Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

アンポンタンな人達

2025-02-27 | 文化一般
承前)音楽芸術的にも最低な音楽祭である。それでもフランクフルトに出かけるより近い。復活祭からフィルハーモニカーがいなくなれば、フランクフルトの方が芸術的に上まる。少なくとも毎年11月の壮行演奏会だけでも欠かせない。

バーデンバーデンでは高額の券を買うことはなかった。それだけのいい席はパトロンでもないと入手できないからである。そういうことはどのような音楽祭でもあるが、それだけの内容がなかったので意味もなかった。会場の音響もオペラ以外ではより優れたところは幾らでもある。然し音楽劇場としてはやはり欧州でも優れている。

今回は友の会のご招待だったので無料で一番いい席に座った。昨年の復活祭のブラームスも後半に潜り込んだが、やはり音響は優れている。但し友の会では空いている席が多かったので、如何にパトロンと友の会の社会層が異なるかもよく分かった。要するに平土間に集まる連中が多いのが友の会であろう。所謂スノブ層が多いのだろう。

楽譜を読めない指揮者について言及したが、そうした指揮者や演奏も音楽が分からない聴衆にとっては活躍しているかどうかだけの差でしか評価基準がないのだろう。そういう時にそういう聴者は「好き嫌い」とかいう意味のない基準を挙げるのだが、そこでどこが良かったのか悪かったのかに言及して貰わなければ感想にもならない。

昨年から結構多くの試乗イムプレッションの書き物だけでなくYouTubeもネットで観た。やはりその中でジャーナル的な形を取れているチャンネルもあった。比較対象の数だけならば比較して行かないとその差が見えてこないが、中には特に女性の場合の細やかな印象がとても分かりやすく、比較する迄もなく良く納得できるジャーナルがある。

従来からワインの試飲においても中途半端な知識よりもただ素直に印象を語られて目が覚める思いをすることが少なくなく、出来るだけそうした女性に感想を尊重するようにしている。勿論それを受け留める側の経験や知識があるから何を謂わんとしてどこがポイントであるかが分かるからなのである。

「好き嫌い」というならばまさしくそこを指摘して欲しいのである。それがジャーナルで、特に音楽芸術の場合はそれが本質であることが少なくないのである。音楽ジャーナリズムに何が求められるかということでしかない。

個人的にはバーデンバーデンには復活祭以降、一度だけは出かける。バーデンバーデンの強みである生誕100周年ブーレーズフェストの碑の催し物だ。セクハラ指揮者ロートが幾つか振って、パパーノもロンドン饗を振る。

然し個人的に、プログラムと演奏者を鑑みて、価値があると思ったのはただ一夜のアンサムブルアンテルコンテムポランの演奏会だけである。指揮者も主席のブルーズで日本でも演奏会をしていたようだ。但し「レポン」を座席を替えて休憩前後の二回演奏するというので、興味を持った。日曜日の夕刻のカジノでの演奏会なのでピアニストのエマールが十年前と同じように席替え客席をうろうろとしているだけなのかもしれない。地に落ちている様子を見に行くだけであろうか。(終わり)



参照:
ピエール・ブーレーズの家構想 2017-01-14 | 文化一般
主の居ない打ち出の小槌 2015-01-26 | 音
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キャリアを積む過程

2025-02-24 | 文化一般
ご招待の演奏会、バーデンバーデン祝祭劇場友の会の記念公演だった。500人ほどの会員らしいが、2000人近く入ってシュトラウスの「四つの最後の歌」の曲間全部に拍手が出ることで、一体どういう人を招待していたのかとなる。恐らくバーデンバーデン市民とかが多く入っていたのだろう。挨拶は副会長の連邦最高裁判所の長官だったようだ。玄関前にはベルリンナムバーの青いラムプの車が停まっていたので、それよりも高官がいたのだろう。

五列前にはルップ博士が二列目の人に話しかけていたが、その辺りもミリオン単位の寄付をする人ばかりで大物で、前会長は保守党でコール首相に継ぐ大重鎮のショイブレ元副首相だった。メルケル首相が叩き落とした。それでもバーデンバーデンはペトレンコをザルツブルクに譲らなければならなかった。もうそれで個人的には全く興味がなくなった。ヘンゲルブロックの代わりにエンゲルでも入るならパトロンにもなるのだが、最早無意味である。

さて、前半のお目当てはマンハイム出身でこの秋にヴィーンの国立劇場の引っ越し日本公演で伯爵夫人を歌うハンナエリザベート・ミュラーである。最初の紹介でマンハイム生まれでスパイヤーで育って、マンハイムの音大で戻ったというから、歯科衛生士さんか歯医者の娘さんの様だ。どちらかというと前者の様な感じがする。本人も歯医者になるつもりだったらしい。

彼女の歌はミュンヘンのアンサムブルで歌っていた時に聴いていて、ちょい役で大阪の中村恵美と並んで出ていた。然しペトレンコ指揮の下でも演奏会で歌うようになった。最も印象に残っているのは新制作「リア王」での歌唱だった。その後格下の劇場でモーツァルト主役級を歌うようになって秋の引っ越し公演となっている。

そのようにキャリアを積む過程は期待と共に観察してきて、今回改めて聴くと、昨年同じ様な席で聴いたディアナ・ダムラウとの直接比較になる。すると声も歌唱も全く足りない。なるほどその体格に合わせて発声法などで歌えるようなキャリアを積んできたのは分かる。同時にモーツェルトにおいても特別なコロラテユーラの技能を持つ人とは異なりそれだけでは仕事にならない。所謂超一流との落差は埋めようがない。それでも歌える劇場はあるということだ。

言葉の明晰さやそのディクテーションの確かさや、その他舞台での存在感などオペラの世界はやはりその差が明らかで、秋の日本公演ではマルシャリンを歌うニールントにして超一流大劇場で歌えるような声も実力もない。

これらはモーツァルトからリヒャルトシュトラウス、そこからヴァ―クナへの発展が誰にでもできるものではないといういい例示でもある。

一方で声だけあれば大人になってからでもプロになれる様なオペラ歌手で、多額のギャラを稼ぎ出すのだが、その反面天分ない者はやるだけ無駄な様な職業で芸事である。それでも声もいつまで持つかも分からないので、まるでばくちの世界のようでもある。(続く



