 は是非なく、継妻をむかえた。
この母が悪心の者で、何とかして 「 まんなふ 」 を亡き者にせんと計り、
或日、父が他所へ行った時を見はからい、 「 まんなふ 」 を誘い出し、尻間山のあぶに投げ入れたが、
ちょうどあぶの中にはかづらが生い繁っていたので底まで落ちず 「 まんなふ 」 は、かづらにすがって
七日七夜泣き叫んでいた。

その時、あぶの上に天神が天降りになって 「 まんなふ 」 を抱きとり、雲の上に昇天した。
その後、しばらくして、天神は 「 まんなふ 」 を伴なって再び下界に姿を現し、
下界の者共、親類不和をいたし先祖祭を怠る者は神剣を以てこれを罰せんと御戒めになり、
かき消すように上天した。
その後、人々は 「 まんなふ 」 を神つかさに立て、神事を行うようになり、
尻間山は天神跡を垂れ給う所として御嶽をたて祭るようになった。
尚この御嶽は尻間里の里御嶽としても、今尚あつく信仰されている。
又、受験の時等に各地から拝みにくるといわれる。

所在地 : 宮古島市平良 西里




沖縄県南城市玉城   「 尚 布里 ( しょうふり ) 王子の墓 」

2013-04-03 06:54:20 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



「 尚 布里の墓 」










動画と写真は、南城市玉城地区にある琉球を統一した尚巴志の六男の尚布里の墓である。

1453年、尚 金福王が亡くなり、世子の尚 志魯 ( しょう しろ ) が王位を継ごうとした。
その時、江洲グスクから尚 金福王の弟・尚 布里が駆けつけて来て、王位承継争いになった。
やがて首里城内は敵味方に分かれて斬り合いとなった。
この争いで 「 倉庫が焼け、明皇帝からの王印が焼失し、両人は戦死した 」 と、
『 中山世鑑 』 や 『 球陽 』 には書かれているが、尚 布里は城外に逃れたといわれている。
その子孫の上江洲門中に位牌があり、位牌の底には大里 ( 越来 ) ・富名腰・伊平屋・志堅原など、
逃走経路が記されてあったという。
また、越来間切大里村の登川親雲上の娘・真佳度金 ( まかとがに ) を妻にしたといわれている。

同門中では、1963年に墓を調査し、甕の蓋に天順八年(1464年)58歳と書かれてあるという。
死亡年齢から推し量ると、王位争いの時は47歳で、この年に真佳度金と結婚したのか、
それ以前なのか、それとも真佳度金は後妻なのか判然としないが、
尚 布里は王位につくことなく58歳で亡くなり妻とともに今もここで眠っている。


所在地 : 南城市玉城當山


沖縄県宮古島市 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 仲屋マブリナ御嶽 」

2013-04-02 08:15:08 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



仲屋マブリナ御嶽








狭い路地の奥に御嶽がある





仲屋マブリナ御嶽は、仲宗根豊見親の嫡子・仲屋金盛豊見親の一人娘マブリナを祀った御嶽である。
マブリナの父、仲屋金盛は仲宗根豊見親の亡きあと家督を継いだが、
1532年ごろ、家臣を信じて城辺友利の罪なき金志川那喜多津豊見親を謀殺し、
王府からその罪に問われて自害した。
その娘マブリナは、父の罪を背負い 「 おやけこ ( 人質? ) 」 として王府に召し使われる身となった。
中山王の寵愛を受けて懐妊するが、これに周囲の女官たちが激しく嫉妬し、
マブリナはその嫉妬に堪えかね、暇を給って郷里の宮古に帰ることになった。
しかし宮古に向かう途中、船は航路を誤って多良間島の外干瀬に座礁難破。
マブリナは波に流されて多良間島の浜に打ち上げられ息を引き取った。
暫らくして浜を通りかかったヤラブタテヨノシという男がマブリナの亡骸を見つけ、
人々を集めて 「 ふたつ瀬 」 とうところに丁寧に葬ったという。


