「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県国頭村辺戸 「 義本王の墓 」

2012-11-23 00:04:22 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所











墓の入り口にある墓碑銘





義本王の墓は、国道58号線の辺戸集落の近くの、
国道から右に階段を上った場所にある。

義本王とは沖縄最初の実在王統舜天の孫に当たる人物で、
1249~1259年に在位した王である。
1950年代、うち続く日照りで農作物が取れず、飲み水はなく、
伝染病が流行って琉球の国民の半数が死亡した。
これは人の上に立つ義本王に徳がないから天災が起きたのだと思われ、
有徳者に王位を譲って引退することにした。
群臣は、伊祖グスクの英祖は徳があると推挙した。
英祖が政治を行うと疫病は止み、民は豊になった。

それで義本王は王位を譲って隠れ、行方は知れないという。
これは中国の禅譲 ( 王が高徳の人に位を譲る ) を模しているが、
実際は権力者の英祖が追放したとも言われている。
義本は沖縄最北端まで落ち延びて逝去したのか?
それともこの墓は偽装だったのか?は、定かではない。
辺戸の谷川は大川 ( 神名 ・ 「 アフリ川 」 ) と呼ばれ、
王府は稲穂祭と年末に若水を汲みに来た。
公民館裏の 「 タハンナ丘 」 に辺戸の男全員が旧暦5月15日に悪疫退散を祈願する。
石灯篭や石香炉の他に、梵字 「 ア沙門太演 」 の石碑がある。
沙門は僧の意で、臨済宗妙心寺派の大演宗興と思われる。

現在はこの辺戸にあるのが義本王の墓だとして伝わるが、 「 国頭村史 」 によると、
義本王の墓と伝わるのはこの辺戸以外にも伊地・佐手・中城村仲順と4つあり、
また喜界島へ隠れたという伝説もあるという。
「 国頭村史 」 によると、佐手はテイチバーと呼ばれ、近年調査がされたが、
名だたる者の墓と推測される物は発見されなかったという。

この辺戸の墓も明治初年に尚家が作らせたもので、
現在ここを管理するのは義本王と縁があると言われる佐久真家だという。
いずれにせよ、これらの伝承・記述からは遺骨が発見されているわけでもなく、
義本王縁の地に関係者が後世になって作ったというだけの話のようである。




沖縄県読谷村  「 今帰仁城主の墓 」

2012-11-11 00:30:26 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所

















按司墓の先に洞穴がある







墓の近くにもこのようなノロ墓のようなものがある






守人の墓か?ここにも墓がある





今帰仁城主の墓は、嘉手納町の水釜から比謝大橋を渡り、
すぐ左側の道路をまっすぐに行って左折すると泊グスク公園に至る。
そこに今帰仁城主の墓と書かれた標識があり、
崖の裏側を回ると奥まった岩陰にセメントで塞いだ墓がある。

崖下は比謝川河口の北岸で、ここは別名クマイグスクと呼ばれており、
今帰仁按司の身内がこもっていたからという。
羽地按司が今帰仁城を攻略し、今帰仁按司の家族は先祖の遺骨を持って、
舟で比謝に落ち延びたという口碑がある。
だとすると、遺骨を比謝川南岸の崖に埋葬した身内が、
北岸の岩穴に隠れ住んで墓守をしたものと推測される。
そして周りのある墓は、当地で死んだ守人の墓であろうか?
この墓はシーミー ( 清明祭 ) の時にゆかりの人たちが拝んでいる。

この丘の東の20mほど行ったところに「アビラウンケン」の梵字石碑がある。
大日如来の証った真理を表微する真言とされる。
建立者や建立年代は不明で、字の拝所として旧暦の9月に拝んでいるが、
日頃でも若い女性が御願 ( うがん ) のため拝みに来ている。



沖縄県読谷村古堅  「 阿麻和利 ( あまわり ) の墓 」

2012-10-15 22:59:33 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



ブロックでふさがれた阿麻和利の墓








「 阿麻和利之墓 」 と書かれたセメントの墓碑
















墓全体を覆っているムイ ( 森 )






阿麻和利の墓は、読谷村古堅小学校の北50mの場所にあり、
キビ畑の後方に岩がある。
岩陰墓で墓口はブロックで塞いである。
これは昭和38年に縁続きの人が整備したものである。