参照:
小声で呟やく言葉 2025-02-23 | 生活
奈落拡大計画の実験 2020-06-24 | 文化一般
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なんとも不可解な牧歌

2025-02-18 | 文化一般
ベルリナーフィルハーモニカー日本公演のプログラムが発表された。期待されたマーラー交響曲九番でなく、定石の夏のツアーの開幕プログラムの変形だった。そのプログラミング自体が、不可解である。

元々ルツェルンでもヴェーベルン「パッサカリア」に続いてアロイスツィムマーマンのオーボエ協奏曲、そして後半にブラームス交響曲一番ハ短調とコロナ期間に流れた交響曲四番とのアイデアを交えたものだった。それが最初にシューマン作曲マンフレッド序曲に変わっていった。その流れは十分に理解できた。若干芸術的には高度になっただろう。

然しである、東京や川崎では著作権料を徴収される協奏曲の代わりにヴァ―クナーの家庭管弦楽曲「ジークフリート牧歌」が演奏される。これは驚きでしかない。すると交響曲を含めて大編成で室内楽的な演奏を目指すのか。

またソウルなどでは、お国の人気ピアニストがベートーヴェン協奏曲三番ハ短調で共演するという書き込みを読んでいた。恐らくそれはその方面からの情報で正しいのだろう。すると「牧歌」の代わりにそこで演奏される筈だ。

もう一つのプログラムは11月最初にベルリンの定期で演奏されるヤナーチェック、バルトーク、そしてストラヴィンスキーの東欧系のプログラムとなる。これも東京と横浜で一晩づつ演奏される。

ブラームスのプログラムは恐らくヴェーベルンに戻して9月のベルリンの音楽祭で三日間演奏されるだろう。すると11月のフランクフルトでの壮行演奏会では極東ツアーで演奏されるその儘が予行演習される。勿論「牧歌」ぐらいならば既にミュンヘンのレヴィ記念演奏会で指揮していた。するともしかすると人気のソンジン登場もあり得ると思う。いい席が取り難くなる。

個人的にはマーラーの仕上げはルツェルンで聴くことになる。反対にブラームスはフランクフルトで聴くことになるが、アロイスツィムマーマンはベルリンに行かない限りそこで聴くしかないのだろう。極東公演で協奏曲としてそれが残るなら喜ばしいのだが。少なくともフランクフルトでは「牧歌」は受け入れられないだろう。

さて、日本公演の入場券最高額五万円をどう見るか。少なくとも本日の為替レートからすると297フランケンで、ルツェルン音楽祭の320フランケンよりも格安である。然し最低額は40フランケンなので6700円でしかない。それならば最低料金三万円は高過ぎる。要するに経済弱者が保護されていない。U30券は半額以下にしないと駄目だろう。

但しその前提条件として会場の音響効果とプログラムが同一ということで、さもなければ足代が如何にそこに掛かっていたとしても決して安いということにはならないだろう。少なくとも会場の大きさは2000人前後とすればそんなに変わらないだろう。つまり入場者による売上額はそんなに変わらないということだ。



参照:
ユダヤの旋律「コルニドル」 2021-07-20 | 歴史・時事
演奏されない第三交響曲 2024-01-25 | 音
ほぼ一定の電気使用量 2025-02-15 | アウトドーア・環境
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空気を別ける様な指揮

2025-02-01 | 文化一般
承前)プッチーニの音楽と直ぐに分かる作曲家ですが、その「自筆」はどのような意味を持ちますか?

そこにおいては、イタリアの歌の芸術と後期浪漫派における和声と大管弦楽を融合されています。この三点を一つにするなら、それがプッチーニです。彼においてはそれが特に大書きされているということがない。それは彼のドラマティックな感性が取り分け重要だからです。後期ヴァリズモとの相違はその音楽が絶えずドラマティックということです。

プッチーニにおいては、ヴァリズモの要素があります。それは人の人生の理想ではなくて本当の人生を描きたかった。同時にプッチーニの音楽においては浮世にて切り離された美があるように思えますが、この点はどうです?

美はプッチーニにおいてはそれ自体が目的ではなくて、彼のコンセプトの一部です。トスカのカヴァラドッシの「星は光りぬ」では、彼自身が生との惜別のところでのみそれがあるのです。アリアの最初では僅かに部分が大きなフレーズが始まる前に響くだけです。そこでの美は、ドラマテユルギーとして、絞られることで漸くゆっくりと放たれるのです。プッチーニは、美を追及するのではなく、真実を求めているのです。

プッチーニを指揮するのは難しいですか?

正直、指揮者にとってはプッチーニ以上においしい作曲家はいません。勿論どのようなオペラでも難しいですが、プッチーニは指揮者にとっては沢山の恩恵があります。信じがたいほど沢山の描くべき細部がそこにあります。「三部作」の仕事を思い出します。あらゆる観点からドラマに寄与する全てを叶うように為す仕事への喜びです。

あなたがカペルマイスターからベルリナーフィルハーモニカーのシェフになる過程は、フォンカラヤンやアバドにおいてのものを思い起こさせます。そこからすると、劇場での仕事は準備の時の助けになっている?

若い時に劇場に行かされたのはとても幸運でした、そしてマイニンゲンで自身の修行を行えたことは。そこには指揮の技術だけでなくて、劇場の有機的な構造への理解が含まれます。一時に多くの異なった視座を持たなければいけません、則ち奈落の管弦楽団、舞台上の歌手たちへ、会場の音響へ、などなどへと。指揮者の職人技とはその拍子取りから遥かなところにあります。そこには合唱やアンサムブルとの人間関係をどうするかなどの問いがあります。心理的なそして利害関係の調整への経験です。どうやって収めるか?ショッキングな経験をした晩の歌手をどのように褒めるか?劇場で全てを学びます。そこでキャリアを始めた者は、人生の準備が出来ます。

息遣いは音楽の基本ですが、楽団が一緒に息遣いするとはどういうことでしょう。

身に着けることの一つです。音楽家に一緒に息してといいます、若い指揮者は一体それはどういうことかと尋ねる。指揮は一緒に息使いするようにの技術と分かります。上から下への拍打ちではなく、空気を別けるようにの動きです。(続く



参照:
一同共通の強いお願い 2021-02-22 | 文化一般
そのオーラをそっと出し 2024-12-17 | マスメディア批評
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蝶々の少女売春の悲惨

2025-01-28 | 文化一般
承前)そのプログラムでベルリナーフィルハーモニカーによる委嘱作スルンカ作曲の超有機新作が演奏されますが、一体何処があなたを確信させたところでしょうか?

