大善寺にある 「 御塚(おんつか)・権現塚(ごんげんづか)古墳 」は、
いずれも 「 日本書紀 」 などに登場する 「 水沼君(みぬまのきみ)」一族
( 筑後国三潴郡一帯を支配していた古代の海人豪族 )の墳墓だと言われ、
5世紀後半に御塚古墳、
6世紀初頭に権現塚古墳が築造されたものと推定されています。
御塚古墳は墳丘が全長約65m、高さ約10.5mの帆立貝式の前方後円墳で、
三重の周濠が巡っています。
周濠まで含めると全長121mの大きさです。
内部は不明ですが、墳頂部が大きく破壊されていることから、
すでに盗掘を受けていると考えられます。
両古墳とも、江戸時代末期の久留米藩士・矢野一貞により
『 筑後将士軍談 』 の中で絵図入りで紹介されています。
大正時代に当時の大川鉄道株式会社の社長が巨額を投じ、
地元の有志も参加した修復が行われ、
その後は住民の手によって保存されてきました。
現在は久留米市により 「 御塚・権現塚史跡の広場 」 として整備されています。