阿麻和利は、北谷間切屋良村の百姓の子といわれたり、
屋良按司と今帰仁グスクの王女との間に生まれた子といわれたり、
屋良按司と屋良の林堂家の娘との子だといわれているが、
誕生譚はさまざまである。
位牌は林堂家の裏座に密かに祀られていたという。

昭和38年に林堂家一門が宗祖屋良按司と阿麻和利を合祀した小祠を屋良に建てた。
王府軍に勝連グスクを攻め落とされた阿麻和利は、読谷村の楚辺まで逃げてそこで討たれ、
亡骸は岩陰に捨てられたという説と、
勝連グスク内で鬼大城に首を討ち取られたという説があるが、どちらがどうかは定かではない。



沖縄県南城市玉城  「 百十踏揚と三津葉多武喜の墓 」

2012-09-02 09:21:49 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



尚 泰久王の長女・百十踏揚 ( ももと ふみあがり ) の墓









尚 泰久王の次男・三津葉多武喜 ( みつばたぶき ) の墓









墓所には三津葉多武喜と百十踏揚の墓が並んである







墓の上にある路標



百十踏揚と三津葉多武喜の墓は、南城市役所 ( 旧・玉城役場 ) の近くにある。
南城市玉城町の国民運動場の上にムンザナ墓とよばれる古墓が各所にあり、
そのムンザナ墓には、尚 円革命のときに戦死した武将たちの骨が安置されている。
その近くの岩陰に百十踏揚と三津葉多武喜の墓が並んである。
階段の上には 「 百十踏揚按司の墓 」 と書かれた路標が立っている。


百十踏揚 ( ももとふみあがり ) にまつわる人物

百十踏揚の父親は尚 泰久であり、母親は護佐丸の娘である。
阿麻和利は前夫で、護佐丸は祖父にあたる。
祖父の護佐丸は前夫の阿麻和利に滅ぼされ、父の尚 泰久は前夫の阿麻和利を滅ぼしたのである。
そして、二度目に嫁いだ鬼 大城も新王朝 ( 尚 円 ) に滅ぼされてしまう。
踏揚は、鬼 大城が尚 円王軍に知花で討たれたため、兄弟のいる玉城村当山に頼って行き、
晩年は島尻の玉城村で過ごし、その生涯を閉じた。
王女、百十踏揚は絶世の美女だったが、その生き様は薄幸の生涯だったのかもしれない。


三津葉多武喜( 仲栄真門中 ) は、尚 泰久王の次男である。
長男の安次富金橋( 屋良門中 ) 、四男の八幡加那志 ( 大仲栄真門中 ) らと、
三男の尚 徳王とは腹違いの兄弟で、継母にいじめられたため、
兄弟たちは玉城村に都落ちしたという。


護佐丸・阿麻和利 ( ごさまる・あまわり ) の乱

14世紀から15世紀の琉球は、
中山・北山・南山の三つのグスクを拠点に按司が支配していた。
その中で特に強い勢力を誇り、1429年に三山を統一したのが
中山の尚 巴志(しょうはし)であった。
その尚 巴志に従い、三山統一に功績を残した人物が護佐丸である。
護佐丸は恩納村の山田城主であったが、尚 巴志が北山を滅ぼした後、
山田城を取り壊した石材を使って読谷に座喜味城を築き、
後に中城城へ移るまでの18年間を居城として過している。

一方、三山統一後に海外貿易の富で力を付けたのは、勝連城の阿麻和利であった。
その阿麻和利に対抗し王都首里を守るため、
護佐丸は首里城と勝連城との中間に位置する中城城に拠点を移し、中部一帯の守りを固めた。

尚 巴志の死後、琉球は国王の在位年数が短かったため国の基盤が安定せず、
首里城内でも王位継承の争いが起こるなど不安定な状態が続いた。
こうした王国情勢のなか、阿麻和利の勢力は尚 泰久にとっては恐ろしい存在だったため、
泰久は娘である百十踏揚と阿麻和利を攻略結婚をさせるほどであった。
また、尚 泰久の妻は護佐丸の娘であるため、百十踏揚は護佐丸にとって孫にあたった。

琉球の王位を望めるほど力をつけた阿麻和利は、中城城の護佐丸の存在を疎ましく思っていた。
1458年に一計を案じた阿麻和利は、
中城城の護佐丸が軍兵を集めて謀反の動きがあると国王へ訴え、
それを聞いた泰久は、護佐丸を倒すために阿麻和利を総大将に命じて軍隊を中城城へ派遣した。