所在地 : 宮古島市平良 東仲宗根



沖縄県北中城村   「 中城若松 ( なかぐすくわかまつ ) の墓 」

2013-03-27 00:04:17 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



中城若松の墓







若松公園の入り口に立つ 「 若松の像 」








切り石に囲まれた墓庭と墓







墓の横に立つ墓標







火ノ神 ( ヒヌカン ) の拝所から見た墓







墓標の横にある若松の説明







若松の墓の裏側にある 「 妻と母の墓 」







墓の奥にある拝所 「 火ノ神 ( ヒヌカン ) 」







火ヌ神からの眺望 ( 米軍施設 ・ キャンプテラスハイツ喜舎場 )












中城若松は、安谷屋 ( あだにや ) の若松ともいい、
玉城朝薫作の組踊 「 執心鐘入 」 ( 1719年 ) の主人公のモデルとなった人物といわれる。
また、中城若松は尚円王 ( 金丸 ) と安谷屋ノロとの間に生まれた子どもともいわれ、
若松が誕生した屋敷は安谷屋グスクの北側の安里原だという。
安谷屋若松は首里王府の小赤頭 ( 給仕役 ) を勤め、母の実家である安谷屋村から通っていた。
稀にみる美少年であるため、首里へ通う彼を見ようと乙女たちは胸をときめかせていたという。

おもろに 「 あはれ ( 立派な ) 若松、肝あぐみ ( 愛されている ) の若松 」 と謡われている。


父が王位に就いてから、若松は安谷屋城主となり、安谷屋按司となった。
その後、異母兄弟の尚真が王位に即位して、 「 中央集権 」 により首里に上り、
上間村( 現在の那覇市上間 ) の地頭職に就き、上間親方を名乗った。
彼は、 「 章氏 」 の始祖となったといわれる。

上間で亡くなったが、死後、遺言により故郷の安谷屋に葬られたと伝えられる。
墓は、安谷屋グスク西方の丘陵の通称ユナハン ( 与那覇 ) にある。
墓口は、岩の頂上付近にあり、岩の前に切石を積んで囲んだ墓庭がある。
また、若松の墓の裏側の岩陰墓には、若松の妻と母の墓がある。




平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 仲屋金盛ミャーカ 」

2013-03-25 00:05:55 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所













平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


このミャーカは、16世紀初期に宮古の支配者として君臨した仲宗根豊見親の嫡子の
仲屋金盛豊見親を葬った墳墓である。
仲宗根豊見親の亡き後、その家督は嫡子の仲屋金盛に継がれた。
この頃、城辺の友利には金志川那喜多津豊見親が城辺の首領として施政を委ねられていた。
那喜多津は農事を奨励し、神仏を尊敬して祭祀を興すなど仁政を施したので、
領民から篤い人望を得ていた。
仲屋金盛の家臣に仲屋勢頭というという者がいて、那喜多津の勢力が日々強まるのを危惧し、
将来、中曽根家を脅かす存在になると金盛に讒言 ( ざんげん ) した。
那喜多津の名声を好ましく思わぬ金盛は、この讒言を受けて1532年に野原岳に酒宴を張って、
那喜多津を招き、宴たけなわに及ぶ頃、大勢の伏兵を動かし謀計を以って那喜多津を討った。

この 「 野原岳の変 」 は、やがて琉球王府に知れ渡り、金盛を究明する使者が宮古に派遣された。
金盛は王府の責めにあい、前非を悔いて後悔すれども遂に及ばず、
家臣の仲屋勢頭を斬り捨て、自身も自刃し果てた。

『忠導氏仲宗根家家系図家譜』は、この事について 「 金盛・不届きに付き家督を継がず 」 と記している。
以後、豊見親の称号は廃止されたが、王府においても仲宗根豊見親の功績が考慮され、
豊見親の末子・うまのこ ( 玄屯 ) が平良の頭職に任ぜられた。

