「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 知利真良豊見親の墓 」

2013-02-11 05:14:54 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所




















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


知利真良豊見親 ( ちりまらとぅゆみゃ ) の墓は、
仲宗根豊見親の墓から北東に約70mのところにある墓である。

1500年、八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧の際に、
首里王府軍の先導をつとめた仲宗根豊見親の三男・知利真良豊見親の墓として知られている。
知利真良豊見親は、オヤケアカハチの乱に父とともに従軍、
のち次男祭金が4年在勤したあとをうけて八重山顕職となり、彼の地で没したと伝えられている。
近接する仲宗根豊見親の墓とともに宮古在来の墓 「 みゃーか 」 から
横穴式に移る中間様式を示している。
ツンプン ( ヒンプン ) の跡をとどめている所から、俗に 「 ツンプン墓 」 とも呼ばれており、
保存状態がよく、墓の形の変遷、石工技術を知る上でも貴重な墳墓です。
前庭部を石垣で囲み、墓室外面は切石が三段に積まれ、上端には石柱列が設けられています。
この墓は平良頭職をつとめ、杣山惣主取でもあった宮金氏寛富が1750年ごろ築造したと伝えられており、
その子孫は宮古では宮金氏、八重山では長栄氏渡渉している。




沖縄県宮古島  「 ニブス川と唐の主・豆腐の神・水の神 ( 龍宮 ) の拝所 」

2013-02-08 05:01:17 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



正面にニブス川の拝所、右に唐の主などを祀った拝所がある







ニブス川 ( 平和の犬川 )






唐の主 ・ 豆腐の神 ・ 水の神 ( 龍宮 ) の拝所





張水御嶽や蔵元跡の近くにニブス川の拝所がある。
この拝所の詳細は解らないが、豆腐や水の神などの神があることから、
飲食業の方がお参りする拝所かもしれない。




沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 アトンマ墓 」

2013-02-07 04:48:25 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所











石門の下から見たアトンマ墓






石門や石垣を上から見た







墓の横から見たもの







墓の入り口に立つアトンマ墓の説明板







仲宗根豊見親の墓の上に立つ路標





平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


アトンマ墓は、仲宗根豊見親墓の南方50mに所在する。
忠導氏ゆかりの墓で同氏族の継室 ( アトンマ・後妻 ) だけを葬ったことから
俗に “ アトンマ墓 ” と称されている。
墓の様式は岩盤と切石を組み合わせた彫り込み囲い墓である。
この墓がいつの築造されたか定かでない。

「忠導氏系図家譜」によれば、12世玄似(1764~1804)、
13世玄陳(1780~1840)、14世玄安(1815~1871)、
玄盛(1824~?)らが、それぞれアトンマを迎えているが、
そのなかで14世玄安(13世玄陳とアトンマ金免嘉との子)は、
1863年から1871年まで平良の頭職を勤め、権勢を誇った人物であった。
このことから、この墓が改修・整備されたのは12世玄似~14世玄安・玄盛の頃と推定される。

忠導氏は、16世紀初期に宮古の支配者として君臨した仲宗根豊見親を元祖に数多く頭職を出し、
勢力を誇った系統である。
その勢力・財力を背景に宮古の風習として本妻と同じ墓に葬ることが出来なかったアトンマの墓を設け、
その霊をとむらったものと思われる。


