国道495号線沿いにある墓所
解説板より
宗像市文化財第一号
史蹟 (昭和49年3月30日)
名称 平信盛笠塔婆 一基
説明
この墓碑は平信盛(清盛の孫 父は中納言知盛)と
月絵姫(大納言光盛の息女)御夫妻のもので
人皇第81代安徳天皇が寿永4年3月平氏一門の壇の浦敗戦と共に
二位の尼時子(清盛の妻)に懐かれて入水崩御せられ
平家一門もこの戦に殆ど戦死や自殺して海底に沈み滅亡したが
信盛は他日の再挙を期して深山幽谷に身をかくし、
源氏の目を避けんとして英彦山から宗像一の宮(辺津宮)孔大寺権現の社にと
共人八十五騎を従えて落ちのびた。
その後たまたま鶴山(釣山)に金砿を見出しこれの採掘に従事するとともに
井上五郎大夫と改名し安住の地と定めた。
その後更に大賀と改姓、信盛より八代目大賀惣右ヱ門の世には極めて繁栄して
千余戸を数える砿山町となり、
禁裏より永野の姓を名のるよう指示があり今日に及んでいる。
この墓所ははじめ石塔山にあったが洪水のため埋没したので
明治21年11月永野家一統が協議してコウモリ塚に移し
墓石も永年の風雨に表面の刻字も磨滅したので新しくその節刻名し
天蓋石と台石のみ800余年の寂影をとどめている。
昭和51年1月20日 宗像市教育委員会