先ず新しい作品の場合には一人称によるメッセージがあることで、容易くは管弦楽団に任せるとはならないところなのです。其処ではコルレーニョで、あそこではフラジオレット奏法とか、何よりもその創作家の独自性が分かることを尊重します。それはまたただ単に和声的に響くかもしれない。2023年にはリザシュトライヒの「イシュヤルタ」を初演しました。彼の素材は全然特に変わったものではないのですが、個性があります。

作品のどこにそうした個性を見出すのでしょうか?ある種の感受性でしょうか?

それだけではないです。多くの作曲家は生きていて、個人的な接触がその評価に役に立ちます。

復活祭のバーデンバーデンでは、その後ベルリンで蝶々さんをベルリナーフィルハーモニカーで指揮しますが、取り分けとくべるな特徴があります。先ずはピンカートンとの関係での自己犠牲、そして最後には自死する。この特徴や役をどのように思いますか?

先ずは役に取り分け求められるものであり、それは持っている声だけにではなくて、まず一幕において、蝶々さんには素朴以上に大きな存在でないとということが求められます。抑々彼女が語る様に15歳の少女でしかないのです。その強さの背後には、彼女には揺るがすことがない結婚や愛に対する理想への強い想いがあるのです。そうした二重性のある不屈で最強の強靭さが難しい役としています。当初のそうした素朴さは、慣習からあるべき姿であるものがただ外面的に演じられる。彼女の環境は、現在での少女売春となんら変わらない人身売買の恐ろしい社会状況でしかありません(注五)。

ということは、最終景での決断は既に最初から定まっていたということですか?

その通り、最初から最後まで一貫して彼女は強い意志的で情熱的です。それは、彼女を玩具にした人に子供を授けて、その人を自由に幸福にするという殆ど宗教化される自己犠牲であります。

プッチーニはその総譜に日本の音楽を散りばめましたが、それをどのように扱いますか?

そうした東洋趣味は当時一般的でした。例えば、マーラー、シュトラウス、ツェムリンスキーやドビュシーにおいても。それは統合化された中での一つの要素なので、何も特別なコンテクストがある必要はなかった。勿論蝶々さんには、アジア的ペンタトニックや中華の打楽器や日本の鐘があります。プッチーニは極東の音楽要素の模倣をしたのではなくて、悲劇の内包をそれによって果たしていて、独逸やクロアチアやオーストラリアでの話ではないということでを示しただけなのです。


注釈五、如何に日本人が着物着立てや意匠ががおかしいと苦情してもプッチーニの芸術とは嚙み合わないことぐらいは認識しないと、お話しにならないことぐらいは自覚すべきである。(続く



参照:
鋭い視線を浴びせる 2018-07-16 | 女
「南極」、非日常のその知覚 2016-02-03 | 音
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マーラーの音楽の普遍性

2025-01-23 | 文化一般
承前)ユダヤ主義とは、宗教に限らず、文化的伝統だと響きますが。

それは聞き過ごされるものではないです。マーラーは総じてユダヤ的な音楽を書いたとする者がいますが、これは誤りと考えます。なるほどボヘミヤの少年時代に舞踏音楽隊から耳にして、一生懸命になったクレッツマー音楽の要素は確かにあります - 例えば第一交響曲の管楽音楽ですね。然しそれは創作の方法論であって、ユダヤ的ではなく普遍的なものです。

言われるように、個人的にユダヤ教とは無関係だとして、その音楽文化にも無関係と?

それも無関係。ソヴィエトでは私たちはユダヤ人であることひた隠すための全てをしなければいけませんでした。いつでもどこでも反ユダヤ主義をバスでもスーパーでも映画館でも耳にしました。非常に不愉快でした(注四)。勿論両親は私達がどこから来ているのかを思い起こさせました。然し生きたユダヤ音楽文化に触れる機会はなかったのです。

それを残念に思いますか?

勿論ですよ。きっといつかそれを経験することになるかもしれません。ただイスラエルにいる時だけは、自分はユダヤ人だと感じます。イスラエルにいるユダヤ人とは全然違うとして。

もう一度フォア―ベルクでの教育やヴィーンへと戻りましょう。指揮者教育で一体何を習ったのでしょう?

先ずはそこで指揮の技術があります。これは重要であり、しかし最初の二コマ三コマのあとでその技術を理解します。指揮とは実践によってのみ習う。管弦楽団の指揮台で始める訳ではありません。フォア―ベルクでコレプティ―トで可能な限りありとあらゆる楽器のピアノ伴奏で、お年寄りり合唱の指揮で、やらせて貰った実践で学ぶのです。ヴィーンに来てからはそこの大指揮者の練習訪問が加わります。残念ながらカラヤンとかバーンスタインを体験することはなりませんでした。それでもアーノンクールやアバド、ムーティのそれから信じられない程沢山のことを学んだのです。

例えばどんな事を?

