今も灌漑用の岩木大池に残る築堤
池の向こうに光林寺が見える
池の横にある岩木山
宇島鉄道は明治45年3月に京築の有志により、
宇島鉄道株式会社を設立され、
大正3年(1914年)1月11日に待望の開通式を迎えた。
今から100年以上も前のことである。
豊前市八屋から上毛町有野までの17.7キロを結ぶ「宇島鉄道」であったが、
大分県中津市の「耶馬渓鉄道」の出現や経営難などから、
昭和11年(1936年)8月1日に全面廃業した。
わずか22年6カ月で廃線となった幻の宇島鉄道である。
宇島 ー 千束 ー 塔田 ー 黒土 ー 広瀬橋 ー 安雲 ー 光林寺 ー 岩木大池築堤
友枝 ー 鳴水橋 ー 下唐原 ー 中唐原 ー 上唐原 ー 百留 ー 原井 ー 鮎帰 ー 有野
この灌漑用の岩木大池に築堤が造られたのは、
「 直線線路を確保したい 」 という宇島鉄道は、
築堤に開口橋を設けることで、水利関係者と合意し、
築堤を建設したという。
そんな岩木大池あたりを舞台とした民話がある。
『 汽車に乗って狐の嫁入り 』 (新吉富村誌より)
この村に軽便鉄道(宇島鉄道)の通っていた頃の事。
宇ノ島から有野まで、有野は有名な青ノ洞門の川を隔てた前のところ。
マッチ箱のような車両が二つ、たまに有野の木材を運ぶときには貨車ひとつ、
それを引いた機関車が、黒い煙をあげながら、
シュッポ、シュッポと田んぼの中、桑畑の中、
鉄橋を渡り、山際を通り、汽笛を鳴らして走る。
この線路は、西吉富の成恒の一部と、
安雲の田の中を突っ切って友枝駅に向かう。
安雲には、安雲駅のほかに光林寺(お寺のおつとまり時の臨時駅)があり、
一つの集落の二つの駅と安雲集落の人の自慢の種であった。
しかも代々の機関士さんや車掌さんが安雲の人であった。
晩春のある夜、乗客の少ない終列車が友枝駅を過ぎ、
岩木山の横にさしかかった時、車掌さんが一両目から二両目とめぐって来ると、
乗客のいないと思っていた二両目の座席に、
今まで見たことがない美しい十五,六歳の娘と三十半ばくらいの女の人とが、
ひっそりと腰を掛けていた。
「美人だな~」と思いながら、そのまま声をかけずに引き返した。
そして安雲駅に着いた時「おや?」っと思った。
降りた気配も無いのに、後ろの車両の娘と女の人の姿は影も形もなく、
ただ淡い電灯が空の車内を見せていた。
その出来事を私の家に風呂を入りに来た車掌さんが話してくれた。
友枝川の川姫だろうか?川姫なら座席が濡れている筈。
濡れていないところを見ると、野路の狐が照日に嫁入りに来たのだろうと、
妹や友達と話し合った。
それは空に木の葉形の月が出ている夜のことでした。
宇島鉄道は大正の初め頃から、昭和十一年頃までだったと憶えています。
線路の両側に咲く月見草を摘み摘み、竹久夢二の宵待ち草の歌を唄いながら、
夢二描く少女の絵と汽車に乗った狐の嫁入りを重ねて考える
多感な少女時の軽便鉄道の通った時代の懐かしい思い出話である。