その結果、護佐丸は阿麻和利の率いる王府軍に中城城を攻められ、
無実の罪を着せられて自害してしまう。
一方この戦いに勝利した阿麻和利は、王位を奪うための準備をしている最中に、
百十踏揚の家来である鬼 大城 ( うにうふぐすく ) にその策略を気付かれ、
逆に王府軍との戦になる。


鬼 大城 ( うにうふぐすく ) の活躍と最期

王府軍との戦いで首里城攻めに失敗し、
命かながら勝連城に逃げ帰った阿麻和利への鬼 大城を総大将とした攻撃も
なかなか勝敗が決まらず長引いていた。
そこで勝連城内の地理に詳しい鬼 大城自ら城内へ忍び込んで行き、
阿麻和利の首を討ち取ったという。
その活躍により尚 泰久から越来(ごえく)と具志川の両間切りの地頭に命じられた。
また、百十踏揚を妻に迎え、越来城を賜った。(一説には勝連城を賜ったとも言われている)

鬼 大城の死については諸説があるが、
1469年内間金丸(うちまかなまる)がクーデターを起こし、
尚 泰久の子である尚 徳王を滅ぼした。
第一尚氏王統の縁故者である鬼 大城の越来城も攻められ、
鬼 大城は越来城を逃れ知花城に立てこもっていたところを火攻めで焼き殺された。
一説には ( そこで自害した。 )
鬼 大城の墓は、知花グスクの裏の岩陰にあり、鬼にちなんで槍が置かれてある。

鬼 大城 ( うにうふぐすく ) について

名前  大城賢勇 ( うふぐすくけんゆう )
唐名  夏居数   ( かきょすう )
喜屋武城主の栄野比大屋子の長男、1454~1460年に尚泰久に仕えていた。

鬼大城の由来
「 鬼 」とは超人の意の表れであり、武勇に優れ、
強かったことから「 鬼 」と呼ばれるようになった。  







今年の1月5日に那覇の 「 パレットくもじ 」 で行なわれた
Teamシンカヌチャーによる現代版組踊 「 百十踏揚 ~ 第一尚氏ヒロイン 」 を観た。
阿麻和利の組踊 「 肝高の阿麻和利 」 は、あまわり浪漫の会の福岡公演を博多で観たことがあるが、
どちらの組踊も、討った鬼 大城と討たれた阿麻和利が、仲良く百十踏揚を見守るという
歴史上ではありえない?のストーリーになっていた。
それ以外は感動させる劇であった。





沖縄県南城市  「 ヤハラヅカサ と 浜川御嶽 ( はまがーうたき ) 」

2012-07-29 10:50:46 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所







南城市玉城町百名にある百名(ひゃくな)ビーチの北端の海中に
琉球石灰岩で出来た柱をヤハラヅカサと呼んでいる。
干潮になると露出するが、満潮時には上部しか見えず、
その時は海中にある柱に向って遥拝する。
神名は、 「 ヤハラヅカツノ御イベ 」 と称する。

ヤハラヅカサは、沖縄の開闢の始祖といわれるアマミキヨ族が
ニライカナイ ( 理想郷 ) または、大東 ( うふあがり ) から上陸した場所であり、
船を着けた場所がヤハラヅカサの岩だと伝えられている。
したがってここはニライカナイや大東への遥拝所でもある。
ニライカナイとは理想郷を想定したものであるが、
具体的に久高島を指す人も多い。

ヤハラとは 「 穏やかな 」 とか、 「 和らぎ 」 の意味から
神の心を和らげる願いではないかと思われる。











浜川御嶽の写真は、参拝者が御願 ( うがみ ) を行なっていたので控えたため
写真はないが、御嶽にある説明板だけ撮らせてもらった。

浜川御嶽 ( はまがーうたき ) は、ヤハラヅカサの向かいの海岸にあり、
崖下にコンクリート造りの殿 ( どぅん ) がある。
イビは奥の方で、洞穴があるらしい。
浜川 ( はまがー ) とは、 「 浜辺にある泉 」 という意味で、
湧き水が溢れているといわれている。
神名は、 「 ヤハラヅカサ潮バナツカサノ御イベ 」 という。
潮バナは、潮の端にある拝所という意味か?
それとも潮花 ( 波しぶきが飛び散る様子 ) に神霊を感じて、
そう呼んだのかは定かではない。