既に自分自身指揮者としてメトで振った時のことですが、ムーティがヴェルディ「アッティラ」の稽古をつけていました。全ての練習を見学して、どのように音楽を身近にしていくのかが興味深かったです。どのように彼が、全てを歌に戻って、リズムの網糸に、そのフレージングのエレガンスに還るかです。言ったように、指揮者実践であって、理論は役に立たない。(続く)


注釈四、十五年前のインタヴューでは崩壊後のアンチセミティズムについて語っていた。則ちソヴィエト時代には水面下に抑えられていたということなのだろう。東独でも比較的容易に逮捕されていた様であるから、その治安の在り方が変わったのだろう。



参照:
インタヴュー、時間の無駄二 2016-07-24 | 歴史・時事
夜の歌のレムブラント 2022-10-22 | 音
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新春放談の管弦楽団指揮者

2025-01-16 | 文化一般
新年にあたって、ペトレンコの内輪のインタヴューが出されたようだ。シーズン途中で、本年の計画や指揮者としての心構えなどがその経験からも語られている。

五年間を経て、ベルリナーフィルハーモニカーとの時間を長く感じるかどうか?

全くそういうことはなく、その前の三年間もある。それでもいつも新鮮に驚きをもって最初の日のようである。長い関係で各々が感慨を持つような関係にはならないと思っている。お互いの協調関係は双方向なものだと感じている。いつも絶えず新たな要請を引き出す様なもの。

その要請で一体なにが生じるのか?

私自身からは管弦楽団にいい意味で限界まで探ることを要請しなければいけない。それは楽な領域から離れて、極限まで探るということになります。演奏会では一歩下がるということもあり得る。然し基本的には管弦楽団の尽きぬ潜在力を引き出すことが、最重要課題の一つと考えています。

同じく管弦楽団があなたから引き出すという様に?

表現に各々が全てを賭けるものでということ。一つのフレーズをどのように演奏するかで様々な見解がある。時間を掛けて為そうとする者、効果的に処理しようとする者。多くのオファーを受け取って、それを総譜の形に添って一つの形にしていかなければなりません。

管弦楽団の想いがあなたの想定するものと異なったらどうしますか?

練習に向かう時に悉くはっきりさせて挑みます。そうしなければ偉大な奏者の前で敗北となります。そこで合成されます。楽員の意見を入れるとして、練習で話し合います。打ち込む者ほど、より満足感も感慨も持つようになる。出来ることを示す可能性を持つことに自分自身の価値観を置きます。それを作曲家が授けたものに結びつけることです。

楽団を限界まで持って行くのに定まった技術があるのか?

楽団員を挑発するように試みます ― 特別な楽団であるということを絶えず意識させます。どのプルトにも才能豊かで輝きのある楽員が座っています。それを引き出すことこそが使命だと感じています。総譜から、作曲家の意志をまだまだ多く引き出さなければいけません。練習に挑んてよく言います、「あなた方の潜在力から一歩安全なところでいてはいけない」、そこに楽員は意欲付けられていきます。

今迄の協調関係であなたの理想とする演奏となったことがありますか?

それは、ある時は練習で、ある時は演奏会であります。奏者から大変多くの期待をしていて、それは反対方向と同じようにです。それでも私の美や統一への期待は未だ上回るということになります。それはある個所で完璧ということではなく、それは作曲家の要求、奏者の可能性を網羅するということです。仄かな幸福の時で、勿論毎晩体験できるものではないです。(続く



参照:
Kirill Petrenko über seine Arbeit mit den Berliner Philharmonikern, DCH, Januar 2025 
ドライには戻れない 2024-12-04 | 生活
決して邪魔させてはならぬ 2025-01-01 | 文化一般
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最初からの期待の程度

2025-01-14 | 文化一般
ストレージが届いた。予想以上に軽く扱い易そうだ。太いコードがついていて、その上に無理なく立つ。既に二種類のオーディオファイル6GBとヴィデオを20GB以上コピーした。全部で30GBほどを使った。転送速度はとても早く数分かからない。

週末に日本で最も有名な独逸のワイン地所シャルツホーフベルクのリースリングを開けた。2012年物でこの醸造所としてはまだ初期のグローセスゲヴェックスであって、購入する時からそれ程期待していなかった。なるほど万人が飲んでも美味しいとしか思わないワインで、風味もあって悪くはないのだが、その一等地にしては全く構成感もなくて、VDPのテロワールを活かしたグランクリュとしては物足りない。なるほどエゴンミュラーの様な甘口ではないので食事にも合わせやすいのだが、奥行きがないとなる。当時はミュラーさんのところで一緒に会食などを頻繁にしているオーナーも醸造蔵親方もなにも分かっていなかったのは確かである。

私がそこに通い出したのもそうした醸造の仕方の是正へと影響力を行使するためであって、現在は真面なグローセスゲヴェックスへと品質が上昇してきている。昨秋はこちらにもゲストとして招かれていたようだが、忙しくてオーナーに挨拶しに行く事もなかった。顔を見たら嫌なことを言われると思うだけだったかもしれない。

80%迄充電したので、先ずは走りに行ってから燃料が安くなるころにスタンドに向かった。外気温は氷点下だったので、戻ってきたら64%迄消費していた。途中で1%回生していたりしたが、ストレージを試すために森の暗闇で30分ほど駐車していたら消費した。その途上で溜まったワイン瓶をコンテナに投げ込み、帰りには安めにE5を入れられたので良かった。来週にはハイオクで初めて満タンにするつもりだ。50リットルであるから、100ユーロにはいかないが、それでも安くはない。然し、同じ量でもハイオクならば長い距離を走行可能と思うので、慣らし運転の終わりにいい回転も期待したい。冬タイヤの速度限界でどれほど静かに走れるかの評価は重要だ。

四輪駆動でも坂を上ったりすると、トランクの瓶が鳴った。トランクスルーのシートの関係からか可也音が通る。前の車はスキー用のスルーしかなかったのでやはりトランクとの遮音は大分異なる。ハッチバックではない程でも便利なだけの妥協はある。仮眠やインフォテーメンとなどすべてを思うように使いこなさない限り、注文の価値は取り返せない。

SSDは若干熱をもつのだがそれ以上には上がらない。そして転送も安定している。ハイレゾ、高画質も全く問題がない。ボードのモニターも素晴らしいと思う。音質に関してはマイバッハの後部座席で使うようにノイズキャンセルのヘッドフォーンしかないと思う。これでハノ―ファ行の道中のメディアは事足りる。