所在地 : 宮古島市平良 西仲宗根真玉
国指定文化財




沖縄県宮古島  ・  平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 仲宗根豊見親の墓 」

2013-02-06 05:13:32 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



仲宗根豊見親の墓








ピラミッドのように階段状になっている






墓の前庭にある井戸















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


15世紀末から16世紀初めにかけて、宮古を支配していた仲宗根豊見親が、
父親の真誉之子豊見親の霊を弔うために建造したと伝えられています。
墓の構造は、宮古在来の「ミャーカ」の形式と、
沖縄本島の形式を取り入れた折衷の形となっています。
この時期における宮古と沖縄本島との石造技術の交流を示す墳墓です。
外観は前庭部を石垣で囲み、墓室外面は階段状に仕上げ、上端に石柱列を設けて有ります。
内部は円形になっていて、直径6m高さ2m余りのほぼ10畳ほどの広さで、
中央に厚さ46cmの石垣が天井まで築かれ前後2室に仕切られています。
手前は棺ならびに副葬品、奥には洗骨後の骨カメの安置所です。
仕切中央は幅1,27m高さ1,70mの出入り口になっており、
かつては観音開きの扉がついていたことを示すカンヌキの跡が上下に各2箇所ずつとどめています。
宮古の支配者としての仲宗根豊見親親は1500年、
八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧に首里王府軍の先導をつとめ、
また島内においては井戸、道路、橋梁等の開さくをすすめたことで知られている。




沖縄県宮古島  ・  平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 張水御嶽 」

2013-02-05 05:05:38 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



張水御嶽 ( はりみずうたき )








御嶽の中にある拝所































18世紀の中頃まとめられた、『宮古島記事仕次』という宮古島の神話・伝説と昔話をまとめた本によれば、
地上の守護神となることを古意角が天帝に願い出ると、天帝はこれを祝福し、
天の岩戸の先端を折って大海に投げ入れ宮古島を作ったという。
その後、古意角は姑依玉と言う女神を伴い現在御嶽のある地に降臨し多くの神々を産み育て、
そして人々が繁栄を得た。と記されている。

張水御嶽は、通称 「 ツカサヤー 」 とも呼ばれ、
宮古島創世神話ならびに人蛇婚説などに彩られた御嶽である。
『 御嶽由来記 』 によれば、 「 由来 住古、天地が定まらず人類がまだ生まれない以前、
天帝に命じられた、古意角 ( コイツノ ) という神と姑依玉 ( コイタマ ) という女神が、
多くの神々を従え天下った場所だとされる。

人蛇婚説は、平良の住屋の里に富貴栄耀の夫婦がいた。
二人には子どもがいなかったので、神仏に祈願していたところ女の子を授かった。
娘が14・5歳のころ妊娠したので、父母は驚き事の次第を訊ねてみたところ、
「 誰とも知らぬ白く清らげな若者が錦の衣をまとい、夜な夜な忍び入るかと思うと、
ただ茫然と夢心地として、夜を重ねるうちにこのような身になった 」 と語った。

父母は不審に思い、糸の先に針をつけて男の片髪に刺すように言った。
娘は教えられた通りにした。
夜明けにその糸をたぐって行くと張水御嶽の洞の中まで続いていた。
その糸の先には首に針を刺された大蛇がいた。
父母は驚き悲しんだが、その夜の夢にかの若者が現れ、 「 我はこの島創世の古意角の化身である。
島守護の神を立てんために汝に思いを寄せた。必ず三人の子を産む。
その三人の娘が3歳になった時に張水に抱き参るべし 」 と言った。

月日が流れ娘が3歳になり、母は三人の娘を連れて張水に行くと、
御嶽の中から恐ろしい形相をした大蛇が出て来た。
母は驚き逃げようとしたが、娘たちは母の手を振り切って大蛇に飛びつき、
一人は首に乗り、一人は腰に、一人は尾に抱きついて親子の情を現し、御嶽の中に消えて行った。
その後、大蛇は光彩を放って昇天し、三人の娘は島守護の神になった。と伝えられている。


沖縄県伊良部島  『 黒浜御嶽 』

2013-02-01 00:53:37 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



産土神 ( うぷすながみ ) を祀る黒浜御嶽






御嶽の前の海に向って拝み(うがみ)をしていた

















伊良部島に渡った目的は、灯台と3つ御嶽 ( うたき ) に行くことだった。
黒浜御嶽は、比屋地御嶽、乗瀬御嶽に次いで3つ目に訪れた御嶽である。

黒浜御嶽は神代に、天神が兄妹を産土神 ( うぷすながみ ) としてこの地に降ろした。
二人の間に子どもが生まれたが、ソレハブフズ ( 役立たず ) という魚であった。
驚いた兄妹神は、そのことを天神に告げると、 「 それは海の生き物だから海に放せ 」 と言われた。
二番目に生まれたのはアバ ( ハリゼンボン ) で、三番目にウナギが生まれたので、
兄妹は心細くなって天神に告げると、天神はまた 「 海に放せ 」 と言った。
兄妹はなんとかして人間の子が出来ないかと思案した。
それでユーナの葉を二人の間に置いて寝てみた。
すると不思議なことに人間の子どもが生まれた。
二人はたいそう喜んで天神に報告すると、
天神は 「 これからもたくさん産んで島じゅうに広め、産土神になるように 」 と言われた。