アマミキヨはヤハラヅカサに上陸し、ミントングスクに定住するまで、
湧き水のある浜川の洞穴を仮住まいしていたという。
また、この場所は聞得大君 ( きこえおおきみ ) の首里の園比屋武御嶽から、
東御廻り ( あがりうまーい ) の拝所でもあった。
百名・中山の村人は旧暦1月、8月には 「 浜川御願 ( はまがーうがん )」 を行なっている。




沖縄県嘉手納町  「 屋良大川按司の墓 」

2012-07-04 14:28:16 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



屋良グスク下にある 「 屋良大川按司の墓 」






屋良県営団地の向かい側が 「 屋良城跡公園 」 の東北部にあたる。
その東北端の崖下に城主であった 「 屋良大川按司の墓 」 がある。
墓は岩穴に石を積んでふさいだかたちで造られており、
按司の神屋(かみやー)は、嘉手納給食センターの南側高台にあり、
伝道門中がウチマーに拝んでいる。

城跡の中ほどに屋良城ノ嶽 ( 神名 「 笑司ノ御イベ 」 ) があり、
おそらく屋良グスクの守護神であったのだと思われる。
今でもヌルや区役員が参拝している。

三山時代、北山グスクに対抗する中山連合軍の最前線基地は、
東に伊波グスク、西に山田グスク。
そして第二線基地は東の安慶名グスク、中央の知花グスク、
西の屋良グスクだったといわれている。

北山滅亡後、北山王の娘が読谷村古堅に逃れ、
屋良大川按司の二世あたりが知るところとなった。
人目を忍んで愛し合い、生まれた子が阿麻和利(あまわり)だという伝えがある。



鹿児島県喜界島 「 尚 徳王の墓 」

2012-05-03 20:35:42 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所


喜界島の志戸桶にある尚 徳王の墓





尚 徳王 ( しょう とくおう ) 、1441年 - 1469年は、
琉球王国の第一尚氏王統の第7代国王(在位1460年 - 1469年)。
第6代琉球国王であり、第一尚氏王統最後の国王である。
神号は八幡按司または世高王。

尚徳は、尚泰久王の第三王子として、1441年に生まれた。
父王の薨去後、妾腹でありながら長兄・安次富金橋王子を退けて、即位した。
金橋王子の母は王妃であったが、謀反の嫌疑をかけられた護佐丸の娘であったことから、
即位できなかったと見られている。
翌年には、明から冊封を受けた。

1466年に尚 徳王みずから二千の兵を率いて喜界島へ遠征し、琉球王国の領土に加えた。
国王自ら軍を率いて討伐に向かうのは、祖父・尚巴志王以来のことであった。
この遠征の強行などの政策によって傲慢にふるまい、重臣の信頼を次第に失ったのが、
死後の政変に繋がっていったとされる。
その同年に使節を足利義政に送った。
翌年、朝鮮にオウムや孔雀を贈った返礼として、方冊蔵経を贈られた。
他に天界寺を創建した。

尚 徳王が久高島行幸中に金丸(後の尚円王)のクーデターの報せを受け、
海に身を投じて死んだことになっているが、
一説には、喜界島の志戸桶に尚 徳王の墓があることから、
喜界島遠征の際に味方した家で余生を送ったとも言われている。

死後、金丸(後の尚円王)のクーデターにより第一尚氏一族の多くが追放、ないしは殺害された。



沖縄県南城市 「 安次富金橋の墓と位牌 」

2012-04-28 19:48:29 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所













尚 泰久王の長男、安次富金橋 ( あしとみかなはし ) は、
王位継承もならず、富里の当山に田舎下りしていた。
父・尚 泰久との折り合いも悪かったといわれている。
田舎下りした金橋は、当山の地に安次富グスクを築き、しばらくそこに居住していた。

古老の伝える話では、金橋は家族とともにグスクにのぼり、
天に向かって「供養の祈願」をしていたという。
「 私は長男でありながら何故に王位に就かなかったのか、
天の神の采配で裁いてください ( テインジ御願 ) 」 と言って、
方位十二支に向って五十三回手を合わせ供養の祈願をしたと言われている。