タイヤ圧は、氷点下で一旦後輪は295kPaまで下がり、前輪右も255kPaまで下がった。そして今、又最初のように300kPaと260kPaに戻った。気温だけとも言えず、これぐらいの誤差は走らせても出ることが知れた。高速でタイヤの温度が上がったりした時にまたどうなるのか、走り性能や感覚などに素直に反映されるのかどうかも興味ある所だ。

兎も角、知らない情報が沢山あって、把握して自己消化する迄にまだ暫く時間が掛かりそうである。



参照:
鏡を翳す様な仕事ぶり 2025-01-13 | 音
音楽的な制作の切り味 2025-01-04 | 文学・思想
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決して邪魔させてはならぬ

2025-01-01 | 文化一般
大晦日のジルフェスタ―コンツェルトを観た。今年は無料券が余っていたので、年内の券をそこで使った。然しそこでは引継ぎが遅れたようでディレー中継になっていた。ArteのTV中継の方が早かったかどうかは分からないが、そちらに合わせたのかもしれない。

兎も角、ラディオ中継の方が早いのはお決まりだが、それもヴィーンからのノイヤースコンツェルトの様な同時中継のディレーよりも遥かに遅れていた。確かめようがないがフランス女性が舞台でモデレートしているのでそれを外そうと遅らせてしまったのだろう。

早速始まってブラームスの協奏曲はお目当てのトリフォノフの最初からの名演となる。確かに批評であったように最初のホルンとの掛け合いからして、協奏曲でもあり、ピアノ付き交響曲でもあり、室内楽でもあり、歌曲でもある演奏で、ひとえにこのピアニストによって初めて可能になった演奏だ。

ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーがしっかり合わせたのはユジャワンぐらいしか知らないが、これだけ一体となると新境地である。一昨年かの野外コンサートでのラフマニノフとの共演が流れて仕舞ったことは不幸でしかない。

然し週末に支配人が語っていた様に、トリフォノフとの共演はペトレンコが可能な限り実現させたいと願っていて、今後もと邪魔が入らない限り重ねられるだろう。会場には元DGのマネージャーで、現在ベルリンのセネターとして文化予算大削減への道を付けた人物がスタンディングオヴェーションをしていた。奴らの考えていることはツェッチマン支配人の合衆国ツアーでの予算削減への反響としてその背後が語られていた。つまりシカゴなどでもそうした公的な援助は抑々あまり考えられなくて、商業的な成功でしか計算できないので芸術的な価値が失われてしまっているという事が語られたと話している。

要するに首を絞めておいて、最後の活き血まで吸いつくそうとしている連中の魂胆がそこに存在するということになる。我々はそうしたものを決して看過してはいけないというアピールを絶えずしていかなければ文化は守れない。ペトレンコが新年への挨拶として語ったベルリンにもあるという証明した文化そのものである。

ミラノに「ばらの騎士」を観に行けたというが、やはり超一流の座付き楽団でないとああ云う演奏は不可能だ。それは編成の大きくしている「マイスタージンガー」前奏曲においても言える。両曲とも取り分け難しいが、復活祭での「指環」に向けて練習を重ねることになるのだろう。

それでも前半のピアノ協奏曲に関しては、アルゲリッチがその打鍵をして「今まで聴いたこともない」と絶賛しているトリフォノフの演奏によって初めてその細やかな表情を管弦楽団との間で描けた。

中々容易ならざることもある訳だが、前半のこの演奏だけでも大変な価値がある。メルケル元首相やその他有名人が沢山客席に映されるのは、嘗ての様な伽藍コンサートではなくなっても恐らく友の会の習慣として色濃く残っているのだろう。


参照:
言葉通りの「お試し」ど 2024-01-01 | 音
おこちゃまライスの響ど 2024-12-31 | マスメディア批評
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信仰告白交響曲

2024-11-11 | 文化一般
来年のルツェルンの宿を予約した。同じ部屋をとった。決して満足ではなく値上がりしていて限界に近くなっている。二泊三日で何も考えずに使えるだけで、それ以上に安価で便利なところがあればと思うが、現時点では見つからない。290ユーロ程になるので、精々ガレージの場所ぐらいは確保したい。初日に入庫した時に場所取りできる方法を考えておくべきか。何かはっきりしたものを置いておけばいいかもしれない。三角コーンの安いやつでも車に積んでいくか。現在使っている三角停止枠を取っておいて、その上に何か英語で書きものでもしておけば普通は退けて迄は割り込まない。私の様な常連さんばかりでもないだろう。アイデアはある筈だ。ガレージに停めておけるならば宿代は高くはない。

さてブルックナーを再び思い出している。四楽章に関してはまだ殆ど書いていなかった。なぜだか忘れたが、どうもフガートからそしてドッペルフーガがまだまだ音楽的すっきりとしていなかったからだ。それは一部には演奏者側においてももう少し明確化しないといけないところが見つかったのと同じだ。

早いテムピで以って史上初あるべき音が鳴っているのは事実でも、もう少し自由に演奏可能となれば明らかにより音楽的に呼吸できると確信する場面があった。今回の公演で如何にスカラ座で魅せたような棒捌きが可能なのか。そこに掛かっていて、より音楽的な核心を自由自在に演奏できるのか。

9月の音楽祭での成果があまりにも歴史的であって、火曜日の演奏がその先から再開可能なのかどうか。それは繰り返すが、こちらの音楽への把握もあるのだが、やはりこの曲は演奏だけが難しいのではない。

なるほど描かれている世界感は、既に二楽章のポリリズムとしては触れているのだが、三位一体に様々に顕現する姿がもう一つ定まらないところがある。丁度マーラーに七番においてルツェルンではまだまだ早く通り過ぎて仕舞っていたのが、フランクフルトではより音楽的に把握されたのと似ているだろう。

スケルツォにおいての水車の様なそれも隠されたヨーデルに表れるそれもが、更にトリオではとなる。そこには三連符での拘り、そしてフィナーレでの12の数字とまるでバッハの作品の様に象徴的な意味が確信をもって隠されている。それが音楽的にも認知されるかどうかである。