このような由来があって、子どもが授からない夫婦には、この御嶽で願立てをする。
6月願いには佐和田・長浜の女性は嫁いだ後この行事に参加する慣わしがあるという。

黒浜御嶽に、はるばる内地からやって来て願掛けをしたところ、
子どもが授かったという話を聞いたことがある。


※ 産土神とは、生まれた土地の守り神で、
  イザナミとイザナギとの間に不具の蛭子 ( ひるこ ) が生まれた。
  天神に伺うと、次から諸神を産んだ神話がある。


宮古島・東平安名埼 「 マムヤの墓 」

2013-01-29 00:09:29 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



宮古島東平安名崎にある 「 マムヤの墓 」















美人だったマムヤ







道路側から見ると普通の大岩にしか見えない






マムヤの墓の近くにある東平安名崎灯台






マムヤの墓下にある海岸












昔、沖縄の島々を按司(あじ)と呼ばれる豪族達が支配していた頃の話である。

 その頃大和からはるばると遠い宮古島まで落ち延び、
東平安名崎(ひがし へんなざき)に近い保良(ぼら)の村に住む女がいました。
平家の落人で名前をマムヤといい、大変美しい女で機織りが上手でした。

このマムヤの輝くような美しさが噂になると、宮古の島々の按司や役人達
は、
ぜひ妻にしたいとマムヤの家を訪れ、争うようにして結婚を申し込んだが、
マムヤは、どんなに宝を積まれて申し込まれても、
「お志し、誠にありがとうございます。けれども私はこのまま一人でいたいのです」 と、
どの按司にもはっきりと断りました。

それでも按司達がマムヤの家に通ってくるのをやめなかったので、
マムヤは 突然姿を隠してしまいました。

 ある日、宮古島の按司でマムヤの住む保良や近くの村々を支配している
野底 按司(のそこあじ)が、東平安名崎の近くの海に行き、
家来達に網で魚を取らせていました。
海に細長く突き出た東平安名崎には、荒々しい大平洋と東シナ海の波が激しく打ち寄せ、
岬の断崖の上には、白い百合(ゆり)の花が咲き乱れていました。
その岬の下のグスフカーと呼ばれる泉に近い所まで来た時、
岬に打ち寄せ る波のとどろきに交じって、微かに機を織る音が聞こえてきました。

 野底按司は、「こんな人も住めない岬で、機を織る音がするとは・・・
お前達にもあの機の音が聞こえるだろう。すぐに手分けして捜せ!」 と命じた。

 早速家来達は捜してみましたが、機織りの音は、岬の下の方から聞くと
上から聞こえ、上から聞くと下から聞こえ、見つからない。
ようやく岬の崖を少し下りたところの洞窟からその音が聞こえて来るのが分かったので、
野底按司はその洞窟に入ってみると、
そこは光がようやく届く洞窟の岩の上に、美しい布を織りかけにした機が置いて
あったが、人の姿はどこにも見当たらなかった。
「 ここで、機を織っていたのは誰だ。姿を見せろ! 」 と言うと、
どこからともなく女の声が聞こえてきました。

「 私は人々から姿を隠すためにこの洞窟に隠れました。
どんなに偉いお方 にも姿を見せるわけにはゆきません。 」
「 おお、その声はマムヤの声ではないか。 」
「 はい! 」
「 こんなところに隠れても、わしが人に話せば、
すぐにあちこちの按司達が押し掛けてくるだろう。
いっそ、わしの妻になってくれんか。
すぐに承知できんのならわしと勝負をしよう。
わしは、これから狩俣村(かりまたむら)まで海の珊瑚の石を石垣に積むことにする。
お前も狩俣まで芭蕉(ばしょう)の糸をつないで行くのだ。
そして、私が勝ったらお前はわしの妻になるのだ 」 どうだ?と訊くと、
しばらくして微かに、 「 はい。 」 と返事をする声が聞こえた。