所在地 : 宮古島市平良 東仲宗根





沖縄県読谷村  ・  おもろ歌唱者終焉の地 「 赤犬子宮 ( アカヌクー ) 」

2013-03-23 07:11:49 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



おもろ歌唱者終焉の地 「 赤犬子宮 」






























赤犬子 ( あかいんこ )

昔、読谷山間切楚辺村の 《 屋嘉 》 に、チラーという大変美しい娘がいた。
その娘には大変可愛がっている赤犬がいた。
ある年、長い早魃が続き村の井戸はすべて枯れ果てて、村人は大変困っていた。

そんなある日、赤犬が全身ずぶ濡れになって戻ってきた。
赤犬はチラーの前で吠え立てて、着物の裾を口でくわえて引っ張って行った。
この日照りに犬がずぶ濡れになってくるのはおかしいと思ったチラーは、さっそく後について行くと、
その赤犬は南側の洞窟に入って行った。
しばらくすると、赤犬は再びずぶ濡れになって戻ってきたので、
びっくりしたチラーは急いで家に戻り、そのことをみんなに話した。
それから洞窟の中に水があることが分かり、早魃をしのぐことができた。
これが暗川発見の由来である。

それ以前は楚辺は水不足のためにミーハガーが多かった。
しかし、赤犬が暗川を発見してからは、楚辺にはミーハガーはいなくなってしまった。


又、この美しいチラーは、村中の若者の憧れの的であったが、
チラーの心を見事に射止めたのは、 《 大屋 》 のカマーであった。
ところが二人の幸せそうな様子を妬んだ村のある若者が、嫉妬のあまりカマーを殺してしまった。
チラーは愛するカマーを失った悲しさのあまり、毎日泣いて暮らしていた。
そんなチラーの悲しい心を慰めてくれたのが、以前から可愛がっていた赤犬であった。

カマーを殺した若者は、チラーが暗川へ水汲みに行くことを知っていた。
かねてから機会を狙っていた若者は、ある日、暗川に先回りして、チラーがくるのを待ち構えていた。
何も知らないチラーは、暗川の入り口付近までさしかかった時に、
急に気分が悪くなり、その場に座り込んでしまった。
そこへたまたま通りかかったのが若者の妹であった。
そこに座り込んでいるチラーを見て、いたわって家に帰し、代わりに自分が暗川へ水汲みに行った。

なかで待ち構えていた若者は、入ってきた女をてっきりチラーだと思い、無理矢理に犯してしまった。
やがて外に出て見ると、なんと二人は兄妹であることに気付いた。
恥ずかしさと恐ろしさのあまりに、その兄妹はその場で自害してしまった。

その頃、チラーはカマーの子を身ごもっていた。
しかし、カマーは親が決めた縁談でもないし、今はすでに亡き人である。
身ごもっているとはおかしい、赤犬の子を身ごもってしまったんでは、という噂がたちまち村中に広まった。
そして、とうとう村にいることもできずに、チラーは行方をくらましてしまった。

その後、何ヵ年か後に両親は、チラーが伊計島にわたっているという噂を耳にして、娘を訪ねて行った。
しかし、両親に逢うことを恥じたチラーは、男の子を残したまま自害してしまった。
両親は悲しみながら、我が娘をその地に葬って、男の子は一緒に楚辺村に連れ帰った。
この子が後の赤犬子である。

成人した赤犬子は、ポタボタと雨の落ちる音を聞いてひらめき、
クバの葉柄で棹を作り、馬の尾を弦にして、三線を考え出した。
その後赤犬子は三線を弾きながら、歌をうたって村々を旅するのであった。

その旅の途中、北谷村にさしかかった時に、喉が乾いたので、水を乞うためにある農家に立ち寄った。
するとそこには4歳くらいの子どもがいた。
「 おまえのお父さんは何処に行ったかごと尋ねると、 「 ユンヌミ取りに。 」 と答えた。
今度は 「 おまえのお母さんは何処に行ったか。 」 と尋ねると、
「 冬青草 夏立枯かりに。 」 と答えた。