三分割が自然に拍節として半分に割れるのは当然であり、父なる神、神の子キリスト、そして聖霊によっての三位一体によって為されるとする神学の基礎である。これだけ組み合わせている交響曲をブルックナーは他に書いていないであろう。

私が車の番号にゲンを担ぐのとはわけが違う。全く以って確信に満ちた信仰告白であり、どのような場面の感興においても神の姿をその宇宙を感じていた作曲家であることがよく知れる。今更ながら信仰告白交響曲のようにも思われる。
Bruckner: Symphony No. 5 / Petrenko · Berliner Philharmoniker 終楽章から




参照:
歩きたい綺麗な街路 2024-11-10 | 雑感
追想の音響への眼差し 2024-09-16 | 音
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謳いあげる多文化の音

2024-11-08 | 文化一般
お勉強の時間が無くなって来た。来週火曜日までにどれだけの時間を費やせるか。ブルックナー五番である、二か月前のそれを殆んど忘れかけている。演奏者も似たようなものだろう。その前に昨夜からベルリナーフィルハーモニカー合衆国ツアーの表のプログラムが演奏されている。金曜日まで三夜。そしてまたブルックナーの下稽古か。

金曜日にはラディオでも中継されるのでそれを聴く。今回の定期公演のプログラムをDLして読んでみた。ラフマニノフ作曲「死の島」は2021年1月のコロナ時に無観客で演奏されていたが、今回は他の曲のこともあるのだろう独伝統的楽器配置で演奏される。それは練習風景のヴィデオで確認した。そこでの解説として八分の五拍子が三拍子二拍子三拍子二拍子と変化していく面白さに言及されて、有名なベックリンの絵のボートが棺を乗せて島に近づく風景でもある。前回の時にも言及したが指揮者ペトレンコのお得意のリズム的な精査での自由自在である。練習風景を観るとスカラ座のあとでのこちらの意識も違うのかもしれないが、その自由闊達な棒をベルリンに持ち帰った感じがする。楽団も三年前とは全然力が抜けて演奏できている様だ。

プログラムによれば、作曲家がロシアから逃れてドレスデンに滞在時にリヒャルトシュトラウスの楽劇「ザロメ」初演でその管弦楽法に驚愕した様だった。その影響のもとにあったとされ、何時も語られる白黒デッサンのコピーでなく本物を観ていたなら最早なにも曲を書けなかっただろうとされる。

「音楽は落ち着いた月夜であり、夏場の葉がそそぎ、音楽は夕暮れの遠くからの鐘の音で、音楽は詩の姉妹であり、その母はメランコリーだ。」という作曲家の言葉が書き添えられている。

そして「死の都」の作曲者コルンゴールトのヴァイオリンの為の協奏曲が演奏される。アメリカに亡命してハリウッドで名前を挙げたことから、この協奏曲もその映画音楽のメロディーが使われていることで、「ハリウッド協奏曲」とも呼ばれているらしい。メンデルスゾーン風の一楽章では同時進行での創作である映画「アナザーダウン」から夜の風景が主題になり、第二主題として「ジュアレズ」の皇帝と皇后の主題、二楽章では「アンソニ―アドヴァース」の旋律、最終楽章のロンドと変奏では「プリンスともの貰いの子」のイントロがとなっている。
Another Dawn (1937) TRAILER - with ERROL FLYNN and Korngold's Score

ERICH WOLFGANG KORNGOLD ~ JUAREZ 1939 (Special Overture)

Anthony Adverse (1936) - Gale Sondergaard : Opera Scene

Korngold: The Prince And The Pauper Suite - 3. The Prince


三曲目は、ロンドンから第九「合唱」の様に依頼されて同じ調で書かれたドヴォルジャークの第七交響曲が演奏される。この曲がやはりボヘミヤの作曲家としてそのハプスブルク帝国の中での独自の音楽歴史を示す作品となったことは、スメタナにおける「我が祖国」の話題と繋がる。

三人の作曲家の共通点は合衆国での活動で三人三葉ながらそこには今回の大統領選で双方から話題とされたその多民族への視点に触れられている。勿論筆者のクラスティング氏にとってはそしてベルリナーフィルハーモニカーにとってはワシントン公演でも高らかにそれを奏でる心算でいただろう。然し音楽文化的には今こそその価値が問われている。



参照:
描き切れない普遍的価値 2024-09-01 | 文化一般
朝から騙された思い 2024-11-06 | 生活
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テレージア公に抱かれる

2024-10-22 | 文化一般
体調が変わってきている。何がどうかは分かりにくいが、決して否定的ではないのだが、原因がよく分からない。体重の増加と若干筋力への志向が強くなっていて、実際に筋力を使うことが増えてきている。それ以前に決してダイエットと称して熱量を抑えてきたわけではないのだが、眼精疲労とかは弱くなって、顔もふくよかになってきている。

運動量を減らしている訳でもないのだが、昼飯を食して走って帰って来たら3㎏増えていた。ここ数年なかったことだ。ブランチの取り過ぎはあるのだが、暖かかったゆえに運動量を上げてもここまで太るのはおかしい。心拍数はその息苦しさとは裏腹に162までしか上がっていなかった。これをどう分析できるか分からない。

兎も角以前よりも栄養が行き渡って吸収も多いのは活性化している感じでもあり、夏の間に太らなかった分が今頃に表れて来ている感じがする。恐らく心理的なストレスが大きかったのだろう。眼精疲労にも通じていると感じる面だ。

就寝時に気が付いていたのだが、腰の違和感が曲がられないほど酷くなった。週末からの無理な体勢などでストレスが掛っていたからだろう。十代から時々腰を痛めたことがあって、ぎっくり腰は驚いたが、その後も精々二週間ぐらいで回復することが多かった。今回は直ぐに治りそうだが、痛めて分かる腰の重要性だ。それほど普段は無意識にいられて、大抵は内臓の方に意識が向く。

そこで感じるのはタチーノからの帰りにワイン地所に寄って、陽射しの下にいてピクニックなどをしたのに眠気は帰路の極一部でしか感じられなかったのは驚きでしかない。夕方に帰宅できたことも大きいが、前夜の睡眠時間は5時間を切っていて、アルコールも入っていて、眠気とそれ程戦わずに無事帰宅できたのは眼の調子がよくなっているのと心理的なものがあったかもしれない。どうもあの頃から大分体調が変化している。