 野底按司は、家来に命じて領地の百姓をすべて集めると、
海から平たい珊瑚の石を運ばせて石垣を積みました。
マムヤも芭蕉の糸を細く裂いてつないでいきました。

 昼も夜も宮古島の東南の端の東平安名崎から20キロ以上も離れた
北西の端 の西平安名崎(いりへんなざき)にある狩俣村まで、
野底按司は百姓と家来に石垣を積ませ、マムヤは芭蕉の糸をつないで行った。

 野底按司は、とうとう狩俣まで石垣を積んだが、
マムヤのつないだ芭蕉の糸は、わずかに狩俣の村まで届かなかった。
勝負に負けたマムヤは約束通り野底按司の妻となって暮らすことになりました。

 ところが、野底按司には、二人の子供を産んだ妻がおり、
その妻がことごとにマムヤにつらくあたりました。
朝夕の妻の意地悪に我慢ができなくなったマムヤが按司に尋ねました。
「 私は勝負に負け、妻にするというからあなたの家に来ました。
けれども、あなたには奥様がいらっしゃいます。
なのになぜ、私を妻にすると言って連れてきたのですか。
私と奥様とどちらが大事なのですか? 」 と、問い詰めると、
按司は、 「 どちらが大事かと言われれば、
まあ、そうだな、子供のいる妻の方が大事だな。」 と言った。

 マムヤは、これを聞くと一人で野底按司の家を出て平安名崎に行きました。
「 神様、私がこんなに辛い苦しい思いをしたのは私が美しかったからです。
どうか、この保良の村の娘にこんな悲しい思いをさせないでください。
この保良に美しい娘が生まれないようにしてください。」
そう祈ると崖から身を投げて死んでしまいました。

 それから、平安名崎に近い保良の村には、
長い間美しい娘は生まれなくなったということです。
平安名崎の白い灯台の近くに、今もマムヤの籠もった洞窟とマムヤの墓がある。






沖縄県宮古島  ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 【 観音堂経塚 】

2013-01-26 00:03:24 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



「 経呪嶺 ( きょうじゅれい ) 」 と書かれた経塚の石碑







1699年創建の観音堂だが、戦後コンクリートに建て替えられた














観音堂の敷地内にある石柱









平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


祥雲寺の前の坂を下るとカーブに階段があり、その階段の上に観音堂経塚がある。
このあたりはかつて寺山と呼ばれていたそうである。

この観音堂はコンクリートで出来ていたが、史跡の説明板によると、
お堂が出来たのは17世紀末ですが、戦争で焼けてしまい、
その後に現在のコンクリートのお堂になったとのことである。


観音堂は1699年の創建で、定納船上下の安全祈願所として崇敬をあつめたと伝えられている。
前庭にある経塚は、宮古における仏教伝来の事跡を形ある物を以って示す数少ない遺跡の一つである。
石碑の表には「経呪嶺(きょうじゅれい)」、
裏には、「 雍正丙辰冬白川氏恵道建焉 ( ようせいひのえたつふゆしらかわうじけいどうここにたてる ) 」
と記されている。

経塚とは、経典や経文を書き写して塔内または塔下に埋めた塚、または塔碑のことをいい、
この経塚には、 「 金剛経 」 の経文が墨書された小石が埋められたと言われる。
経塚建立の雍正丙辰は、雍正14年 ( 乾隆元・1736年 ) で、観音堂建立の37年後のことである。
白川氏恵道は、家号上地野 ( うえずの ) で、
雍正9年 ( 1731年 ) から乾隆2年 ( 1737年 ) まで平良の頭職をつとめており、
この経塚は恵道が頭職在任中に建立したものである。