それなのに、尚 泰久王の墓も位牌も隣同士にあるのは、不自然に思えてならなかった。




沖縄県那覇市   「 崇元寺の石門 」

2012-04-23 22:33:07 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所


























































崇元寺の石門は、那覇市安里の県道29号線 ( 通称・又吉道路崇元寺通り ) 沿いにある。
アーチ門は、中央にある総門 ( 大型門 ) 3基と、左右の脇門2基の5基で形成されている。
石門は15世紀後期から16世紀中期のものとされ、
楕円曲線の石門アーチは規模大ならず、手法も簡単であるが、
その中央と左右の脇門の取り合わせが自然で、
相互の幅と長さ、幅員の権衡を得ている。
さらに、その輪郭の簡明にして要を得ている。
その線の少なくして無駄がなく、随所に美点が現れている。
一見、素朴のように見えるが、よく観れば豊富で高雅な門である。


崇元寺御嶽は、別名・遺鞭御嶽(イベンウタキ)と呼ばれており、
その由来は、泊村に住む安里大親清信 ( 子孫は毛氏永村家、名乗り頭は清 ) が、
安里橋の東を通るとき夕方になっていた。
そこへ白髪の老人が現れ、安里の林の中に導いた。
そこには美麗な建物があり、まるで神仏が住むように見えた。
不思議に思った安里は、ひそかに馬の鞭をその場に隠し、翌日行ってみた。
するとあの建物は跡形も無く、鞭だけが残っていた。

ある名月の夜、この地を歩いているとその老人に出会った。
老人は黄金を一個与え、 「 ここに家を建てるがよい 」 と言ってかき消えた。
安里は早速家を建て、竹を植えて垣根とした。

後に金丸 ( 尚 円 ) が即位し、この地に王廟(霊所)を立て、
そばに崇元寺ノ嶽 ( 神名 「 コバノミヤウレ御イベ 」 ) とした。
崇元寺は、舜天王以下諸王の位牌を祭ってある霊廟であったが沖縄戦で焼失した。
石門は戦災でも大半が残り、戦後若干修復された。
安里大親 ( あさとうふや ) の墓は若狭海岸から雪の崎 ( 斧形の崎 ) から、
戦後繁多川に移された。



沖縄県浦添市  ・  第一尚氏 第五代 「 尚 金福王遥拝所 」

2012-04-16 17:57:34 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所






これは内地でよく見かける墓のようであるが、
墓ではなくて、首里の尚金福王を拝む遥拝所である。
現在は、拝所としての機能をはたしていないのか?
人が中に入った気配も無く、ウコール(線香)の跡もなかった。

尚 金福は尚巴志の子、尚 忠王の弟にあたる王で、
在位は1449~1453年と、わずか4年の短い期間であった。
尚 金福王の拝所の近くには、皇(コウ)グスクがあるが、
皇グスクは、その形をまったく留めておらず、造成によって破壊されてしまっていた。
このグスクには、王の側女(妾)が住んでいたとされる。
そしてその側女は、ここで王の子を産んだと言われている。

この皇グスクを教えてもらったのは、70歳くらいのとても美しいおばあちゃんであった。
そのおばあちゃんから親富祖グスクへも連れて行ってもらった。


尚 金福遥拝所へのアクセス
尚 金福遥拝所へは、国道58号線を
浦添市の牧港補給地区の反対側の屋富祖信号より右折し、
左へ入る二つ目の道を500mほど行った所にある。
城間地区の同仁病院の裏辺りになる。
駐車は、アパートの入り口の空いた場所に駐車した。

( 沖縄県浦添市 城間 )

第一尚氏王統 「 尚 巴志 ( しょうはし ) 」

2012-04-13 00:01:47 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所







琉球の南山・中山・北山の三山統一を成し遂げ、
第一尚氏王統に就いた尚巴志。
写真がないので、アニメキャラのイメージだけでも感じてもらいたい。






沖縄県南城市玉城  「 尚 泰久王の墓と位牌 」

2012-04-11 10:30:21 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所


















長男、安次富金橋の位牌と一緒にある尚 泰久の位牌





尚 泰久王 ( しょうたいきゅう ) は尚 巴志 ( しょうはし ) 王の七男で、
即位する前は沖縄市にある越来 ( ごえく ) グスクに居住し、越来王子と称されていた。
尚 巴志王の五男の尚 金福 ( しょうきんぷく ) 王の死去で、
尚 金福王の長男、尚 志魯 ( しょうしろ )と尚巴志の六男、尚 布里 ( しょうふり ) が王位を争い、
志魯は戦死し、布里は逓走した。
そのため、越来王子だった尚 泰久が王位を継ぐこととなった。