もう一つの大きな変化は、ミラノの公演以降未だに余韻に浸っていることで、これはとても珍しい。「ばらの騎士」三幕に関しては改めて纏めることになるのだが、心理的にもとても効果が甚だしかった。やはり音楽劇場の作曲家リヒャルト・シュトラウスの価値は正しく上演されて初めてその真価が問われるというやはり100年を経ての古典としての評価が漸く為されるのを実感する。

そしてそういう公演がミラノという街で為されたことも改めてその文化的な背景を感じることになった。作家ホフマンスタールがザルツブルクのバロックの街について書き尽くすのと似たようにアールヌヴォーやデコなどをつまり創作の時代をそこに見た。

スカラ座のHPにはペトレンコの紹介として、ミラノの聴衆が毎夏上タチーノを越えてザルツブルクへと通うその経路にペトレンコが西欧に出合った街フェルトキルヒがあると記する。そのバロック音楽からまだ巡り合っていなかったブルックナーやマーラーの世界を知ることになるボーデン湖のフェルドキルヘと興味を引く文章としている。そしてミラノの劇場はマリアテレージア公がクラシズムのピルマリニーに作らせた。まさしく初演1911年3月とその1月に世界初演された楽劇がセラフィン指揮で上演されていた。



参照:
瞬くその逡巡の時 2024-10-21 | 文化一般
旧年中の動画と文化的時差 2005-01-08 | 文化一般
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瞬くその逡巡の時

2024-10-21 | 文化一般
承前)パロディーとしてのヴァルツァー、ハリー・クッパ―の演出は記念碑的なものだったようだ。スカラ座で15ユーロで購入したプログラムは今回新たに編集されていて新たに書き加えられているが、イタリア語ゆえにまだ目を通し切れていない。然し評にはシュテファン・ツヴァイク著「昨日の世界」を思い起こさせるとある。その舞台映像からでもあるのだが、20世紀初頭から観たハプスブルクの欧州がこの楽劇の主題でありホフマンスタールの作品だったことは間違いがない。

ネットに上がっている初日の批評をざっと目を通した。その中でもそれに関する即ちメスト指揮でもメータ指揮でも浮かび上がらなかったこの制作の本質的なところに言及してあるものがある。

それは既にここで言及したようなオペラブッファを引き継いだ叙唱風の音楽のつけ方であったりする完璧な反面、楽団の自由度の高い演奏によってテューバによって舞台が浮きたつというように作曲者シュトラウスが望んだ闊達で決して悉く制御されている様には感じられない指揮の卓越と更に今後のミラノでの発展を期待したいという評が的確である。

同時にグロイスベェックによる歌唱と演技が最早その役のキャラクターを越えてのオックスというこの演出における人物を描き出しているということと、既に言及したペトレンコが与えるアウフタクトにおける楽団側の若干のぎこちなさというようなものでの相乗効果であったことを再認識する。

ミュンヘンからの隣のおばさんの言うような「何時ものようにやればやるほど改善されていく」というそれとはまた質の異なるものを感じていたのを思い出す。それはこの作曲自体の秀逸さとあれだけの楽器編成における喜劇性の音楽への集大成であったのを認識させる。それもなるほど評にあるように「その調的な色彩感」ともあるのだが、本年こうして楽劇「エレクトラ」からその前には「影のない女」、「サロメ」と毎年の様に聴いてきて、三幕一景の舞台裏音楽などを使った音響的な対比とその作風自体がメタ楽劇となっていることを知らしめる。

それは舞台芸術的にも3D効果のプロジェクターや舞台上での当時のオールドタイマー、そして音を軋ませる舞台展開と、この作品への俯瞰を推し進めるには十分な効果を作っていた。

そこで、2014年のザルツブルクでの初演、スカラ座での公演と、その批評をも改めて目を通しておかなければいけなくなったのだが、今回の再演では何がそうした発見を導いたかということになる。

なるほど、歌手陣においてもマルシャリンを歌ったストロヤノーヴァは往年に比べると声が出なくなっていたようだが、それでもこれだけの舞台を少なくともミラノ程度の劇場では比類のないキャスティングだった。

そしてその評価をそして何よりも初演後百年を経て漸くこの作品の真価を舞台化して改めて名実共にしたのがペトレンコ指揮だったという評価は共通しているようだ。ここにペトレンコ指揮が音楽劇場においても超一流の腕を振るったのは間違いない。(続く



参照:
Milano - Teatro alla Scala: Der Rosenkavalier, Ugo Malasoma, OperaClick Oct.20 2024
Milano, Teatro alla Scala – Der Rosenkavalier, Stefano Balbiani Recensioni, Connessi all'Opera 16 Ottobre 2024
Kirill Petrenko conquers La Scala with a splendid Rosenkavalier Laura Servidei, Bachtrack 14 Oktober 2024
開花するスカラ座の薔薇 2024-10-14 | 文化一般
再演「ばらの騎士」初日へ 2024-10-11 | 文化一般
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開花するスカラ座の薔薇

2024-10-14 | 文化一般
スカラ座訪問。先ずは駐車場からだ。無料ナヴィを使っていたが、旧市街は以前滞在していた時には絶対入らないようなところまで導かれた。進入規制で、ネットで調べていなかったら入れなかったと思う。表記が読み切れないからだ。次回も電気自動車として問題はない筈だ。そこで、実はもう一角先の駐車場をナヴィに入れていたが、より近くに見つかった。今調べてみると確かにリストから落ちているサイトがある。理由は分からないが絶好の場所で、前回も使っていないと思う。隣にテチ―ノの自宅から当夜の出演者が停めたことでそれ以上の証はないだろう。然し駐車してから場所を確かめるために地上に出てGPSを機能させた。

19時開演で、オックス男爵は16時30分に入って来たので私より丁度30分後に入庫だった。因みに出庫が23時32分だったので、26,50ユーロの料金もミュンヘンと比較しても妥当である。劇場まで250メートルほどで徒歩3分ほどだった。雨雪でもなんとかなる距離。