所在地 : 宮古島市平良 西里



沖縄県伊良部島   「 乗瀬御嶽 」

2013-01-23 00:01:58 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所


























乗瀬御嶽は伊良部町渡口の浜にある。

その昔、伊良部島のある百姓の娘は玉のように美しいので、
人々は玉メガと呼んでいた。
娘が15歳の時、潮水を汲みに乗瀬の浜に出かけたまま戻って来なかった。
それから3ヵ月経って娘が乗瀬の丘に立っていた。
両親は感極まって、我が子に抱きつこうとすると、
玉ミガは袖を千切り、 「 私は島の守護神となりました 」 と言って、山の中に姿を消した。
両親は千切れた袖を形見としてこの地に埋めた。
それから村人はここを 「 乗瀬御嶽 」 として祀った。

乗瀬御嶽は船守りの神として崇拝されている。
この御嶽でカムスという行事が毎年旧暦11月に行なわれる。
その由来は首里王府へ年貢を納めて帰る途中、暴風に遭って漂流中に中国船に助けられ、
全員無事に帰郷した。
これは乗瀬御嶽の神の加護であると、感謝の願解きをしたことによるという。
その船乗りの子孫の女性はコーキ母と称し、四日間の夜ごもり祈願を行なう。


所在地 : 伊良部町渡口の浜近く


沖縄県伊良部島   「 豊見親比屋地御嶽 」

2013-01-22 00:09:28 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所









御嶽に通じる御嶽道




比屋地御嶽は牧山の展望台の近くにあり、祭神は赤良朝金 ( あからともがに ) といい、
14世紀ごろ久米島から渡ってきて比屋地に住んだという。
住民に礼法や農法を教え、鍛冶で農具を造り、農業を督励した。
ここが島の集落の発祥地といわれ、鍛冶神、農神として崇めている。

その後、水源を求めて住民とともに西の方に移住し、伊良部元島の首長となった。
朝金の死後、人々はその徳を偲んで元の比屋地に御嶽を設け、島の守護神として祀った。
島人が最も崇拝した神で、島の大きな行事祈願はここで行なわれる。

明治期になると住民はさらに現在の字伊良部、字仲地に移動して行った。
伊良部・仲地・国仲・長浜の四カ字に朝金の分神を祀っている。
比屋地御嶽での行事は、旧暦1月に健康願い、4月にイモ豊作願イ、
8月に麦豊作願イ、世乞い、10月に火除け願いなどがある。
脇神に、近海の大フカを退治して命を失った氏親が祀られている。


所在地 : 伊良部町牧山



沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ )  【 住屋御嶽 】

2013-01-15 00:04:51 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所

























祠 ( 御嶽 ) の手前にある拝所







祠 ( 御嶽 ) の手前にある拝所



















市役所の手前のムイ ( 森 ) がウタキ ( 御嶽 ) になる




平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたので、
これから少しずつ紹介して行きたいと思っている。


最初に紹介するのが住屋御嶽 ( すみやーうたき ) で、宮古島市役所に隣接して西側に所在する。
東側の祠はここから約15m南東方にある
「ニィーマヌトゥクルザー」から移したと言われている自然石が置かれている。
獅子の神が祀られている。

 本来の祠については、 『 宮古史伝 』 によると、
祭神は 「 男神・根入リヤ下リあううむ真玉と唄ふ 」 と記されている。
その由来については、「 根間の里に母親に早く死なれて継母に育てられた七歳になる男の子がいた。
ある日、煮赤豆を欲しがった童は、この子を亡き者にしたいと思っていた継母に言われて
住屋アブ ( 洞 ) の端に生い茂っているビユウガッサ ( 食わず芋 ) の葉を摘みに行き、
足を踏み外して底もしれむアブの中へ真っ逆さまに落ちてしまった。
童ははびこる蔓にひっかかり七日七夜泣き通したが、
その父も心根の悪い人で童の泣き叫ぶ声をうるさく思い、
蔓を断ち切って自分の子を奈落の底に落とし込んだ。
童は、洞を通り抜けて、地下の根入りヤの国あろうの国へ入った。
根入りヤの神は童から事の次第を聞き、
地下の国で七疋の赤牛と馴れ親しむ童をみて正しい心の持ち主であることを知り、現世に返してやった。
現世に戻った子供は住屋山に入り、根入リヤ下リあろう踏む真主と崇め祀った。」と記されている。