ところがさすがの赤犬子も意味が分からずに、どういうことかと尋ねたら、
「 お父さんは松明り ( トゥブシ ) 取りに。 」 、 「 お母さんは麦刈りに 」 と答えた。
すっかり感心した赤犬子は、再びその農家を訪ねて両親に、
「 あなた方の子は、普通の人より特に優れた知能を持っているから将来は坊主にしてやれ。 」 と
言い残して去って行った。
この子が後の 「 北谷長老 」 であったという。

それから赤犬子が中城の安谷屋を旅している時に、大変喉が渇いた。
近くを通りがかった子どもに、 「 大根をくれ 」 と言うと、
持っていた大根の葉っぱも取り、皮も剥いで、食べやすいように切って赤犬子に渡した。
「 この子どもはきっと偉い人になるだろう。 」 と言ったら、その子どもは後の中城若松になった。

又、国頭方面を旅している時に、恩納村瀬良垣にさしかかった。
その時におなかがすいていたので、海辺で船普請をしている船大工に物乞いをしたところ、
むげに断わられてしまった。
それで瀬良垣の船を、 「 瀬良垣水船 」 と名付けた。

その足で谷茶に向い、そこでも同じように物乞いをした。
するそこの船大工は、丁寧にもてなしてくれた。
それで谷茶の船を、 「 谷茶速船 」 と名付けた。
その後、赤犬子が予言した通りに、瀬良垣の船は沈んでしまい、谷茶の船は爽快に水を切って走った。

そのことに大変怒ってしまった瀬良垣の船大工たちは、赤犬子を殺そうと後を追ってきた。
そこで現在の赤犬子宮のある場所に追い詰められた赤犬子は、そこの岩に杖を立てて昇天してしまった。

又、赤犬子はその他に唐から麦・豆・粟・ニービラなどを持ち帰り、それを沖縄中に広めた。
赤犬子が嘉手納を歩いている時に、道も悪く疲れていたので転んでニーピラを落としてしまった。
それで赤犬子は、 「 この土地にはニ-ピラは生えるな。 」 と言ったので、
嘉手納にはニ-ピラは生えなくなったということである。

また、赤犬子は三線歌謡の創始者と伝えられるが、おもろには三線は出て来ないので疑問である。
琉歌の 「 歌と三味線の昔始まりや犬子音あがりの神の御作 」 というのは後世の作詞である。

楚辺では、昔から赤犬子を琉球古典音楽の始祖、或いは五穀豊穣の神として奉り、
毎年9月20日には、 「 赤犬子スーギ 」  として盛大に執り行っている。




平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 外間御嶽 ( ぶかまうたき ) 」

2013-03-20 07:04:00 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所







平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


祭神
男神・根間大按司、その子の根間の角かわら、目黒盛、その子真角与那覇、その子普佐盛。

雍正旧記には、14世紀から15世紀にかけての一系の人物、根間大按司、その子根間の角かわら、と記し、
その子目黒盛、その子真角与那盤、その子普佐盛の合わせて五人の墓所だった所で、
普佐盛の弟、伊かりによって御嶽に仕立てられたものと伝わる。

此の御嶽には皷祢里 ( コネイリ ) 祭が行なわれていた。
その由来は祢間伊かり ( 根間伊嘉利 ) が竜宮から伝授されたというもので、
1727年の 『 雍正旧記 』 に記事がある。
「中古迄は行なわれた」とあるが、これは王府への気兼ねからの表現で、
近世までも行なわれたという見方もある。