早めに入り口で待っていたものだから偶然に隣に座ることになるミュンヘンからの女性に顔を見られていたのだ。ドイツからの客は十分な数が確認できた。まさしくスカラ座における独墺オペラの需要はやはりドイツ語圏からの訪問者によっても支えられている面があるだろう。勿論指揮者ペトレンコのおかあさんも中央のローゲに招待されていたようだ。

目前には小さなモニターが所狭しと設置されている。そこで言語を選べる様になっている。初めて使ったが、ドイツ語を確認するには見難い。イタリア人がイタリア語を見ていても意味はない。なぜならばドイツ語の語感と歌の内容が結びつかないからだ。その点、二か国語でテロップが上に出ている方が便利なことが多い。私でも英語でコンテクストを再確認することもある。

このことに言及したのは、ミラノで10回目の「ばらの騎士」新制作だったようで、作曲家自作自演の1928年、カラヤン指揮演出の1952年、ベーム指揮の1961年、1976年のクライバー指揮シェンク演出、2016年のメータ指揮の今回のクッパ―演出で出色の出来となった理由であり、それがグロイスベック氏が語った意味だと分かった。この歴史的な背景が分かっていたらそのことを質していた。メータ指揮に瑕疵があったとは言わないが今回のペトレンコ指揮は明らかに一線を画していた。

隣のおばさんは、ミュンヘンで2017年2月11日のペトレンコのお誕生日のそれを観ていた。その上演回を質して分かったのだ。少しオタク罹っているが仕方がない。この話しが出るのは勿論今回の演出と比較してペトレンコ指揮の音楽が更によいかどうかが問われていたからだ。

結論からすると、当初の想定通りクッパ―演出の科学的な作業はこの楽劇の真価を明確にしていた。だからこそ今回のような指揮が出来たのはミュンヘンの聴衆も皆認めるだろう。それはシェンク演出が「少しお芝居がかって」というおばさんの言葉に分かるように内容の真価からは遥かに遠い演出でしかなかったからだ。

蛇足だが、クライバー指揮は素晴らしくても、音楽的な内容はカラヤン指揮のそれからそれ程には上まることはなかった。なぜならばそれはシェンク演出公演の限界であり、恐らく本人の指揮のあり方がその域を出るものではなかったことは明らかだったからでもある。(続く



参照:
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
持ち交わす共感のありか 2024-10-14 | アウトドーア・環境
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再演「ばらの騎士」初日へ

2024-10-11 | 文化一般
スカラ座での「ばらの騎士」再演初日が迫る。今回の初日へは案内ヴィデオも作られていて、先ごろ亡くなったクッパー演出へ再演出者の話しとなっている。そこには練習で振っているペトレンコのモニターなどに映る様子も小さく捉えられていて、恐らく総稽古時の音が背後に使われている。
Der Rosenkavalier - Intervista a / Interview with Derek Gimpel (Teatro alla Scala)


それを共同制作のザルツブルクに続くメータ指揮によるらしいトレイラ―の録音と比較するととても興味深く、そこにベルリンでの2020年での公演での演奏と同じ指揮が聴かれる。当然のことながら今回の新しい音源とのコントラストはとても豊かである。
Der Rosenkavalier - Trailer (Teatro alla Scala)


実はまだ音だけ流したがザルツブルクでの映像はまだ観ていない。演奏が余りにもお粗末なので動機付けが生じないからだが、是非出かける前にざっと流しておきたい。
Strauss - Der Rosenkavalier, Franz Welser-Möst and the Vienna Philharmonic


映像を観ずに同じ音だけを聴いたメータ指揮のベルリンでのここ十年程の最も成功した制作は、恐らくもう一度車中で聴いていくのだが、歌手陣がとても悪かった。恐らくミュンヘンで通じるのは実際にペトレンコ指揮で今回も歌うグロイスべックのオクセンだけである。生中継を観た時には気が付かなかったのだが、やはり小さな劇場はあの程度の歌手でも歌えるという程度だ。
DER ROSENKAVALIER - Richard Strauss (Trailer) | Zubin Mehta | Staatsoper Unter den Linden


その点、今回ミラノでもマルシャリンを歌うストヤーノヴァはメスト指揮でザルツブルクでも丁寧に歌っていて、ルーマニアのヴェテランのようだが、この演出だけでなくミュンヘンでもマルシャリンを歌ってデビューしている。ペトレンコが断るほどの理由はなく、新たな大物への予算もなかったのだろう。ベルリンの制作に比較すると、ザルツブルクの楽団は酷いのだが、歌手陣は揃っている。

一幕に続いて、二幕においても二幕のゆったりさで全く異なる書法もあって、より成果は上がっているかもしれない。その分演出を確認はしていないが若干ダレルところがあるかもしれない。しかしカラヤンのテムポルバートへの批判的な面もあるのか、ベクトルが違うようだ。これも演出の意思が出ているのだろう。逆に三幕においてはもう一息一幕と同様に細かなアンサムブルなど必要とされるところであり、若干粗くなっている。

クッパ―演出の一幕をちらちらの見ているが、その音楽同様にとても細かな演出が行われていて、音楽そのものに劇が活かされている。シェンクの演出をして永遠にあれがいいという放言も見かけるが、現在の水準からすると音楽劇場としてお話しにならないだけでなくて、そのもの音楽の精妙さやその書法を内容を全く反映していない。

現在においては舞台上の一挙一動が科学的に演出されるわけだが、それはそのもの奈落の音楽も歌手の歌もその程度で通ったということでしかない。追々この楽劇の創作の真髄がそのような制作では全く反映されない公演となる。

そこに気が付いただけでも今回の制作の再演への期待がとても高まる。全然そんなちゃちなミュージカルになるになるような創作ではないのは今回よく分かった。豊かでたおやかな歌と精緻な音楽運びが為されるものと疑わない。



参照:
拙いシェンク演出よりも 2024-10-08 | 文化一般
ミラノ2016年初日シリーズ 2024-09-20 | 文化一般
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