 また 「 この神は、父が足を吊っている蔓を切り自分を洞の中へ落としたことをいたく悲しみ、
すべての男を呪うようになったので、男が拝礼してはならぬという言い伝えがある 」 とも記されている。
現在、根間の里御嶽として、また学問の神様として参拝されているが、
祭祀行事の供え物は男子には与えないとも伝えられていると言われる。
主な祭祀行事として、旧6月に 「 ユーダミ 」 、旧12月に 「 冬至 」 が行なわれている。

所在地 : 宮古島市平良 西里



鹿児島県徳之島  「 掟大八目の墓 」

2012-12-26 00:08:12 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



掟大八目の墓を囲むように6つの家来の墓がある







石門から先の墓地は神高い場所として立ち入りを禁止されている











掟大八目の墓は、徳之島の北部にある手々集落から海に入って行った場所にあり、
墓の裏山には やとグスク がある。

この墓群は、琉球所属時代、掟 ( 今の区長 ) 役にあった大八の墓である。
掟大八目の目は、ヤクムィー ( 兄 ) の意味であろう。
大八の墓の周囲に大八を守るように6つの家来の墓石があり、
これを総称して 「 按司 ( アジ ) 墓 」 といっている。

古来、この墓地は神高い所として関係者以外は立ち入らない場所とされている。

                    徳之島町教育委員会





沖縄県宮古島市  ・  沖縄の文化財 「 仲宗根豊見親の墓 」

2012-12-20 00:12:31 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所







仲宗根豊見親 ( なかそね とぅみや )の墓
The Tomb of Nakasone-Tumiya
( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 31 ( 1956 ) 年2月22日 
Designaed Date : February 22,1956
所在地 : 沖縄県宮古島市平良字西仲宗根真玉
Location : Nishinakasone,Hirara,Miyakojima -shi,Okinawa-ken


 仲宗根豊見親の墓は平良港を見下ろす小高い丘にあり、
15世紀から16世紀の初めにかけて宮古島を支配していた豪族である。
墓の造り方は古くから宮古にあったミャーカ ( 巨石墓 ) と
沖縄本島の墓の造り方を組み合わせている。
前庭部分を石垣で囲み、墓室の外側を階段状に造り
その上に石柱を並べてて立てる独特な造り方である。
墓の内部は円形状になっており、直径6m、高さ2mの大きさである。
墓内は二室に分かれており、前側には棺と装飾品、
奥側には骨を入れる甕 ( かめ ) が置かれてある。
墓が造られた頃の宮古と沖縄本島との石造技術の交流を知る上で重要な史跡である。


 Nakasone-Tumiya's grave is on a amsll hill which views a harbor.
He had ruled Miyako from the 15th to the beginning of the 16th century.
The construction method of the grave is a combination of those of Myaka
( A mausoleum which had been in Miyako since ancient times ) and Okinawan
graves.
Inside of the grave is round, 6m. across and 2m. high.
It is divided into two rooms:
a coffin and belongings are in the front room, and a pot in which bones
are put is in the inner room.




沖縄県読谷村  「 第一尚氏王統 ( 尚 巴志 ・ 尚 忠 ・ 尚 志達 ) の墓 」

2012-12-14 01:34:50 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所































墓の近くにある「上ヌカー」







墓の入り口の目印となる伊良皆郵便局






第一尚氏王統は、第二尚氏によって墓や遺骨までも、葬り去られようとしていた。
それを阻止しようと骨を墓から持ち出し、
王統の墓と気付かれないように、名も無き乞食墓として仮納骨し、
難を逃れたと言われている。
そんな難を逃れて納められた第一尚氏の墓が
読谷 ( よみたん ) 村の伊良皆 ( いらみな ) 旧集落の通称サシチムイにあり、
それは、米軍の黙認耕作地帯の中にある。

