門人二十三人によって建立された墓
墓石の受け石には孫の名前が刻まれている
墓の隣に朽ちた説明版がある
墓がある尾根
坂道を登ると神社と墓との路標が立っている
旧槻木小学校の校庭を抜けると橋が架かっている
三好浅吉の墓は、 旧槻木小学校 の校庭を抜け、
橋を渡って約200mほど坂道を登った尾根にある。
孝子とは、親孝行な子ども。ということで孝子が冠名に付けられている。
孝子三好浅吉の墓
浅吉は、文政四年 ( 一八二一年 ) 槻木高内に生まれた。
父 勘助が茸山 ( なばやま ) 入会権の争いで罪状となり、入牢した。
浅吉は父の代わりに母や幼い弟妹三人の世話をしながら懸命に働いた。
獄中の父のことを思うと、いたたまれず、
獄中の父と同じように土間に布団を敷き寝ることもあった。
「 父を帰してくれ 」 という再三の願いが
藩主・奥平昌猶 ( まさみち ) 公の耳に達し、
父の赦免と褒賞の恩命を受けた。
しかし、長い獄中生活から帰ったとき父は、
足腰も立たぬほど弱っていた。
浅吉は、そんな父を大切にし、
父が寝る前に自分が床に入って温めてから父を寝かせるという親孝行を続けた。
このような浅吉の真価が認められ、
安政三年 ( 一八五六年 ) 四十九歳のとき、
百姓から庄屋格に進む出世をし、多くの褒美を賜っている。
また仏教を篤く信じ、寺院に多額の喜捨をし、
小倉県よりご貢納三ヶ月分を賞与されている。
浅吉は明治三年 ( 一八七四年 ) 七月二十日に、
五十四歳で生涯を閉じたが、今もなお 「 孝子・浅吉 」 として、
人々に賞揚 ( しょうよう ) されている。