伊かりは父の死後、その墓所で庵 ( いおり ) を作り泣き暮らしていたが、
その孝心が天に通じたのか、漲水の天川崎という所に父が蘇生したという夢を見て
その地に行ったところ水際に髪毛之筋長さ七、八尺のものがあり、
余りに長いので不思議に思っていたら何処からともなく美女が一人あらわれ、
夜部 ( ゆうべ ) 此所でかもじ ( 添え髪 ) を落としたが、
もしや拾われたのなら返してくれと言うので渡してやると美人は海に飛びこみ姿を消す。
伊かりは余りに不審に思えたので翌朝もその天川崎へ行く、
美人はまたも姿をあらわし、弁明して言うことには、
そなたの孝心の心があついのは竜宮界でもよくわかっているので、
竜宮界では孝行の祭りを授けようということになり、
竜宮の使いでわたしがやってきたとのこと、
それはありがたいというので一緒に海中に沈んだが、
気がついてみると金銀をちりばめた宮殿に着いていて、
様々なもてなしをうけ、そこで漲祢いりの祭を授かり、
「 此の祭を十三年廻りに一度九月のうちに先祖所で祭ったならば、
天地之願御加護、先祖の霊神は上天し、島は豊かになり、
子孫は繁盛するから、怠ることがないようにせよ 」 との教えがあった。
礼拝をしていとまごいをしたところ、すぐに先の女の導きがあり、
夢のような気分のうちに天川崎に戻っていた。

竜宮界では三日 ( 三月 ) と思ったが此の世では三年がたっていた。
生き返った気持で帰宅し、一門そろつて歓び″伝え受けた通り、
根所において神人数は二十五人、そのうち伊かりは真中の台の上で西方に向い、
白ばしの烏 ( ワシ ) の尾羽一尺以上のものを貫き列ねたのを冠にし、
白衣を着け、名蔵双紙を唱えたら、二十四人の者共は庭鳥の尾羽を貫きつられたものを冠にし、
紺朝を着けて伊かりを立囲み、伊かりの詞を受けて
節毎に拍子を揃えて皷 ( つづみ ) を打つ十三日祭を始めた。
それをついで、中古までは祭が行なわれていた。
なお白ばしの烏の尾羽は、祭の年期になると必ず当島の北方にある白川浜に寄せてきたという
言い伝えであるという。

1748年の旧記の 『 宮古島記事仕次 』 、 『 根馬氏家譜正統 』 にもある話である。
竜宮から先祖祭の方式皷祢り ( コネイリ ) 祭を授ってきた伊かりは墓所を因って草木を植え御嶽を立て、
その前での皷祢りをはじめ、それが、その後うけつがれたということだが、
実際いつまで行なわれたかは、明らかではない。
今は行われてはいない。


所在地 : 宮古島市平良 東仲宗根



沖縄県南城市  「 奥武島観音堂 ( おうじまかんのんどう ) 」

2013-03-19 06:27:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所












奥武島観音堂は、1687年に蘇州の商船が浜比嘉島に漂着し、
久米村の鄭 弘良が引率して奥武島へ連れて来た。
そのとき、島民が世話をした御礼に堂を建てたものである。
本尊は仮に板に書いて奉安した。
船の修理も終わって翌春帰国した。
同船の乗員とおぼしい人が、たまたま中国に来ていた久米村の砂辺に観音像を依託した。
しかし砂辺はその意味が解らず、帰郷して久米村の東禅寺に仮安置しておいた。
それから30年余り経った1726年に、天王寺の徳叟宗智がこれを開き、奥武島に遷座された。
徳叟和尚は円覚寺の住職となり、1730年74歳で死去した。

観音堂は1753年に再興し、円覚寺の堪玄和尚が撰文した。
年月が経って堂は荒廃したので1812年、玉城按司朝昆、玉城親方盛林、
奥武村地頭代の大屋仲栄真親雲上らが堂を再建し、祭祀は大屋バラが務めた。
当時、観音像は金箔だったといわれ、沖縄戦で米兵が持ち去っており、
現在の像は昭和37年に陶製の物を安置したもので、
堂は昭和40年に再建されたものである。