巴志は1372年に南部地方の佐敷 ( さしき ) に産まれます。
巴志は隣地の大里 ( おおざと ) グスクを攻略して勢力をつけると、
当時の中山王であった武寧 ( ぶねい ) の政治が乱れているのを理由に武寧を討ちます。

その後、父の思紹 ( ししょう ) を中山王へ即位させて自らは山北王を討伐します。
1421年に思紹が死去して、翌年51歳で王位を継いで在位期間中に山南王を滅ぼし、
単独王統による初めての統一国家を樹立して、初代琉球国王となりました。
1430年、明(中国)の皇帝から皮弁服 ( ひべんふく ) や王御冠 ( たまんちゃーぶい ) が送られ、
巴志は正式な琉球国王と認められます。翌年には皇帝より 『 尚姓 』 を賜ります。
尚姓は国王以外に名乗る事を許さない姓である。

尚巴志は1439年6月1日に死去し、墓は首里グスク近くに建てられたとされています。
神号は 『 勢治高真物 ( せじたかまもの ) 』 とされました。

1469年、重臣だった内間 金丸 ( うちま かなまる ) が当時の王、尚徳の政治に反発して
クーデターに成功します。
尚巴志の墓が破壊されると聞き付けた旧臣の平田子 ( ひらたしー ) と屋比久子 ( やびくしー ) が、
墓から尚巴志の遺骨を持ち出して読谷山 ( ゆんたんざ、現 読谷村 ) へ隠し、
現在の場所へ葬ったといわれており、
平田子は伊良皆の 「 根人 ( にっちゅ ) 村創設の人 」 といわれている。



沖縄県中城村  「 護佐丸 ( ごさまる ) の墓 」

2012-12-04 00:19:06 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所









中城城跡公園の入り口の斜め向かいに「沖縄電波観測所」があり、
その手前の右の道を下りると護佐丸の墓の標識がある。
そこにある階段を上ると突き当たりに護佐丸の墓がある。
この一帯は台グスクと呼ばれていて、目の前に中城湾が広がる絶景の地となっている。

護佐丸の墓は、護佐丸の死後、その子孫の毛氏豊見城家によって築かれたもので、
護佐丸をはじめ第7代までの子孫の遺骨が安置されており、8代目からは識名の墓に納骨している。
護佐丸の墓は、現存する亀甲墓としては県内で最も古い時代のもので、
歴史や文化的にも貴重な墓である。


護佐丸盛春 ( ごさまるもりはる ) 生年不詳~1458没。
唐名(中国名)は毛国鼎(もうこくてい)。
琉球が三山分立から統一へ向かうころの武将で、名築城家として知られます。
『毛氏先祖由来伝』によると護佐丸は、1416年、中山尚巴志(ちゅうざん・しょうはし)に従い
北山(ほくざん)討伐に従軍し、今帰仁城を攻略後、座喜味城を築城したと伝えられています。
そして護佐丸は王府の命により、勝連按司・阿麻和利(かつれんあじ・あわまり)に対する防御のため、
中城へ移城し軍備増強を図ります。

阿麻和利はこの軍備増強を逆手に取り、王府に護佐丸に謀反の動きありと告げます。
1458年、尚 泰久王は阿麻和利を総大将に任命、護佐丸討伐のため中城に向けさせます。
王府への忠誠心に厚い護佐丸は手向かう事ができず、
幼児だった三男 ( 盛親・もりちか ) を乳母に託して落ちのびさせ、
妻子もろとも自害する。
護佐丸を排除した阿麻和利は、首里王府を攻めようとするが、
妻である百度踏揚(ももとふみあがり)により陰謀が発覚し王府によって討たれてしまう。
これを 「 護佐丸・阿麻和利の乱 」 という。


乳母に抱かれてただひとり生き延びた三男の盛親は、
国吉グスクの国吉大屋久が盛親を助け養育したことで知られている。
その盛親は、第二尚氏から厚遇され、家を再興し、
その子孫から10人あまりもの三司官を輩出した。