こうした身内の争乱と阿麻和利、護佐丸の乱などがあった所為か?
尚 泰久王は強く泰平を願っていた。
そのため、多くの寺を創建し、既存寺にも釣鐘二十三個を寄進した。
琉球王国歴代の王の中で最も多く寺を建立した王である。

尚泰久の墓は当初、首里池端の天山陵にあったが、
金丸のクーデターが起きて、家臣らが第一尚氏の各王の遺骨を持って、
読谷村伊良皆の森の中に隠した。
ここから尚泰久王の遺骨は、乳母の郷里である伊波村に移された。
そして明治41年ごろ、尚泰久王の長男、安次富金橋 ( あしとみかなはし ) の子孫の屋良家が、
安次富の墓の隣に移葬したという。




沖縄県那覇市  「 安谷井御嶽 ( あだにがー うたき ) 」

2012-04-09 16:33:32 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所






安谷井御嶽は、1977年那覇市文化財指定の御嶽 ( うたき ) である。
ここは首里大阿母志良礼 ( しゅりおおあむしられ ) という神女の所管だった。
宝珠を乗せたアーチ門の拝殿は石垣である。
内域には依代(よりしろ)の神岩と神木を円形に石囲いしてある。
御嶽庭は石畳が敷いてあり、石碑には1814年に村の有志の勧進により大修理を加えて、
御嶽の石垣を直し、樹木を植えて清浄したとある。
この御嶽は当蔵町の鎮守で、この付近は安谷川という地名である。


※ 大阿母志良礼とは、琉球王国時代において政治的意味を持つ神女。
  「 大阿母 」 は上級神女で、 「 志良礼 」 は ( 治める ) を意味する。


沖縄県糸満市  「 与座按司 ( よざあじ ) 」  の墓

2012-04-08 09:50:03 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所

与座岳の中腹にある与座グスクにある与座按司の墓





上与座集落の東はずれの農道から山道に入ると、
横穴墓があり、前面は石積みになっているノロ墓がある。
そこから5分ほど上ると与座按司の墓がある。
与座の年中行事のうち、旧暦8月15日の豊年御願と10月の火松御願には、按司墓を拝んでいる。

与座グスクは与座岳(168m)の中腹に築かれたグスクで、
南山王 ( 他魯海・たるみ ) が城下の嘉手志川(カデシガー)と
尚 巴志 ( しょうはし ) の所有する金屏風との交換を与座大主が勧めたといわれている。
与座大主の配下にある国吉大屋子は、極力反対を訴えたが聞き入れられず、
反対に謹慎の処分を言い渡される。
尚 巴志は、金屏風と交換した嘉手志川の周りに使用を禁じたので、
百姓は南山王から離反した。
かくて尚巴志軍は南山グスク、与座グスクを攻め落とした。




沖縄県沖縄市  「 鬼大城 賢勇 ( うにうふぐすく けんゆう ) の墓 」

2012-04-07 09:20:09 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所





沖縄市知花十字路を北 ( 登川 ) に約200m行くと、
左手に小高い丘 ( 知花グスク ) が見える。
知花グスクは 「 堅固な城でたくさんの村と共に輝かしい日だ 」 と
“ おもろ ” に謡われている。
石段入り口の右手の細い道を奥に進むと 「 鬼大城の墓 」 に至る。
鬼大城の鬼とは、人間の域を超えた超人で偉丈夫を意味している。
鬼大城賢勇は、具志川の喜屋武城主の長男で、尚 泰久王に仕える武将であった。
尚 泰久王の娘の百十踏揚 ( ももとふみあがり ) が勝連城主の阿麻和利に嫁ぐとき、
鬼大城は踏揚の守り役としてついて行った。
後年、阿麻和利が尚 泰久王を滅ぼす計略を察知し、百十踏揚と一緒に脱出し首里城に赴いた。
そして首里の王府軍を率いて阿麻和利を討ち取った。
この戦功で越来 ( ごえく ) 、具志川の地頭職をたまわり越来親方と称した。
その後、金丸 ( 尚 円王 ) に知花グスクを攻められ、
洞穴の中で火攻めによって最期を遂げた。
しかし鬼大城の子孫は栄達し、夏氏摩文仁殿内を構え、
一門から約十人の親方を輩出した。